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【連作短編054】 蟻 全37話 ―悲しみの有無、不明―  作者: マチャオ (Machao)


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第三十二話 村瀬:わからないことが、わかっているから

わからないことが、わかっているから

 村瀬から連絡が来たのは、渡した翌々日だった。

「先生、少し聞いていいですか」

「何だ」

「紙の三つ目の項目、女王と目が合った時間、というやつです」

「そうだ」

「どのくらいの時間でしたか」

「わからない。体感では長かった。記録では数秒だったと思う」

「女王は何をしていましたか」

「触角を伸ばしていた。私を読んでいた」

「先生は何をしていましたか」

 夏生は少し考えた。

「見ていた」

「それだけですか」

「それだけだ」

 しばらく返信がなかった。

「先生」

「何」

「私も、似たことがありました」

 夏生は少し止まった。

「いつだ」

「四回目です。幼虫室を通り過ぎたとき、保育係の一匹が止まりました。私を見ました。長かったです」

「記録したか」

「していません。気のせいだと思いました」

「気のせいではないかもしれない」

 また間があった。

「先生、なぜ今まで言わなかったんですか」

「お前が言わなかったからだ」

 返信が来なかった。

 五分後に来た。

「そうですね」


---


 翌日、村瀬が来た。

 顔色が悪かった。眠れていない顔だった。


「どうした」

「夢を見ました」

「土の中か」

「はい。ただ、今回は違いました」

 夏生は村瀬を見た。

「いつもは歩いていました。今回は、止まっていました」

「止まっていた」

「はい。どこかの部屋にいました。動けませんでした」

「解体室か」

「わかりません。暗かったです。ただ、誰かがいました」

「誰かとは」

「わかりません」村瀬は夏生を見た。「ただ、先生じゃなかったです」

 夏生は何も言わなかった。

「田所さんでもなかったです」

「それ以外にいたことがあるか」

「ありません。入ったのは私と先生と田所さんだけです」

 夏生はしばらく、村瀬を見た。

「夢の中の誰かが、何かしたか」

 村瀬は少し考えた。

「触角を伸ばしました」

 夏生は動かなかった。

「読まれた気がしました」


---


 しばらく、二人とも黙っていた。


「先生」

「何」

「これは何ですか」

 夏生は少し考えた。

「わからない」

「わからないですか」

「そうだ。ただ、記録する」

「記録して、どうなりますか」

「わからない」

 村瀬は少し笑った。おかしな笑い方ではなかった。

「先生って、わからないって言いますよね。ずっと」

「そうだな」

「最初は、それが不安でした」

「今は」

「今は、それでいいと思います」村瀬は少し間を置いた。「わからないことが、わかっているから」


---


 夕方、田所から連絡が来た。

「先生、少し報告があります」

「何だ」

「匂いが、昨夜から消えました」

 夏生は少し止まった。

「ゼロか」

「はい。今朝も、今もゼロです」

「それ以外の変化は」

「夢を見なくなりました。一週間ほど前から」

「それ以外は」

「特にないです」田所は少し間を置いた。「ただ、先生」

「何だ」

「静かです」

「匂いがないから静かか」

「それだけではないです」田所はしばらく考えた。「何かが、終わった気がします」

 夏生は何も言えなかった。

「悪い意味ではないです。ただ、終わった気がします」


---


 田所との通話が終わった後、夏生はノートを開いた。

 今日の日付。

 《村瀬、夢の中で触角を伸ばされる。見知らぬ個体。》

 次の行。

 《田所、匂いゼロ。夢消失。「何かが終わった」と発言。》


 二行を並べて見た。

 村瀬に何かが来ている。

 田所から何かが終わっている。

 同じ時期に、逆の方向で。


 なぜそうなのかは、わからなかった。

 ただ、並べると、何かが見えた気がした。

 見えた気がして、止まった。


 昨夜の「止まり」とは違った。

 今日の止まりは、怖くなかった。

 何かの手前にいる、という感覚だった。


 ペンを取った。

 もう一行書いた。

 《手前にいる。》


 その三文字を見た。

 何の手前かは、書かなかった。

 書けなかった、ではなかった。

 まだ、だった。


 ハルが来た。

 膝に乗らなかった。

 テーブルの上に乗った。

 夏生のノートの前に座った。

 夏生を見た。


 夏生はハルを見た。

「お前には見えるか」


 ハルは答えなかった。

 ただ、夏生を見ていた。

 その目が、いつもの目だった。

 いつもの目で、ただ、見ていた。


 夏生はハルの頭に手を置いた。

 温かかった。

 それだけが、今夜の確かなものだった。

村瀬の夢に、見知らぬ触角が伸びました。

田所からは、匂いも夢も消えました。

同じ時期に、逆の方向で。

夏生は二行を並べて、「手前にいる」とだけ書きました。

ハルは、ノートの前に座っていました。

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