第三十一話 紙:軽くなったことが、寂しかった。
軽くなったことが、寂しかった。
村瀬が来たのは、木曜日だった。
特に用事があったわけではなかった。データの整理を手伝うためだった。
二人で並んでモニターを見た。
田所の七回分と、夏生の記録と、村瀬の記録を、一つの表にまとめた。
二時間かかった。
表が完成した。
村瀬が画面を見た。
「これ、論文になりますか」
「なる」と夏生は言った。
「どのくらいかかりますか」
「一年か、二年か」
村瀬は少し考えた。
「先生、私も名前を入れていいですか」
「当然だ」
村瀬は何も言わなかった。少し、顔が動いた。
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村瀬がコーヒーを淹れた。
研究室にコーヒーメーカーがあることを、夏生は久しぶりに思い出した。
二人で飲んだ。
ハルが来た。
村瀬の足元に来た。村瀬が見た。ハルは村瀬を見なかった。夏生を見た。
「この猫、ずっといますね」と村瀬は言った。
「そうだ」
「先生が研究を始める前からいるんでしたよね」
「そうだ」
「研究が終わっても、いますかね」
夏生はハルを見た。
「わからない」
村瀬はコーヒーを飲んだ。
「いてほしいですね」と言った。
夏生は何も言わなかった。
同じことを思った。
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村瀬が帰る前に、夏生はノートを開いた。
折った紙を、二枚、取り出した。
村瀬を見た。
村瀬は夏生を見た。
「渡したいものがある」と夏生は言った。
村瀬は何も言わなかった。
一枚目を渡した。
問いの紙だった。《装置が田所に合わせた》《では装置は何に合わせたのか》《田所に来た「何か」は、装置にも届いたのか》
村瀬は読んだ。
読み終えて、夏生を見た。
「先生は、答えが出ましたか」
「出ていない」
「出ると思いますか」
「わからない」
村瀬はもう一度、紙を見た。
「これを渡してくれたのは」
「お前にも考えてほしいからだ」
村瀬はうなずいた。紙を折って、ポケットに入れた。
夏生は二枚目を見た。
渡した。
村瀬が開いた。
読んだ。
三つの項目があった。日付と、短い内容。
夢の中の回。
一人で入った回。
女王と目が合った時間。
村瀬はしばらく、紙を見た。
「先生」
「何」
「なぜ今、渡してくれたんですか」
夏生は少し考えた。
「渡せる気がしたから」
「前は渡せなかったんですか」
「そうだ」
「なぜ」
夏生はしばらく考えた。
「自分だけのものにしておきたかった」
「それが変わりましたか」
「変わった」
「なぜ変わりましたか」
夏生は答えなかった。
しばらく、答えを探した。
「田所が、私の行けなかった場所へ行ったからかもしれない」
村瀬は何も言わなかった。
「私が持っていても、意味が変わった気がした」
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村瀬が帰った。
ドアが閉まった。
夏生はノートを開いた。
折った紙が、もうなかった。
ノートが、少し薄くなった気がした。
今日の日付を書いた。
《村瀬に、二枚の紙を渡した。》
次の行。
《軽くなった。》
次の行。
《軽くなったことが、寂しかった。》
三行目を少し見た。
寂しい、という言葉が出たことを、少し驚いた。
正確だった。
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ハルが来た。
膝に乗った。
夏生はハルの背中に手を置いた。
土の匂いがした。
一だった。
変わらなかった。
変わらないことが、今日は少し、よかった。
研究を始める前から、ここにいる。
ずっと、ここにいる。
何を知っているのか、夏生にはわからなかった。
ただ、ここにいた。
それだけで、今夜は、十分だった。
村瀬と二人で、データを一つの表にまとめた夜。論文になる、と夏生は言いました。
帰り際、夏生は折った二枚の紙を村瀬に渡します。ずっと自分だけのものにしておきたかったもの。なぜ今、と問われて、夏生は答えを探します。
ノートが少し薄くなり、軽くなった。そのことが、寂しかった。
研究が終わっても、ハルはいるだろうか。いてほしい、と村瀬は言いました。




