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【連作短編054】 蟻 全37話 ―悲しみの有無、不明―  作者: マチャオ (Machao)


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第三十一話 紙:軽くなったことが、寂しかった。

軽くなったことが、寂しかった。

 村瀬が来たのは、木曜日だった。

 特に用事があったわけではなかった。データの整理を手伝うためだった。


 二人で並んでモニターを見た。

 田所の七回分と、夏生の記録と、村瀬の記録を、一つの表にまとめた。

 二時間かかった。


 表が完成した。

 村瀬が画面を見た。

「これ、論文になりますか」

「なる」と夏生は言った。

「どのくらいかかりますか」

「一年か、二年か」

 村瀬は少し考えた。

「先生、私も名前を入れていいですか」

「当然だ」

 村瀬は何も言わなかった。少し、顔が動いた。


---


 村瀬がコーヒーを淹れた。

 研究室にコーヒーメーカーがあることを、夏生は久しぶりに思い出した。

 二人で飲んだ。


 ハルが来た。

 村瀬の足元に来た。村瀬が見た。ハルは村瀬を見なかった。夏生を見た。


「この猫、ずっといますね」と村瀬は言った。

「そうだ」

「先生が研究を始める前からいるんでしたよね」

「そうだ」

「研究が終わっても、いますかね」

 夏生はハルを見た。

「わからない」

 村瀬はコーヒーを飲んだ。

「いてほしいですね」と言った。

 夏生は何も言わなかった。

 同じことを思った。


---


 村瀬が帰る前に、夏生はノートを開いた。

 折った紙を、二枚、取り出した。


 村瀬を見た。

 村瀬は夏生を見た。


「渡したいものがある」と夏生は言った。

 村瀬は何も言わなかった。


 一枚目を渡した。

 問いの紙だった。《装置が田所に合わせた》《では装置は何に合わせたのか》《田所に来た「何か」は、装置にも届いたのか》


 村瀬は読んだ。

 読み終えて、夏生を見た。

「先生は、答えが出ましたか」

「出ていない」

「出ると思いますか」

「わからない」

 村瀬はもう一度、紙を見た。

「これを渡してくれたのは」

「お前にも考えてほしいからだ」

 村瀬はうなずいた。紙を折って、ポケットに入れた。


 夏生は二枚目を見た。

 渡した。


 村瀬が開いた。

 読んだ。

 三つの項目があった。日付と、短い内容。


 夢の中の回。

 一人で入った回。

 女王と目が合った時間。


 村瀬はしばらく、紙を見た。

「先生」

「何」

「なぜ今、渡してくれたんですか」

 夏生は少し考えた。

「渡せる気がしたから」

「前は渡せなかったんですか」

「そうだ」

「なぜ」

 夏生はしばらく考えた。

「自分だけのものにしておきたかった」

「それが変わりましたか」

「変わった」

「なぜ変わりましたか」

 夏生は答えなかった。

 しばらく、答えを探した。

「田所が、私の行けなかった場所へ行ったからかもしれない」

 村瀬は何も言わなかった。

「私が持っていても、意味が変わった気がした」


---


 村瀬が帰った。

 ドアが閉まった。


 夏生はノートを開いた。

 折った紙が、もうなかった。

 ノートが、少し薄くなった気がした。


 今日の日付を書いた。

 《村瀬に、二枚の紙を渡した。》

 次の行。

 《軽くなった。》

 次の行。

 《軽くなったことが、寂しかった。》


 三行目を少し見た。

 寂しい、という言葉が出たことを、少し驚いた。

 正確だった。


---


 ハルが来た。

 膝に乗った。

 夏生はハルの背中に手を置いた。


 土の匂いがした。

 一だった。

 変わらなかった。


 変わらないことが、今日は少し、よかった。


 研究を始める前から、ここにいる。

 ずっと、ここにいる。

 何を知っているのか、夏生にはわからなかった。

 ただ、ここにいた。


 それだけで、今夜は、十分だった。

村瀬と二人で、データを一つの表にまとめた夜。論文になる、と夏生は言いました。

帰り際、夏生は折った二枚の紙を村瀬に渡します。ずっと自分だけのものにしておきたかったもの。なぜ今、と問われて、夏生は答えを探します。

ノートが少し薄くなり、軽くなった。そのことが、寂しかった。

研究が終わっても、ハルはいるだろうか。いてほしい、と村瀬は言いました。

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