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【連作短編054】 蟻 全37話 ―悲しみの有無、不明―  作者: マチャオ (Machao)


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第二十九話 告げる:田所は、私が行けなかった場所へ行った。

田所は、私が行けなかった場所へ行った。

 翌日、村瀬が来た。

 顔色が悪かった。

「すみません、昨日」

「何があった」

 村瀬は少し間を置いた。

「夢を見ました。土の中の夢です。朝、起き上がれなかった」

 夏生は村瀬を見た。

「匂いは」

「三でした。久しぶりに三になりました」

「今は」

「二です」

 夏生は何も言わなかった。

「田所さんのデータ、見ました。送ってくれたやつ」

「そうだ」

「波形、見ました」

「そうだ」

「先生、あれは」

「わからない」と夏生は言った。「ただ、次で止める」

 村瀬は少し目を細めた。

「田所さんには言いましたか」

「今日言う」


---


 田所が来た。

 村瀬を見た。

「昨日、大丈夫でしたか」

「はい」と村瀬は言った。短かった。

 田所はそれ以上聞かなかった。


 三人で座った。

 夏生が話した。


「昨日のデータを見た。脳波が、これまでの記録にない波形になった」

「はい」と田所は言った。「私も、いつもと違うと感じました」

「それと、帰還に時間がかかった」

「五分ほどでしたか」

「そうだ」

 田所は夏生を見た。

「止めますか」

「次で止める」

 田所は少し考えた。

「次が最後ということですか」

「そうだ」

「理由を聞いていいですか」

「データとして、十分集まった。それ以上続けることのリスクが、得られるものを上回る」

 田所はうなずいた。

 村瀬は夏生を見た。夏生は田所を見た。


「田所」

「はい」

「お前は納得しているか」

 田所は少し間を置いた。

「納得、というより」田所は少し考えた。「先生が決めたなら、そうします」

「お前自身はどう思う」

「続けたいです」田所は静かに言った。「ただ、続けたい理由が、研究のためなのか、向こうに戻りたいからなのか、自分でもわかりません」

 夏生は何も言わなかった。

「わからないなら、止めた方がいいと思います」と田所は言った。「自分で」


---


 準備をしながら、村瀬が夏生の隣に来た。

「先生」

「何」

「田所さん、怖がっていないのに、自分で止めると言いました」

「そうだ」

「どういうことだと思いますか」

 夏生は少し考えた。

「怖がっていないからこそ、判断できるのかもしれない」

「怖がっていたら判断できないということですか」

「怖がっていたら、止まりたいという気持ちが邪魔をする。田所には、それがない」

「先生は」

「私は」夏生は少し止まった。「怖かったから、判断が遅れた」

 村瀬は何も言わなかった。


---


 七回目が始まった。


 心拍は六十二だった。

 脳波変容は三分だった。

 手指運動は九分だった。


 二十分で、体が動いた。

 昨日より大きかった。

 肩が、頭が、上半身が、何かに引かれるように傾いた。

 村瀬が立ち上がった。夏生が手で制した。


 三十分で、昨日の波形が出た。

 規則的な、人間ではない波形。

 前回と同じだった。

 ただ、今回は違うことがあった。


 記録装置の出力が、わずかに乱れていた。

 田所の脳波が変わったのではなかった。

 装置側の数値が、田所の波形に引っ張られるように揺れた。

 一秒、二秒、戻った。


 夏生は記録した。

 手が少し止まった。

 田所の脳波が何かに合わせているのではなかった。

 装置が、田所に合わせていた。


 四十分で、田所の体が止まった。

 動かなくなった。

 完全に、止まった。


 息は正常だった。心拍は正常だった。

 脳波は、規則的なままだった。


 夏生は切った。


---


 田所が戻るのに、十分かかった。


 目が開いた。天井を見た。夏生を見た。村瀬を見た。

 ゆっくりと、起き上がった。


 何も言わなかった。

 しばらく、何も言わなかった。


「田所」

「はい」

「どこにいた」

 田所は少し考えた。

「前回と同じ場所でした」

「また呼ばれたか」

「呼ばれました」田所は少し間を置いた。「今回は、返事をしました」

 村瀬が動いた。

「返事」と夏生は言った。

「はい。どうやって返事をしたのかはわかりません。ただ、返しました」

「向こうから何かあったか」

 田所は少し考えた。

「来ました」

「何が」

「わかりません」田所は夏生を見た。「ただ、来ました。それから、先生の声が聞こえて、戻ってきました」


 夏生は何も言えなかった。


---


 田所が帰った。

 村瀬が残った。


 二人で、しばらく何も言わなかった。


「先生」と村瀬が言った。

「何」

「田所さんは、戻れましたか」

 夏生は少し考えた。

「今日は戻れた」

「次は」

「ない」

 村瀬はうなずいた。


 夏生はノートを開いた。

 今日の日付。

 《七回目。四十分。脳波、前回を上回る深度。記録装置の出力乱れ確認——田所側ではなく装置側。帰還十分。「返事をした」「何かが来た」と発言。》

 次の行。

 《田所の潜入、終了。》


 そこで止まった。

 終了、という言葉を見た。

 研究者の言葉だった。正確だった。


 もう一行書いた。

 《田所は、私が行けなかった場所へ行った。》


 その一行を、長い時間見た。

 消さなかった。


 ハルが来た。

 今日は膝に乗った。

 夏生はハルを見た。

 ハルは夏生を見た。


 何も言わなかった。

 それで、よかった。

次で止める、と夏生は告げました。田所は自分から言います。続けたい理由が、研究のためなのか、向こうに戻りたいからなのか、わからない。わからないなら、止めた方がいい、と。

七回目。記録装置の数値が、田所の波形に引っ張られるように揺れました。田所が装置に合わせているのではなく、装置が田所に合わせていた。

戻った田所は言います。「今回は、返事をしました」。

ハルは膝に乗り、何も言わず、夏生を見ていました。

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