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【連作短編054】 蟻 全37話 ―悲しみの有無、不明―  作者: マチャオ (Machao)


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第二十八話 限界:私は一度も呼ばれなかった。

私は一度も呼ばれなかった。

 六回目の朝、村瀬は来なかった。

 連絡があった。

「今日は行けません。すみません」

 それだけだった。


 夏生は田所に連絡した。

「アシスタントが来られない。延期できるか」

 すぐ返信が来た。

「このまま続けます」

 夏生は少し考えた。

「わかった」と送った。


---


 田所が来た。

 いつもと同じ顔だった。

「村瀬さん、大丈夫ですか」

「わからない」

「先生、一人で監視できますか」

「やったことがある」

 田所はうなずいた。それ以上聞かなかった。


 ヘルメットを自分で取った。

 電極を自分で巻いた。

 夏生が確認した。正確だった。


「怖いか」と夏生は聞いた。

 田所は少し考えた。

「期待しています」

 夏生は何も言わなかった。

 スイッチを入れた。


---


 心拍は六十四だった。

 脳波変容は四分で起きた。

 手指運動は十一分で始まった。


 夏生は記録した。数字だけ書いた。


 二十分で、脳波が深くなった。

 田所の体が動いた。肩が、頭が、今日はより大きく動いた。

 椅子の上で、体が傾いた。


 夏生はキーボードに手を乗せた。

 数字を見た。

 安定していた。


 三十五分で、脳波がこれまで見たことのない形になった。

 夏生の記録にも、村瀬の記録にも、ない形だった。


 夏生は止まった。

 記録する手が止まった。

 見た。


 波形が、規則的だった。

 人間の脳波ではなかった。

 何かに同期していた。


---


 四十分で、夏生は切ろうとした。

 手がキーボードの上にあった。

 数字を見た。

 安定していた。

 波形は規則的なままだった。


 切らなかった。


 父の論文の一文が浮かんだ。

 「巣の記憶は個体ではなくコロニー全体に宿る」

 田所の脳波が、何かに同期していた。

 何に同期しているのか、夏生にはわかった気がした。

 わかった気がして、手が止まった。


 五十分で、切った。


---


 田所が戻らなかった。


 目を開けなかった。

 息は正常だった。心拍は正常だった。

 ただ、目を開けなかった。


「田所」

 返事がなかった。

「田所」

 田所の手が動いた。

 椅子の縁をなぞる、あの動きだった。


「田所、聞こえるか」

 手が止まった。

 ゆっくりと、目が開いた。

 天井を見た。

 夏生を見た。


「どこにいた」と夏生は聞いた。

 田所は少し間を置いた。

「わかりません」

「わからない」

「いつもと違う場所でした。通路ではなかった」

「どんな場所だ」

 田所は少し考えた。

「広かったです。暗かった。匂いが、強かった」

「他には」

「たくさんいました」

「働きアリか」

「わかりません。ただ、たくさんいた」

 田所はゆっくり起き上がった。五分かかった。

「先生」

「何」

「私は、呼ばれた気がしました」


---


 田所が帰った後、夏生は椅子に座ったまま動かなかった。


 呼ばれた。

 田所がそう言った。

 怖がっていない人間が、怖がらないまま深く入って、呼ばれた。


 夏生は自分の記録を開いた。

 全部の回を見た。

 自分は一度も、呼ばれた、とは感じなかった。

 合っていた。自然だった。迷子になりかけた。それだけだった。


 田所は違った。

 最初から違った。


 村瀬に連絡した。

「田所の六回目が終わった。問題がある。明日来られるか」

 返信が来た。

「行きます」


 夏生はノートを開いた。

 今日の日付。

 《六回目。五十分。脳波、未知の波形。何かに同期。帰還に時間を要した。「呼ばれた」と発言。》

 次の行。

 《私は一度も呼ばれなかった。》

 次の行。

 《田所を、次で止める。》


 三行目を、少し見た。

 消さなかった。


 ハルが来た。

 装置の椅子に乗った。

 夏生を見た。


 夏生はハルを見た。

「お前には聞こえるか」


 ハルは答えなかった。

 ただ、夏生を見ていた。

 いつもと違う目だった。

 何が違うのか、また、説明できなかった。

村瀬のいない朝、夏生は一人で田所の六回目を見守ります。脳波は、夏生も村瀬も見たことのない形になりました。人間のものではない、何かに同期した規則的な波形です。

戻ってきた田所は言いました。「呼ばれた気がしました」。

夏生は自分の記録を全部見返します。自分は一度も、呼ばれなかった。田所は、最初から違った。

ハルはいつもと違う目で、夏生を見ていました。

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