第二十七話 測る:止める理由は十分ある。止めなかった。
止める理由は十分ある。止めなかった。
五回目の前に、村瀬が来た。
田所はまだ来ていなかった。
「先生、今日止めますか」
「まだ決めていない」
「何回まで続けるつもりですか」
「わからない」
村瀬は少し間を置いた。
「先生が私を止めたのは八回目でした」
「そうだ」
「田所さんは速い。八回目まで待つと、私の八回目より深いところにいます」
夏生は村瀬を見た。
「わかってる」
「じゃあ」
「じゃあ、何が適切かがわからない」と夏生は言った。「怖がっている人間と、怖がっていない人間の、どちらが深くなるか、データがない」
村瀬は何も言わなかった。
「田所が基準になる」
「田所さんを使って、ということですか」
「そうだ」
村瀬はしばらく黙った。
「田所さんは、それを知っていますか」
「知っている。同意している」
村瀬はそれ以上何も言わなかった。
---
田所が来た。
いつもと同じ顔だった。
ヘルメットを自分で取った。
「今日で五回目だ」と夏生は言った。
「はい」
「何か変化はあったか。前回からの一週間で」
「匂いが、夜に少し強くなります」
「強さは」
「二か三だと思います」
「それ以外は」
「夢を見ました」
夏生は田所を見た。
「どんな夢だ」
「土の中でした。ただ、歩いていました。それだけです」
「怖かったか」
「いいえ」
夏生は記録した。
《一週間の変化。匂い夜間二~三。夢、土中歩行。恐怖なし。》
---
五回目は六十分にした。
前回より十分長かった。
心拍は六十七だった。
脳波変容は六分だった。
手指運動は十四分だった。
全部、前回より早かった。
四十分を過ぎたころ、田所の体が動いた。
手だけではなかった。
肩が動いた。頭が、わずかに傾いた。
体全体が、何かに合わせていた。
村瀬が夏生の隣に来た。何も言わなかった。
夏生も何も言わなかった。
二人でモニターを見た。
脳波が、これまでより深かった。
夏生の九回目と、似ていた。
五回目で。
夏生はキーボードに手を乗せた。
置いたまま、数字を見た。
数字は安定していた。
田所の顔に、表情はなかった。
切らなかった。
---
六十分で切った。
田所が目を開けた。
天井を見た。
起き上がらなかった。
三分、横になっていた。
夏生は待った。
起き上がった。夏生を見た。村瀬を見た。
「今日は」と田所は言った。「少し、違いました」
「どこが」
「帰ってきたくなかった」
村瀬が動いた。気配だけだった。
「帰ってきたくなかった、というのは」と夏生は聞いた。
「戻る必要がないと思いました。向こうにいればいいと」
「怖かったか」
「いいえ」
夏生は田所を見た。
「今はどうだ」
「今は、ここにいます」田所は少し考えた。「ここにいますが、向こうの方が、静かでした」
---
村瀬が田所を送り出した。
戻ってきて、ドアを閉めた。
夏生を見た。
「先生」
「わかってる」
「止めますか」
夏生はモニターのデータを見ていた。
「田所が今日言ったこと、聞いたか」
「聞きました」
「向こうの方が静かだった、と言った」
「はい」
「私は、向こうの方が合っていると感じた。田所は、向こうの方が静かだと感じた」
村瀬は少し考えた。
「違いますね」
「そうだ。どちらが深いかはわからない。ただ、違う」
「だから止めないということですか」
「だから、もう少し見る」
村瀬は何も言わなかった。
「次で止めるかもしれない。次の次かもしれない。ただ、今日じゃない」
「わかりました」と村瀬は言った。
声は平らだった。
納得している声ではなかった。
それでも従う声だった。
---
夜、ノートを開いた。
今日の日付。
《五回目。六十分。脳波、私の九回目相当。帰還後三分起立せず。「帰ってきたくなかった」「向こうの方が静かだった」と発言。》
次の行。
《恐怖なし、継続。》
次の行。
《止める理由は十分ある。止めなかった。》
三行目を少し見た。
自分が村瀬に言われた言葉を、今、自分が書いていた。
ハルが来た。
膝ではなく、ノートの上に乗った。
夏生はどかさなかった。
ハルの下に、今日の記録があった。
読めなくなった。
それでいい気がした。
ただ、頭の中には残っていた。
田所は五回目で、自分の九回目相当に達した。
怖がらない人間の同化速度。
これは父の論文にも、どこにも、ない数字だった。
誰も見たことがないデータだった。
それを、今、自分だけが持っていた。
止める理由は十分あった。
それでも、この数字は、止めたら消えた。
田所が戻れば、戻る前の田所には戻れない。
次の五回目は、もうない。
夏生はハルの背中に手を置いた。
温かかった。
何も言わなかった。
五回目の潜入で、田所は夏生の九回目に並びました。戻ってきた田所は言います。「帰ってきたくなかった」「向こうの方が静かでした」。
止める理由は十分にある。けれど、この数字は誰も持っていないものでした。止めれば、二度と得られない。
かつて村瀬に言われた言葉を、今、夏生は自分で書いています。
ハルはノートの上に乗り、今日の記録を隠しました。




