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【連作短編054】 蟻 全37話 ―悲しみの有無、不明―  作者: マチャオ (Machao)


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第二十七話 測る:止める理由は十分ある。止めなかった。

止める理由は十分ある。止めなかった。

 五回目の前に、村瀬が来た。

 田所はまだ来ていなかった。


「先生、今日止めますか」

「まだ決めていない」

「何回まで続けるつもりですか」

「わからない」

 村瀬は少し間を置いた。

「先生が私を止めたのは八回目でした」

「そうだ」

「田所さんは速い。八回目まで待つと、私の八回目より深いところにいます」

 夏生は村瀬を見た。

「わかってる」

「じゃあ」

「じゃあ、何が適切かがわからない」と夏生は言った。「怖がっている人間と、怖がっていない人間の、どちらが深くなるか、データがない」

 村瀬は何も言わなかった。

「田所が基準になる」

「田所さんを使って、ということですか」

「そうだ」

 村瀬はしばらく黙った。

「田所さんは、それを知っていますか」

「知っている。同意している」

 村瀬はそれ以上何も言わなかった。


---


 田所が来た。

 いつもと同じ顔だった。

 ヘルメットを自分で取った。


「今日で五回目だ」と夏生は言った。

「はい」

「何か変化はあったか。前回からの一週間で」

「匂いが、夜に少し強くなります」

「強さは」

「二か三だと思います」

「それ以外は」

「夢を見ました」

 夏生は田所を見た。

「どんな夢だ」

「土の中でした。ただ、歩いていました。それだけです」

「怖かったか」

「いいえ」

 夏生は記録した。

《一週間の変化。匂い夜間二~三。夢、土中歩行。恐怖なし。》


---


 五回目は六十分にした。

 前回より十分長かった。


 心拍は六十七だった。

 脳波変容は六分だった。

 手指運動は十四分だった。

 全部、前回より早かった。


 四十分を過ぎたころ、田所の体が動いた。

 手だけではなかった。

 肩が動いた。頭が、わずかに傾いた。

 体全体が、何かに合わせていた。


 村瀬が夏生の隣に来た。何も言わなかった。

 夏生も何も言わなかった。

 二人でモニターを見た。


 脳波が、これまでより深かった。

 夏生の九回目と、似ていた。

 五回目で。


 夏生はキーボードに手を乗せた。

 置いたまま、数字を見た。

 数字は安定していた。

 田所の顔に、表情はなかった。


 切らなかった。


---


 六十分で切った。

 田所が目を開けた。

 天井を見た。

 起き上がらなかった。


 三分、横になっていた。

 夏生は待った。


 起き上がった。夏生を見た。村瀬を見た。

「今日は」と田所は言った。「少し、違いました」

「どこが」

「帰ってきたくなかった」

 村瀬が動いた。気配だけだった。

「帰ってきたくなかった、というのは」と夏生は聞いた。

「戻る必要がないと思いました。向こうにいればいいと」

「怖かったか」

「いいえ」

 夏生は田所を見た。

「今はどうだ」

「今は、ここにいます」田所は少し考えた。「ここにいますが、向こうの方が、静かでした」


---


 村瀬が田所を送り出した。

 戻ってきて、ドアを閉めた。

 夏生を見た。


「先生」

「わかってる」

「止めますか」

 夏生はモニターのデータを見ていた。

「田所が今日言ったこと、聞いたか」

「聞きました」

「向こうの方が静かだった、と言った」

「はい」

「私は、向こうの方が合っていると感じた。田所は、向こうの方が静かだと感じた」

 村瀬は少し考えた。

「違いますね」

「そうだ。どちらが深いかはわからない。ただ、違う」

「だから止めないということですか」

「だから、もう少し見る」

 村瀬は何も言わなかった。

「次で止めるかもしれない。次の次かもしれない。ただ、今日じゃない」

「わかりました」と村瀬は言った。

 声は平らだった。

 納得している声ではなかった。

 それでも従う声だった。


---


 夜、ノートを開いた。

 今日の日付。

 《五回目。六十分。脳波、私の九回目相当。帰還後三分起立せず。「帰ってきたくなかった」「向こうの方が静かだった」と発言。》

 次の行。

 《恐怖なし、継続。》

 次の行。

 《止める理由は十分ある。止めなかった。》


 三行目を少し見た。

 自分が村瀬に言われた言葉を、今、自分が書いていた。


 ハルが来た。

 膝ではなく、ノートの上に乗った。

 夏生はどかさなかった。

 ハルの下に、今日の記録があった。

 読めなくなった。

 それでいい気がした。


 ただ、頭の中には残っていた。

 田所は五回目で、自分の九回目相当に達した。

 怖がらない人間の同化速度。

 これは父の論文にも、どこにも、ない数字だった。

 誰も見たことがないデータだった。

 それを、今、自分だけが持っていた。


 止める理由は十分あった。

 それでも、この数字は、止めたら消えた。

 田所が戻れば、戻る前の田所には戻れない。

 次の五回目は、もうない。


 夏生はハルの背中に手を置いた。

 温かかった。

 何も言わなかった。

五回目の潜入で、田所は夏生の九回目に並びました。戻ってきた田所は言います。「帰ってきたくなかった」「向こうの方が静かでした」。

止める理由は十分にある。けれど、この数字は誰も持っていないものでした。止めれば、二度と得られない。

かつて村瀬に言われた言葉を、今、夏生は自分で書いています。

ハルはノートの上に乗り、今日の記録を隠しました。

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