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【連作短編054】 蟻 全37話 ―悲しみの有無、不明―  作者: マチャオ (Machao)


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第二十六話 加速:止める信号が、田所の中にはない。

止める信号が、田所の中にはない。

 田所の二回目は、一週間後だった。


 心拍は初回より低かった。七十三だった。

 脳波変容は十分で起きた。初回より五分早かった。

 手指運動は二十分で始まった。初回より八分早かった。

 パターンは同じだった。触角ではない、あの動きだった。


 五十分で切った。

 田所が起き上がった。すぐ起き上がった。


「どうだった」

「同じでした」

「同じか」

「前回と同じです。自然でした」

 夏生は何も言わなかった。

「変化はありましたか」と田所が聞いた。

「データを見てから話す」と夏生は言った。


---


 三回目は、二回目の六日後だった。

 心拍は六十九だった。

 脳波変容は八分だった。

 手指運動は十七分だった。


 全部、早くなっていた。


 切った後、田所はすぐ起き上がらなかった。

 初めてだった。

 二分、横になっていた。


「どうした」

「少し、重かったです」

 夏生は記録した。

「体が」

「はい。戻ってきてから。すぐ消えました」

「消えたか」

「はい」

 夏生は田所を見た。

「それ以外は」

「同じです。自然でした」

 夏生はノートに書いた。

 《三回目。帰還後、二分間起立せず。「重い」と発言。二分で消失。「自然だった」継続。》


---


 その夜、村瀬から連絡が来た。

「今日のデータ、送ってもらえますか」

 夏生は送った。

 十分後に返信が来た。

「先生、田所さんの速度、私より速いですよね」

「そうだ」

「私の三回目は、どうでしたか」

 夏生は記録を開いた。

「脳波変容は十二分だった」

「田所さんは八分です」

「そうだ」

 しばらく返信がなかった。

「先生」

「何」

「田所さん、止まれると思いますか」

 夏生はしばらく、その文字を見た。

「わからない」と返信した。

「怖がっていないから止まれない、ということですか」

「そうじゃないかもしれない」

「どういうことですか」

 夏生は少し考えた。

「怖がらない人間は、止まる必要を感じないかもしれない」

 返信が来なかった。

 五分後に来た。

「続けさせるつもりですか」

「まだ判断していない」

「先生」

「何」

「私のときより、早く判断してください」


 夏生は何も返信しなかった。


---


 四回目の前に、夏生は田所に言った。

「一つ話がある」

「何ですか」

「お前は怖がっていない」

 田所は少し考えた。

「そうですね」

「それが問題かもしれない」

「なぜですか」

「私も、アシスタントも、怖かった。怖かったから、戻りたいと思った。怖かったから、止まれた」

 田所は夏生を見た。

「私は止まれないということですか」

「わからない。ただ、止まる信号が弱いかもしれない」

 田所は少し間を置いた。

「それを知った上で、続けますか、ということですか」

「そうだ」

 田所は少し考えた。

「続けます」

「理由を聞いていいか」

「止まる信号が弱いなら、先生が止めてくれればいいからです」

 夏生は何も言えなかった。


---


 四回目が終わった後、田所はすぐ起き上がった。

 重さについては何も言わなかった。

「どうだった」と夏生は聞いた。

「今日は少し、違いました」

「どこが」

「匂いが、帰ってきてからも、少し残りました」

 夏生は記録した。

「強さは」

「わかりません。気のせいかもしれません」

「気のせいではない」と夏生は言った。

 田所は少し驚いた顔をした。

「それは」

「同じことが、私にも起きた。最初は気のせいだと思った。気のせいではなかった」

 田所はメモを取った。

「今もしますか。先生は」

「一だ」

「ずっと」

「そうだ」

 田所はメモを取り終えて、夏生を見た。

「先生は、それを後悔していますか」

 夏生は少し考えた。

「していない」

「なぜですか」

「匂いが残ることより、わかったことの方が多かったから」

 田所は何も言わなかった。

 少し、初めて、表情が動いた。

 何の表情かは、わからなかった。


---


 夜、ノートを開いた。

 今日の日付。

 《四回目。帰還後、匂いの残存を初確認。強度不明。》

 次の行。

 《田所、「先生が止めてくれればいい」と発言。》


 その一行を、少し見た。

 止める判断を、田所が夏生に渡した。

 夏生が村瀬に渡したのと、同じだった。


 ただ、村瀬は怖がっていた。

 田所は怖がっていない。


 止める信号が、田所の中にはない。

 夏生の外にしかない。


 ペンを置いた。

 ハルが来た。

 今日は膝に乗った。


 夏生はハルの背中に手を置いた。

 温かかった。

 それだけを確かめた。

 それだけで、今夜は足りた。

回を重ねるごとに、田所の数字は早く、低くなっていきます。心拍も、脳波変容も、手指運動も。

怖がらない人間は、止まる必要を感じないのかもしれない。夏生がそう伝えても、田所は「続けます」と答えました。止まる信号が弱いなら、先生が止めてくれればいい、と。

その判断を預けられた夏生は、何も言えませんでした。

ハルは今夜、膝に乗りました。

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