第二十五話 田所:止まりたくない、ではなかった。
「止まりたくない、ではなかった。」
田所の初回は、村瀬も来た。
村瀬は隅の椅子に座った。何も言わなかった。田所に挨拶した。田所も短く返した。
夏生は手順を確認した。
田所は黙って従った。質問しなかった。面談のときと同じだった。
「怖いか」と夏生は聞いた。
「少し」と田所は言った。
「少しか」
「少しです」
夏生は田所を見た。
少し、という言葉が正確かどうかは、わからなかった。
嘘ではない顔だった。
電極を確認した。
スイッチを入れた。
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モニターに数字が並んだ。
心拍は八十五だった。
夏生の初回は九十二だった。村瀬の初回は百十だった。
田所は八十五だった。
村瀬が夏生の隣に来た。声を低くして言った。
「低いですね」
「そうだ」
「緊張していないということですか」
「わからない」
五分で、心拍が下がった。
八十に。
七十八に。
安定した。
村瀬が夏生を見た。夏生はモニターを見た。
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十五分で、脳波が変わった。
変わり方が違った。
夏生の初回も、村瀬の初回も、段階的に変わった。波が立って、落ち着いて、また変わった。
田所は滑らかだった。
抵抗がなかった。
夏生は記録した。時刻と波形。
書きながら、少し止まった。
抵抗がない、という言葉を、書くかどうか考えた。
書いた。
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二十八分で、田所の手が動いた。
肘掛けを叩かなかった。
指先が、椅子の縁をなぞった。
ゆっくりと。一定の速度で。
止まった。また動いた。
村瀬が夏生に近づいた。
「触角じゃないですね」と村瀬は小声で言った。
「そうだ」
「何ですか」
夏生は少し考えた。
「わからない」
記録した。《二十八分。手指運動。触角様ではない。別パターン。》
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五十分で、夏生は切った。
田所が戻ってきた。
目を開けた。天井を見た。
すぐ起き上がった。
夏生と村瀬を見た。
表情があった。
何かを言おうとしていた。
「どうだった」と夏生は聞いた。
田所は少し考えた。
「思ったより、静かでした」
「静か」
「はい。もっと混乱するかと思いました。でも、自然でした」
夏生は何も言わなかった。
「先生、これは問題ですか」
夏生は少し考えた。
「わからない」と言った。
田所はうなずいた。
問題かもしれないと思っている顔ではなかった。
ただ、確認した顔だった。
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村瀬が帰り際に、廊下で夏生に言った。
「先生」
「何」
「田所さん、怖がってないですよね」
「そうだ」
「それって」
「わかってる」と夏生は言った。
村瀬は何も言わなかった。
「怖がらない人間が巣に入ると、どうなるかはわからない」
「先生は怖かったから止まれた、ということですか」
夏生は少し考えた。
「そうかもしれない」
「田所さんには言いましたか」
「言っていない」
村瀬は少し間を置いた。
「言いますか」
「次に言う」
村瀬はうなずいた。うなずいてから、また言った。
「先生、田所さんの手の動き、見ましたか。触角じゃなかったですよね」
「そうだ」
「何だったんでしょう」
夏生は答えなかった。
わからなかった。
わからないことが、少し、怖かった。
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夜、ノートを開いた。
今日の日付。
《田所、初回。五十分。心拍、初回で最低値。脳波変容、抵抗なし。手指運動、未分類。》
次の行。
《自然だった、と発言。》
次の行。
ペンが止まった。
夏生も村瀬も、最初は「止まりたくなかった」と言った。
田所は「自然だった」と言った。
同じではなかった。
何が違うのか、まだわからなかった。
わからないまま、書いた。
《止まりたくない、ではなかった。》
ハルが来た。
膝に乗らなかった。
夏生の隣に座った。
ノートを見ていた。
夏生はハルを見た。
ハルはノートを見ていた。
「読めるか」と夏生は言った。
ハルは答えなかった。
ただ、ノートを見ていた。
田所の初回潜入。心拍は夏生よりも村瀬よりも低く、脳波は抵抗なく滑らかに変わっていきます。戻ってきた田所は「自然でした」と言いました。
夏生も村瀬も、最初は「止まりたくなかった」。田所は違う。何が違うのか、夏生にはまだ言葉にできません。
怖がらない人間が巣に入ると、どうなるのか。
ハルはノートを、じっと見ていました。




