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【連作短編054】 蟻 全37話 ―悲しみの有無、不明―  作者: マチャオ (Machao)


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第二十五話 田所:止まりたくない、ではなかった。

「止まりたくない、ではなかった。」

 田所の初回は、村瀬も来た。

 村瀬は隅の椅子に座った。何も言わなかった。田所に挨拶した。田所も短く返した。


 夏生は手順を確認した。

 田所は黙って従った。質問しなかった。面談のときと同じだった。


「怖いか」と夏生は聞いた。

「少し」と田所は言った。

「少しか」

「少しです」

 夏生は田所を見た。

 少し、という言葉が正確かどうかは、わからなかった。

 嘘ではない顔だった。


 電極を確認した。

 スイッチを入れた。


---


 モニターに数字が並んだ。

 心拍は八十五だった。

 夏生の初回は九十二だった。村瀬の初回は百十だった。

 田所は八十五だった。


 村瀬が夏生の隣に来た。声を低くして言った。

「低いですね」

「そうだ」

「緊張していないということですか」

「わからない」


 五分で、心拍が下がった。

 八十に。

 七十八に。

 安定した。


 村瀬が夏生を見た。夏生はモニターを見た。


---


 十五分で、脳波が変わった。

 変わり方が違った。

 夏生の初回も、村瀬の初回も、段階的に変わった。波が立って、落ち着いて、また変わった。

 田所は滑らかだった。

 抵抗がなかった。


 夏生は記録した。時刻と波形。

 書きながら、少し止まった。

 抵抗がない、という言葉を、書くかどうか考えた。

 書いた。


---


 二十八分で、田所の手が動いた。

 肘掛けを叩かなかった。

 指先が、椅子の縁をなぞった。

 ゆっくりと。一定の速度で。

 止まった。また動いた。


 村瀬が夏生に近づいた。

「触角じゃないですね」と村瀬は小声で言った。

「そうだ」

「何ですか」

 夏生は少し考えた。

「わからない」


 記録した。《二十八分。手指運動。触角様ではない。別パターン。》


---


 五十分で、夏生は切った。

 田所が戻ってきた。

 目を開けた。天井を見た。

 すぐ起き上がった。


 夏生と村瀬を見た。

 表情があった。

 何かを言おうとしていた。


「どうだった」と夏生は聞いた。

 田所は少し考えた。

「思ったより、静かでした」

「静か」

「はい。もっと混乱するかと思いました。でも、自然でした」

 夏生は何も言わなかった。

「先生、これは問題ですか」

 夏生は少し考えた。

「わからない」と言った。


 田所はうなずいた。

 問題かもしれないと思っている顔ではなかった。

 ただ、確認した顔だった。


---


 村瀬が帰り際に、廊下で夏生に言った。

「先生」

「何」

「田所さん、怖がってないですよね」

「そうだ」

「それって」

「わかってる」と夏生は言った。

 村瀬は何も言わなかった。

「怖がらない人間が巣に入ると、どうなるかはわからない」

「先生は怖かったから止まれた、ということですか」

 夏生は少し考えた。

「そうかもしれない」

「田所さんには言いましたか」

「言っていない」

 村瀬は少し間を置いた。

「言いますか」

「次に言う」

 村瀬はうなずいた。うなずいてから、また言った。

「先生、田所さんの手の動き、見ましたか。触角じゃなかったですよね」

「そうだ」

「何だったんでしょう」

 夏生は答えなかった。

 わからなかった。

 わからないことが、少し、怖かった。


---


 夜、ノートを開いた。

 今日の日付。

 《田所、初回。五十分。心拍、初回で最低値。脳波変容、抵抗なし。手指運動、未分類。》

 次の行。

 《自然だった、と発言。》

 次の行。


 ペンが止まった。


 夏生も村瀬も、最初は「止まりたくなかった」と言った。

 田所は「自然だった」と言った。

 同じではなかった。


 何が違うのか、まだわからなかった。

 わからないまま、書いた。

 《止まりたくない、ではなかった。》


 ハルが来た。

 膝に乗らなかった。

 夏生の隣に座った。

 ノートを見ていた。


 夏生はハルを見た。

 ハルはノートを見ていた。


「読めるか」と夏生は言った。

 ハルは答えなかった。

 ただ、ノートを見ていた。

田所の初回潜入。心拍は夏生よりも村瀬よりも低く、脳波は抵抗なく滑らかに変わっていきます。戻ってきた田所は「自然でした」と言いました。

夏生も村瀬も、最初は「止まりたくなかった」。田所は違う。何が違うのか、夏生にはまだ言葉にできません。

怖がらない人間が巣に入ると、どうなるのか。

ハルはノートを、じっと見ていました。

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