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【連作短編054】 蟻 全37話 ―悲しみの有無、不明―  作者: マチャオ (Machao)


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第二十四話 面談:逃げた後、なぜ逃げたのかわからなかったからです。

逃げた後、なぜ逃げたのかわからなかったからです。

 応募が三件来た。

 一週間で、三件だった。


 一件目は学部三年の学生だった。面談で「面白そうだから」と言った。断った。

 二件目は他の研究室の博士課程の学生だった。神経科学専攻だった。話が早かった。リスクの説明をした。「検討します」と言って、翌日辞退の連絡が来た。

 三件目は、夏生より少し年上に見える女性だった。


---


 名前は田所といった。

 職業を聞くと、少し間を置いてから「以前は看護師でした」と言った。今は、とは聞かなかった。


「なぜ応募しましたか」

「掲示を見て」

「動機を聞いています」

 田所は少し考えた。

「小さいものの中に入ってみたかったからです」

 夏生は田所を見た。

「小さいもの」

「アリとか、虫とか。ずっと興味があって」

「研究の内容は理解していますか」

「読みました。論文も、いくつか」

「リスクも」

「読みました」


 夏生はしばらく田所を見た。

 田所は夏生を見ていた。逸らさなかった。


「続けましょう」と夏生は言った。


---


 説明は二時間かかった。

 装置の仕組み、感覚の変容、匂いの残存、脳波の変容、同化のリスク。

 田所は聞いた。メモを取った。質問した。


「同化というのは、どの程度まで起きますか」

「個人差がある。私の場合は、自分の顔を見て違和感を覚えるまで進んだ」

「戻りましたか」

「ほぼ戻った」

「ほぼ」

「完全かどうかは、測定できない」

 田所はメモを取った。

「アシスタントの方は」

「八回で中止した。現在は匂いが二で安定している」

「中止した理由は」

「安全のためだ」

 田所はうなずいた。

「先生は、今も匂いがしますか」

「一だ」

「一年経っても」

「そうだ」

 田所は少し間を置いた。

「それは、消えないということですか」

 夏生は少し考えた。

「わからない。消えていく途中かもしれない。止まっているのかもしれない」

「先生は、それを気にしていますか」

 夏生は田所を見た。

 予想していない質問だった。

「気にしていない」と言った。

 嘘ではなかった。


---


 帰り際、田所がドアのところで振り返った。

「一つだけ聞いていいですか」

「何ですか」

「先生が入ったとき、何が一番怖かったですか」

 夏生は少し考えた。

「三回目に、解体係に触られたとき」

「死ぬかと思ったからですか」

「いいや」夏生は少し間を置いた。「逃げた後、なぜ逃げたのかわからなかったからです」

 田所はうなずいた。

「わかりました」と言った。

 わかった、という顔ではなかった。

 それでいい、という顔だった。


---


 田所が帰った後、村瀬に連絡した。

「面談が終わった。一人、可能性がある」

 すぐ返信が来た。

「どんな人ですか」

「元看護師。年齢は三十代後半だと思う。動じない」

「先生が動じないと思う人、ですか」

 夏生は少し考えた。

「そうだ」

「会ってみたいです」

「今度来い」


 送信してから、ノートを開いた。

 折った紙がそこにあった。

 三つの項目が残っていた。


 見た。

 折って、戻した。


 田所が来たら、渡すかどうか、まだ決めていなかった。

 村瀬には渡すかもしれなかった。

 まだ、だった。


---


 ハルが来た。

 今日は装置の椅子ではなく、田所が座っていた椅子に乗った。

 匂いを嗅いだ。

 少し嗅いで、離れた。

 夏生の膝に来た。


 夏生はハルを見た。

「どうだった」


 ハルは答えなかった。

 ただ、膝の上で丸くなった。

 目を閉じた。


 それだけだった。

 それだけで、少し、わかった気がした。

 何が、とは言えなかった。

三件の応募の中から、田所という元看護師の女性が現れます。動じない。逸らさない。夏生がそう感じた人間は、これまでいませんでした。

面談の最後に田所が聞いた「一番怖かったこと」への答えが、この話の核心です。死の恐怖ではなく、自分の行動の理由がわからなかったこと——それが夏生にとっての怖さでした。

田所は「わかりました」と言った。わかった顔ではなく、それでいい、という顔で。

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