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【連作短編054】 蟻 全37話 ―悲しみの有無、不明―  作者: マチャオ (Machao)


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第二十二話 静止:止めてくれて、よかったと思ってます。今は。

止めてくれて、よかったと思ってます。今は。

 村瀬から連絡が来なかった。

 三日間、来なかった。

 夏生も送らなかった。


 研究室は静かだった。

 モニターがあった。装置があった。ノートがあった。

 誰も来なかった。


---


 四日目に、夏生はデータを整理した。

 村瀬の八回分と、自分の記録を並べた。

 表にした。回数、潜入時間、脳波変容のタイミング、匂いの強度、帰還後の回復時間。


 数字を見た。

 村瀬の変化は、自分の記録をなぞるようにも見えた。

 ただ、完全には重ならなかった。村瀬の方が速く、深く、回復も遅かった。


 ずれの意味を考えた。

 個体差なのか、順序の違いなのか、それとも別の何かなのか。

 まだわからなかった。

 わからないまま、表を閉じた。


---


 五日目に、巣を見に行った。

 研究室の外に出たのは、久しぶりだった。


 管理棟の前の芝生を通った。

 石畳の継ぎ目の盛り上がりを見た。

 小さかった。

 当然だった。

 体で見ていた頃は違った。今は人間の目で見ていた。


 しゃがんだ。

 盛り上がりの前に顔を近づけた。

 一匹が出てきた。

 止まった。触角を動かした。夏生を読んだ。

 それから、行った。どこかへ向かった。


 夏生はその背中を見た。

 小さかった。

 当然だった。


 匂いがした。

 ゼロだと思っていた。

 ゼロではなかった。

 一だった。


---


 六日目に、委員会へ報告書を出した。

 村瀬の潜入中止、理由、データの概要。

 「研究の今後については検討中」と書いた。

 送信した。


 ノートを開いた。

 父の論文を引き出した。

 最後まで読んだ。

 何度目かわからなかった。


 最後の一文を読んだ。

 「コロニーは個体の死を超えて存続する。それが社会性の本質である」


 以前は赤線を引いていなかった箇所だった。

 今日、引いた。


 なぜ今まで引かなかったのか、わからなかった。

 なぜ今日引いたのか、わかった気がした。

 気がした、どまりだった。


---


 七日目に、村瀬から連絡が来た。

「先生、今どうですか」

 夏生は少し考えた。

「匂いは一だ」

「私は二です」

「下がったか」

「はい。八回目の翌日は五でした」

「そうか」

 少し間があった。

「先生」

「何」

「研究、続けますか」

 夏生はしばらく、その文字を見た。

「続ける」

「どうやって」

「考えてる」

 また間があった。

「私はどうすればいいですか」

「今は何もしなくていい」

「先生」

「何」

「怒ってないです」

 夏生は少し止まった。

「そうか」

「止めてくれて、よかったと思ってます。今は」

 夏生は何も返せなかった。

 少し後に、「わかった」とだけ送った。


---


 その夜、装置の前に座った。

 触れなかった。

 ただ、座った。


 ハルが来た。

 装置の椅子ではなく、夏生の膝に来た。

 乗った。


 夏生はハルを見た。

「お前はずっとここにいるな」


 ハルは答えなかった。

 目を細めた。


 土の匂いがした。

 一だった。

 巣の外で嗅いだのと、同じ強さだった。


 夏生はハルの背中に手を置いた。

 温かかった。

 毛があった。

 生きていた。


 装置は動かなかった。

 夏生も動かなかった。

 しばらく、そのままでいた。


 それで十分だった。

 今夜は、それで十分だった。

村瀬の潜入が止まり、研究室に静寂が戻った。七日目、村瀬から連絡が来た。怒っていなかった。夜、夏生は装置の前に座った。触れなかった。ハルが膝に来た。それで十分だった。今夜は、それで十分だった。

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