第二十二話 静止:止めてくれて、よかったと思ってます。今は。
止めてくれて、よかったと思ってます。今は。
村瀬から連絡が来なかった。
三日間、来なかった。
夏生も送らなかった。
研究室は静かだった。
モニターがあった。装置があった。ノートがあった。
誰も来なかった。
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四日目に、夏生はデータを整理した。
村瀬の八回分と、自分の記録を並べた。
表にした。回数、潜入時間、脳波変容のタイミング、匂いの強度、帰還後の回復時間。
数字を見た。
村瀬の変化は、自分の記録をなぞるようにも見えた。
ただ、完全には重ならなかった。村瀬の方が速く、深く、回復も遅かった。
ずれの意味を考えた。
個体差なのか、順序の違いなのか、それとも別の何かなのか。
まだわからなかった。
わからないまま、表を閉じた。
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五日目に、巣を見に行った。
研究室の外に出たのは、久しぶりだった。
管理棟の前の芝生を通った。
石畳の継ぎ目の盛り上がりを見た。
小さかった。
当然だった。
体で見ていた頃は違った。今は人間の目で見ていた。
しゃがんだ。
盛り上がりの前に顔を近づけた。
一匹が出てきた。
止まった。触角を動かした。夏生を読んだ。
それから、行った。どこかへ向かった。
夏生はその背中を見た。
小さかった。
当然だった。
匂いがした。
ゼロだと思っていた。
ゼロではなかった。
一だった。
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六日目に、委員会へ報告書を出した。
村瀬の潜入中止、理由、データの概要。
「研究の今後については検討中」と書いた。
送信した。
ノートを開いた。
父の論文を引き出した。
最後まで読んだ。
何度目かわからなかった。
最後の一文を読んだ。
「コロニーは個体の死を超えて存続する。それが社会性の本質である」
以前は赤線を引いていなかった箇所だった。
今日、引いた。
なぜ今まで引かなかったのか、わからなかった。
なぜ今日引いたのか、わかった気がした。
気がした、どまりだった。
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七日目に、村瀬から連絡が来た。
「先生、今どうですか」
夏生は少し考えた。
「匂いは一だ」
「私は二です」
「下がったか」
「はい。八回目の翌日は五でした」
「そうか」
少し間があった。
「先生」
「何」
「研究、続けますか」
夏生はしばらく、その文字を見た。
「続ける」
「どうやって」
「考えてる」
また間があった。
「私はどうすればいいですか」
「今は何もしなくていい」
「先生」
「何」
「怒ってないです」
夏生は少し止まった。
「そうか」
「止めてくれて、よかったと思ってます。今は」
夏生は何も返せなかった。
少し後に、「わかった」とだけ送った。
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その夜、装置の前に座った。
触れなかった。
ただ、座った。
ハルが来た。
装置の椅子ではなく、夏生の膝に来た。
乗った。
夏生はハルを見た。
「お前はずっとここにいるな」
ハルは答えなかった。
目を細めた。
土の匂いがした。
一だった。
巣の外で嗅いだのと、同じ強さだった。
夏生はハルの背中に手を置いた。
温かかった。
毛があった。
生きていた。
装置は動かなかった。
夏生も動かなかった。
しばらく、そのままでいた。
それで十分だった。
今夜は、それで十分だった。
村瀬の潜入が止まり、研究室に静寂が戻った。七日目、村瀬から連絡が来た。怒っていなかった。夜、夏生は装置の前に座った。触れなかった。ハルが膝に来た。それで十分だった。今夜は、それで十分だった。




