第二話 役割:選んでいないのに、選ばれている。
父の論文と、幼虫の部屋と、役割について。
二回目の潜入です。
机の引き出しの底に、論文のコピーが入っていた。
二十年前の論文で、著者は夏生の父だった。タイトルは「クロオオアリにおける分業固定と個体淘汰の相関」。余白に赤ペンで「なぜ彼らは疑問を持たないのか?」と書いてあった。父の字ではなかった。
夏生の字だった。中学生の頃に書いた。
ハルが引き出しの縁に顎を乗せた。
夏生は引き出しを閉めた。
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二回目の潜入は、前回より深く入ることにした。
目標は女王室の手前まで。前回は匂いに弾かれて近づけなかった。今回は事前に女王フェロモンの模倣信号を電極に仕込んだ。通行証の偽造だった。うまくいくかどうかは、入ってみないとわからなかった。
夏生はヘルメットを被る前に、ノートを開いた。
前回の最後のページ。《悲しみの有無、不明。》
その下に、今日の日付だけ書いた。
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土の中は前回と同じ匂いがした。
ただし、奥へ進むにつれて層が増えた。饐えた匂いの下に、別の何かが混じり始めた。甘くて、重い。女王の匂いだと、体が知っていた。
兵アリが二匹、通路の分岐に立っていた。
体が大きかった。顎が違った。働きアリのそれより分厚く、短く、何かを砕くためだけに発達していた。
夏生が近づくと、片方が触角を伸ばした。
止まった。触角が夏生の体を読んだ。一秒、二秒。
通してくれた。
偽造は機能した。
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女王室の手前に、広い空間があった。
幼虫の部屋だった。
白い粒が床を埋めていた。保育担当の個体が動き回り、幼虫を舐め、位置を調整し、また次へ移った。止まらなかった。食事も、休息も、夏生には見えなかった。
保育係の個体には、保育係以外の仕事がなかった。生まれた瞬間から、そうなることが決まっていた。
夏生は立ち止まった。
体が立ち止まることを許した。ここでは夏生の役割が定まっていなかった。どこへ行くべきかを告げる匂いが、まだなかった。
幼虫を一匹、保育係が丁寧に舐めていた。
その幼虫がいつか兵アリになるのか、働きアリになるのか、女王になるのかは、まだ決まっていないのかもしれなかった。あるいはもう決まっているのかもしれなかった。夏生にはわからなかった。
幼虫は動かなかった。舐められながら、動かなかった。
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装置が切れた。
研究室の蛍光灯が目に刺さった。夏生はしばらく目を閉じていた。
ハルが膝に乗っていた。潜入中に乗ったのか、切れた瞬間に乗ったのか、わからなかった。
ノートを開いた。日付の下に書いた。
《幼虫室確認。保育個体、休止なし。役割の固定、出生以前から?》
ペンが止まった。
もう一行書いた。
《選んでいないのに、選ばれている。》
ハルが一度、短く鳴いた。
夏生は顔を上げなかった。
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父の論文に、こんな一文があった。
「働きアリは女王のために働くのではない。コロニー全体の存続という目的のために、個が消費される構造になっている」
夏生が中学生のとき、その文章を読んで「個が消費される」という言い方が引っかかった。消費、という言葉が。
そのとき父はもう、いなかった。
だから夏生は確かめたかった。
消費されている側に、何かが残るのかどうか。
《選んでいないのに、選ばれている。》
夏生がこれを書いたのは、アリのことだけではないかもしれません。
続きは第三話で。




