第一話 潜入:なぜ運ぶのか、考える前に体が動いた。
アリになった人間の記録です。
SF要素はありますが、派手な展開はありません。静かに読んでいただけると幸いです。
研究室の床に、ハルがいた。
白い猫で、来歴はわからない。三週間前に非常口の前に座っていて、以来、誰も追い出さなかった。ただいるだけだった。
篠原夏生は装置の接続を確認しながら、ハルを見た。ハルは目を細めたが、何も言わなかった。
没入型生体模倣システムの初号機は、見た目が悪かった。金属の椅子と、頭に被るヘルメットと、腕に巻く電極だけ。それだけのために三年と、助成金の大半が消えた。
要するに、脳だけ別の体に引っ越す。
体は動かない。
一時間後、夏生は土の中にいた。
---
最初にわかったのは、匂いだった。
饐えたような、甘いような、複雑な層をなす匂い。人間の言語に対応する言葉がない。それが通路だった。幅は自分の肩より少し広いくらい。壁は生きていた。絶えず動いていた。
体が動き出す前に、仲間が通り過ぎた。
七本足の個体だった。
一本が途中から消えていた。それでも速度は変わらなかった。前の個体について行く。後ろの個体も続く。夏生もそれに倣った。止まる理由がなかった。
餌運びの列に混じった。
外の光が見えた。土の匂いが変わった。夏生は地上に出た。
芝生の上だった。人間の目線からすれば何でもない広場が、途方もない平原に見えた。草の根元は木の幹ほどの太さがあった。光がうるさかった。直接当たれない。影から影へ動いた。
前を行く個体が何かを拾い上げた。種子だった。自分の体の三倍ほどある種子を、顎に咥え、走り出した。
夏生も拾った。重かった。そういう重さだった。なぜ運ぶのか、考える前に体が動いた。
---
帰り道で、事故があった。
別の列と交差する場所で、一匹が倒れた。脚が動いていなかった。腹部がわずかに上下していた。
列は止まらなかった。
誰も立ち止まらなかった。倒れた個体のすぐ横を、後続が通り過ぎた。夏生も通り過ぎた。
それだけだった。
夏生の体は勝手に巣へ向かっていた。理解する前に巣口に入り、種子を置き、次の指示を受けていた。
倒れた個体のことは、もう匂いが届かなかった。
---
女王のいる部屋は、奥深くにあった。
夏生は一度もそこへは行けなかった。行く必要がなかったから。
働きアリには、行く必要のある場所と、ない場所がある。その区別は、理由ではなく匂いが決めた。
だから夏生は、運び続けた。
---
装置が切れた瞬間、天井が遠くなった。
研究室の椅子の上で、夏生は体重を感じた。重すぎた。六十二キロが、重すぎた。
ハルが足元に来て、脚に頭を押しつけた。
夏生は何も言わなかった。
データを開いた。記録は七十三分。潜入中の体感は、もっと長かった。
ノートに書いた。
《負傷個体、放棄確認。巣内選別機能、匂い誘導による。悲しみの有無、不明。》
最後の三文字を、少し見た。
消さなかった。
最後の一行、《悲しみの有無、不明。》
夏生がこれを消さなかった理由は、最後まで書きませんでした。
続きで、少しずつわかります。




