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【連作短編054】 蟻 全37話 ―悲しみの有無、不明―  作者: マチャオ (Machao)


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第十七話 初回:止まりたくなかったです。

止まりたくなかったです。

 村瀬の初回は、火曜日の朝だった。

 村瀬は五分早く来た。いつもより少し顔色が悪かった。何も言わなかった。


 夏生はモニターの前に座った。

 村瀬がヘルメットを手に取った。

「重いですね」

「慣れる」

「先生はどのくらいで慣れましたか」

「二回目には気にならなかった」

 村瀬はヘルメットを被った。電極を腕に巻いた。手順は正確だった。何度も確認していたのだと、夏生にはわかった。


「いつでもいいぞ」

 村瀬は少し間を置いた。

「はい」


 夏生はスイッチを入れた。


---


 モニターに数字が並んだ。

 心拍、体温、皮膚電気反応、脳波。

 夏生はその数字を見た。


 最初の五分、心拍が高かった。百十前後。緊張だった。想定の範囲だった。

 七分で落ち着いた。九十まで下がった。

 体が動き始めた証拠だった。


 夏生はモニターを見ながら、村瀬の顔を見た。

 目が閉じていた。口が少し開いていた。

 自分がそうだったと、夏生は思った。

 こう見えていたのか、と思った。


---


 十五分で、脳波が変わった。

 夏生は記録した。時刻と数値。

 村瀬が第七話で書いたのと同じことを、今、夏生がしていた。


 十八分で皮膚電気が上がった。

 外に出たのか、と夏生は思った。光がうるさい。影から影へ動く。種子を拾う。その重さを体が知る。

 夏生の体は椅子に座っていた。

 それでも、少し、匂いがした。


 一だった。十段階で。

 記録した。


---


 三十分が過ぎた。

 村瀬の手が動いた。

 肘掛けを、指先が叩いた。

 規則的なリズムだった。


 夏生はその手を見た。

 自分の手が、かつてそうだったことを思い出した。

 村瀬は気づいていないはずだった。


 叩くのを、止めようかと思った。

 止めなかった。

 記録した。《三十分、手指運動。触角様リズム。》


 村瀬のノートに書いたのと同じ言葉だった。


---


 四十分で、夏生は切ることを考えた。

 数字は安定していた。

 切る理由はなかった。


 切らなかった。

 村瀬の顔を見た。

 表情がなかった。

 人が眠るときの、その人の輪郭が残る顔ではなかった。


 夏生は手をキーボードに乗せた。

 村瀬なら、ここで切った。

 自分が切るべきかどうか、考えた。


 村瀬の心拍は安定していた。

 体温は平常だった。

 脳波は、夏生が経験した波形と似ていた。


 切らなかった。

 もう少し、と思った。

 もう少し、という判断が正しいかどうか、わからなかった。


---


 五十分で、切った。


 村瀬が戻ってきた。

 目を開けた。天井を見た。ゆっくりと息を吐いた。


 夏生はそれを見た。

 自分が戻るときの動作だった。

 同じだった。


「村瀬」

「はい」

「手が動いてたぞ」

 村瀬は自分の手を見た。

「気づきませんでした」

「そうだろう」

 村瀬は少し間を置いた。

「先生、今、匂いしましたか」

 夏生は少し驚いた。

「少し」

「どのくらい」

「一だ」

 村瀬は何も言わなかった。

「どうだった」と夏生は聞いた。

 村瀬はしばらく考えた。

「うまく言えません」

「言えなくていい」

「ただ」村瀬は天井を見たまま言った。「止まりたくなかったです」


 夏生は何も言わなかった。

 知っていた。


---


 村瀬が帰った後、ノートを開いた。

 今日の日付。

 《村瀬、初回。五十分。手指運動確認、三十分経過後。離脱後、止まりたくなかったと発言。》

 次の行。

 《私が外にいた。》


 その六文字を見た。

 外にいた。

 モニターの前にいた。数字を見ていた。村瀬の顔を見ていた。

 それが外だった。


 匂いは一だった。

 村瀬が入っているとき、一になった。

 関係があるのかどうか、わからなかった。

 記録した。


 ハルが来た。

 膝に乗った。

 夏生はハルを見た。


「お前も見ていたか」


 ハルは答えなかった。

 ただ、夏生を見た。

 いつもの目だった。

 何話ぶりかで、いつもの目だった。


 画面を閉じる前に、村瀬の脳波データをもう一度開いた。

 五十分の波形を見た。

 見ながら、何かが引っかかった。

 保存済みのファイルを開いた。自分の第七回のデータだった。

 並べた。


 同じだった。

 波形の形が、ほぼ同じだった。

 タイミングも、深さも。


 夏生はしばらく、二つの波形を見た。

 何も書かなかった。

 閉じた。

村瀬が初めて装置に入り、夏生は初めて外から見る。モニターの数字を追いながら、かつての自分を見る。五十分後、村瀬が言った言葉を、夏生は知っていた。夜、二つの波形を並べた。同じだった。何も書かなかった。

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