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【連作短編054】 蟻 全37話 ―悲しみの有無、不明―  作者: マチャオ (Machao)


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第十六話 交代:私は外に出る。

私は外に出る。

 翌日、村瀬が来た。

 書面を持っていた。委員会からの正式通知だった。夏生より先に受け取っていた。


 テーブルに置いた。

 夏生は読んだ。

 村瀬は読むのを待った。


 三枚だった。条件が七項目あった。最後の項目に、一行だけ書いてあった。

 「被験者は研究代表者以外の成人とする」


 夏生は書面を置いた。

「つまり」

「先生は、もう入れません」と村瀬は言った。


 夏生は何も言わなかった。

 わかっていた。

 わかっていたが、村瀬の口から聞くと、違った。


---


「代わりに入る人間が必要だ」と夏生は言った。

「はい」

「心当たりはあるか」

 村瀬は少し間を置いた。

「私が入ります」

 夏生は村瀬を見た。

「ダメだ」

「なぜですか」

「お前は外にいないといけない。記録する人間が必要だ」

「先生が記録します」

 夏生はそれを聞いて、少し黙った。

「逆転する」

「はい」

「それでいいのか」

「研究を続けるためなら」と村瀬は言った。「はい」


---


 しばらく、二人とも黙っていた。

 ハルが村瀬の足元に来た。今回は村瀬が気づいた。少し見た。また夏生を見た。


「村瀬」

「何ですか」

「怖くないか」

 村瀬は少し考えた。

「怖いです」

「それでも入るか」

「先生だって怖かったはずです。それでも入りました」

 夏生は村瀬を見た。

「私は怖かったのか」

「最初から怖かったと思います。でも入った」

 夏生は何も言えなかった。

 そうだったかもしれなかった。

 怖かったかどうか、最初のことをもう正確には思い出せなかった。


---


 その週の終わりに、村瀬の事前訓練を始めた。

 装置には入らない。感覚の説明だけ。


「匂いが先に来る」と夏生は言った。「体が動く前に、匂いで場所がわかる」

「匂いで」

「言語では説明できない匂いだ。ただ、体が知っている」

 村瀬はノートを取っていた。

「次に体が動く。自分の意志かどうか、最初はわからない」

「わからないまま動くんですか」

「そうだ。慌てない方がいい。慌てると判断が遅れる」

「先生は慌てましたか」

 夏生は少し考えた。

「第三回に慌てた」

「解体室のとき」

「そうだ」

 村瀬は書いた。

「慌てなければ、どうなってましたか」

「わからない」と夏生は言った。「慌てたから逃げた。慌てなければ、別のことが起きたかもしれない」

 村瀬は書いた。書いてから、ペンを止めた。

「別のこと」

「わからない」


---


 訓練の後、村瀬が帰り際に言った。

「先生、一つ聞いてもいいですか」

「何」

「入れなくなって、よかったですか。それとも」

 夏生は少し考えた。

「まだわからない」

「今も匂いはしますか」

「二だ」

「二」

「十段階で。最初は八か九だった」

 村瀬はうなずいた。

「だいぶ戻りましたね」

「そうだ」

「よかったです」

 夏生は村瀬を見た。

「お前が入ってから言え」

 村瀬は少し笑った。

 笑ったのを、夏生は見た。

 久しぶりに、誰かが笑うのを見た気がした。


---


 夜、ノートを開いた。

 今日の日付。

 《村瀬、被験者として参加意志確認。訓練開始。》

 次の行。

 《私は外に出る。》


 その四文字を見た。

 外に出る。

 巣の外ではなかった。

 被験者の外、だった。

 観察する側に戻る。


 それが元の場所なのかどうか、夏生にはまだわからなかった。

 ただ、書けた。

 書けたことは、何かを意味している気がした。

 何かは、まだわからなかった。


 ハルが来た。

 膝に乗った。

 重さがあった。


 夏生はノートを閉じた。

 ハルの背中に手を置いた。

 匂いがした。

 土の匂いではなかった。

 ハルの匂いだった。

 久しぶりに、わかった。

委員会の条件が下りた。夏生はもう巣に入れない。代わりに村瀬が被験者となり、二人の立場が逆転する。訓練の夜、ハルの匂いが戻ってきた。土の匂いではなく、ハルの匂いとして。

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