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【連作短編054】 蟻 全37話 ―悲しみの有無、不明―  作者: マチャオ (Machao)


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第十五話 保留:誰が覚えているのか。

誰が覚えているのか。

 委員会からの返答は、一週間来なかった。


 夏生は待った。

 待ちながら、装置を見た。

 触れなかった。

 触れないことが、以前より難しくなかった。

 それが良いことなのかどうか、わからなかった。


---


 三日目に、村瀬が来た。

「何か連絡ありましたか」

「ない」

「そうですか」

 村瀬は少し黙った。

「先生、最近どうですか」

「どうとは」

「匂いとか」

「続いてる。少し弱くなった気がする」

「気がする、ですか」

「計測していないから、わからない」

 村瀬はノートパソコンを開いた。

「記録しますか。毎日の匂いの強度」

「どうやって」

「主観でいいです。十段階で」

 夏生は少し考えた。

「今日は四だ」

 村瀬は書いた。

「最初の頃は」

「八か九だった」

「下がってますね」

「そうだ」


 二人とも、それ以上何も言わなかった。


---


 五日目に、父の論文を読み直した。

 最初から、最後まで。

 中学生のとき以来だった。


 赤線が三箇所あった。

 一つは「個が消費される構造」。

 一つは「女王もまたコロニーなくして生存できない」。

 もう一つは、読んだことを忘れていた箇所だった。


 第三章の途中だった。

 「働きアリの寿命は女王の百分の一以下である。しかし巣の記憶は個体ではなくコロニー全体に宿る。一匹が死んでも、巣は覚えている」


 赤線の横に、小さな字で書いてあった。

 《誰が覚えているのか。》

 やはり中学生の夏生の字だった。


 夏生はその字を長い時間見た。

 今の夏生には、少し答えがわかった。

 誰でもなかった。

 匂いが覚えていた。

 構造が覚えていた。

 個体ではなく、全体が覚えていた。


 それは答えなのか、と思った。

 わからなかった。


---


 六日目の夜、眠れなかった。

 眠れない理由が、以前と変わっていた。


 以前は土の匂いがして、目を閉じると通路が見えた。

 今夜は匂いが薄かった。通路も見えなかった。

 眠れなかったのは、静かすぎたからだった。


 何かが足りなかった。

 足りないものが何かは、わかっていた。

 わかっていたが、書かなかった。


 ハルが来た。

 今夜は膝に乗った。

 重さがあった。温かさがあった。


 夏生はハルの背中に手を置いた。

 毛があった。体があった。

 それだけを確かめた。


「戻ってきてるのかもしれない」と夏生は言った。

 声に出たのは、意図していなかった。

 ハルは動かなかった。


「どこへ戻るのかは、まだわからないが」


 ハルが一度、短く鳴いた。

 それだけだった。


---


 七日目に、委員会から連絡が来た。

 メールだった。

 短かった。


 「研究継続は条件付きで承認する。現行の被験者体制は認めない。詳細は追って書面で通知する」


 夏生はメールを三回読んだ。


 村瀬に転送した。

 返信が来た。

「読みました」

 それだけだった。


 夏生はノートを開いた。

 今日の日付。

 《委員会、条件付き継続承認。被験者体制、現行不可。》

 次の行を書こうとした。


 書けなかった。


 代わりに、ノートを閉じた。

 窓の外を見た。

 夜だった。

 キャンパスに人がいなかった。

 どこかに巣があるはずだった。

 今は匂いがしなかった。


 それが寂しいのか、よかったのか、夏生にはまだわからなかった。

委員会の返答を待つ一週間。装置に触れない日々の中で、夏生は父の論文に残した中学生の字を見つける。答えは少しわかった。しかし、それが本当に答えなのかは、わからなかった。匂いが薄れていくことが、回復なのか喪失なのかも。

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