第十五話 保留:誰が覚えているのか。
誰が覚えているのか。
委員会からの返答は、一週間来なかった。
夏生は待った。
待ちながら、装置を見た。
触れなかった。
触れないことが、以前より難しくなかった。
それが良いことなのかどうか、わからなかった。
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三日目に、村瀬が来た。
「何か連絡ありましたか」
「ない」
「そうですか」
村瀬は少し黙った。
「先生、最近どうですか」
「どうとは」
「匂いとか」
「続いてる。少し弱くなった気がする」
「気がする、ですか」
「計測していないから、わからない」
村瀬はノートパソコンを開いた。
「記録しますか。毎日の匂いの強度」
「どうやって」
「主観でいいです。十段階で」
夏生は少し考えた。
「今日は四だ」
村瀬は書いた。
「最初の頃は」
「八か九だった」
「下がってますね」
「そうだ」
二人とも、それ以上何も言わなかった。
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五日目に、父の論文を読み直した。
最初から、最後まで。
中学生のとき以来だった。
赤線が三箇所あった。
一つは「個が消費される構造」。
一つは「女王もまたコロニーなくして生存できない」。
もう一つは、読んだことを忘れていた箇所だった。
第三章の途中だった。
「働きアリの寿命は女王の百分の一以下である。しかし巣の記憶は個体ではなくコロニー全体に宿る。一匹が死んでも、巣は覚えている」
赤線の横に、小さな字で書いてあった。
《誰が覚えているのか。》
やはり中学生の夏生の字だった。
夏生はその字を長い時間見た。
今の夏生には、少し答えがわかった。
誰でもなかった。
匂いが覚えていた。
構造が覚えていた。
個体ではなく、全体が覚えていた。
それは答えなのか、と思った。
わからなかった。
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六日目の夜、眠れなかった。
眠れない理由が、以前と変わっていた。
以前は土の匂いがして、目を閉じると通路が見えた。
今夜は匂いが薄かった。通路も見えなかった。
眠れなかったのは、静かすぎたからだった。
何かが足りなかった。
足りないものが何かは、わかっていた。
わかっていたが、書かなかった。
ハルが来た。
今夜は膝に乗った。
重さがあった。温かさがあった。
夏生はハルの背中に手を置いた。
毛があった。体があった。
それだけを確かめた。
「戻ってきてるのかもしれない」と夏生は言った。
声に出たのは、意図していなかった。
ハルは動かなかった。
「どこへ戻るのかは、まだわからないが」
ハルが一度、短く鳴いた。
それだけだった。
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七日目に、委員会から連絡が来た。
メールだった。
短かった。
「研究継続は条件付きで承認する。現行の被験者体制は認めない。詳細は追って書面で通知する」
夏生はメールを三回読んだ。
村瀬に転送した。
返信が来た。
「読みました」
それだけだった。
夏生はノートを開いた。
今日の日付。
《委員会、条件付き継続承認。被験者体制、現行不可。》
次の行を書こうとした。
書けなかった。
代わりに、ノートを閉じた。
窓の外を見た。
夜だった。
キャンパスに人がいなかった。
どこかに巣があるはずだった。
今は匂いがしなかった。
それが寂しいのか、よかったのか、夏生にはまだわからなかった。
委員会の返答を待つ一週間。装置に触れない日々の中で、夏生は父の論文に残した中学生の字を見つける。答えは少しわかった。しかし、それが本当に答えなのかは、わからなかった。匂いが薄れていくことが、回復なのか喪失なのかも。




