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【連作短編054】 蟻 全37話 ―悲しみの有無、不明―  作者: マチャオ (Machao)


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第十四話 芝生:やめたいと思っていますか。——わかりません。

やめたいと思っていますか。——わかりません。

 委員会の建物は、キャンパスの西側だった。

 研究室から歩いて十二分。夏生は何度も行ったことがあった。

 道は知っていた。


 村瀬が横に並んだ。

 二人で歩いた。何も話さなかった。

 空が曇っていた。風がなかった。


---


 八分歩いたところで、夏生が止まった。


 芝生だった。

 管理棟の前の、広い芝生だった。

 何でもない場所だった。学生が昼に弁当を食べる場所だった。


 体が、止まった。


「先生」

 村瀬が気づいた。

 夏生は芝生を見ていた。

「先生、どうしました」

 夏生は答えなかった。


 芝生の縁に、石畳があった。その継ぎ目に、小さな土の盛り上がりがあった。

 アリの巣だった。

 研究室の巣ではなかった。別の巣だった。

 それでも、体が知っていた。


 匂いがした。

 ここからは届かないはずだった。

 届いていた。


---


 一歩、芝生に向かった。

 村瀬の手が夏生の腕を掴んだ。


 夏生は止まった。

 村瀬の手を見た。

 指が白くなっていた。強く掴んでいた。


「先生」

 村瀬の声が低かった。「行きません」

 命令ではなかった。

 懇願でもなかった。

 ただ、言った。


 夏生は芝生を見た。

 石畳の継ぎ目の盛り上がりを見た。

 小さかった。

 遠かった。


 体が向かおうとしていた。


「村瀬」

「はい」

「今、私はどこにいる」

 村瀬は少し間を置いた。

「キャンパスの、管理棟の前です」

「そうか」

「先生」

「わかってる」と夏生は言った。「わかってるが、体が」

「わかってます」と村瀬は言った。「だから掴んでます」


 夏生は動かなかった。

 村瀬も動かなかった。

 手は離さなかった。


---


 どのくらいそうしていたか、わからなかった。

 学生が横を通り過ぎた。二人を見た。見なかったふりをして、通り過ぎた。


 匂いが薄くなった。

 少しずつ、薄くなった。

 体の向きが変わった。


「行けます」と夏生は言った。

 村瀬はすぐには手を離さなかった。

 三秒後、離した。


 二人で歩いた。

 残り四分だった。

 何も話さなかった。


---


 委員会の面談は四十分だった。

 担当は二人だった。一人が話し、一人が書いた。

 三時間のログ、戦闘データ、解離症状の診断書、村瀬のレポート。全部テーブルの上にあった。


「研究の継続についてですが」と担当が言った。

「はい」

「現状では、被験者の安全を保証できません」

「そうだと思います」

「篠原先生、率直に聞きます。ご自身で、やめられますか」

 夏生は少し考えた。

「わかりません」

 担当は書いた。

「やめたいと思っていますか」

 夏生はもう少し考えた。

「わかりません」

 担当は書いた。書く量が多かった。


---


 帰り道、また二人で歩いた。

 管理棟の前を通った。

 夏生は芝生を見なかった。

 見ないように、した。

 できなかった。

 一度だけ、見た。


 石畳の継ぎ目の盛り上がりが、見えた。

 体が動かなかった。

 動かなかった。


 通り過ぎた。


「先生」と村瀬が言った。

「何」

「さっき、自分で通り過ぎましたね」

 夏生は答えなかった。

「見てました」

「そうか」

「よかったです」

 夏生は村瀬を見た。

 村瀬は前を向いていた。目が少し赤かった。


 夏生は何も言わなかった。

 前を向いた。

 歩いた。


---


 研究室に戻った。

 ハルがいた。

 珍しい場所にいた。装置のヘルメットの上に、乗っていた。


 夏生はハルを見た。

 ハルは夏生を見た。

 動かなかった。


 夏生はハルをヘルメットからどかした。

 今日は、できた。

 ハルは床に降りた。不満そうな顔をした。


 夏生はヘルメットを手に取った。

 持ったまま、しばらくいた。

 置いた。


 ノートを開いた。

 今日の日付。

 《委員会面談。継続可否、保留。》

 次の行。

 《芝生の前で止まった。村瀬に掴まれた。通り過ぎた。》

 次の行。

 《自分で、通り過ぎた。》


 最後の行を少し見た。

 記録か、確認か、わからなかった。

 どちらでもよかった。

芝生の前で体が止まった。村瀬が腕を掴んだ。

帰り道、夏生は自分で通り過ぎた。

記録か、確認か、わからなかった。

どちらでもよかった。

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