第十四話 芝生:やめたいと思っていますか。——わかりません。
やめたいと思っていますか。——わかりません。
委員会の建物は、キャンパスの西側だった。
研究室から歩いて十二分。夏生は何度も行ったことがあった。
道は知っていた。
村瀬が横に並んだ。
二人で歩いた。何も話さなかった。
空が曇っていた。風がなかった。
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八分歩いたところで、夏生が止まった。
芝生だった。
管理棟の前の、広い芝生だった。
何でもない場所だった。学生が昼に弁当を食べる場所だった。
体が、止まった。
「先生」
村瀬が気づいた。
夏生は芝生を見ていた。
「先生、どうしました」
夏生は答えなかった。
芝生の縁に、石畳があった。その継ぎ目に、小さな土の盛り上がりがあった。
アリの巣だった。
研究室の巣ではなかった。別の巣だった。
それでも、体が知っていた。
匂いがした。
ここからは届かないはずだった。
届いていた。
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一歩、芝生に向かった。
村瀬の手が夏生の腕を掴んだ。
夏生は止まった。
村瀬の手を見た。
指が白くなっていた。強く掴んでいた。
「先生」
村瀬の声が低かった。「行きません」
命令ではなかった。
懇願でもなかった。
ただ、言った。
夏生は芝生を見た。
石畳の継ぎ目の盛り上がりを見た。
小さかった。
遠かった。
体が向かおうとしていた。
「村瀬」
「はい」
「今、私はどこにいる」
村瀬は少し間を置いた。
「キャンパスの、管理棟の前です」
「そうか」
「先生」
「わかってる」と夏生は言った。「わかってるが、体が」
「わかってます」と村瀬は言った。「だから掴んでます」
夏生は動かなかった。
村瀬も動かなかった。
手は離さなかった。
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どのくらいそうしていたか、わからなかった。
学生が横を通り過ぎた。二人を見た。見なかったふりをして、通り過ぎた。
匂いが薄くなった。
少しずつ、薄くなった。
体の向きが変わった。
「行けます」と夏生は言った。
村瀬はすぐには手を離さなかった。
三秒後、離した。
二人で歩いた。
残り四分だった。
何も話さなかった。
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委員会の面談は四十分だった。
担当は二人だった。一人が話し、一人が書いた。
三時間のログ、戦闘データ、解離症状の診断書、村瀬のレポート。全部テーブルの上にあった。
「研究の継続についてですが」と担当が言った。
「はい」
「現状では、被験者の安全を保証できません」
「そうだと思います」
「篠原先生、率直に聞きます。ご自身で、やめられますか」
夏生は少し考えた。
「わかりません」
担当は書いた。
「やめたいと思っていますか」
夏生はもう少し考えた。
「わかりません」
担当は書いた。書く量が多かった。
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帰り道、また二人で歩いた。
管理棟の前を通った。
夏生は芝生を見なかった。
見ないように、した。
できなかった。
一度だけ、見た。
石畳の継ぎ目の盛り上がりが、見えた。
体が動かなかった。
動かなかった。
通り過ぎた。
「先生」と村瀬が言った。
「何」
「さっき、自分で通り過ぎましたね」
夏生は答えなかった。
「見てました」
「そうか」
「よかったです」
夏生は村瀬を見た。
村瀬は前を向いていた。目が少し赤かった。
夏生は何も言わなかった。
前を向いた。
歩いた。
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研究室に戻った。
ハルがいた。
珍しい場所にいた。装置のヘルメットの上に、乗っていた。
夏生はハルを見た。
ハルは夏生を見た。
動かなかった。
夏生はハルをヘルメットからどかした。
今日は、できた。
ハルは床に降りた。不満そうな顔をした。
夏生はヘルメットを手に取った。
持ったまま、しばらくいた。
置いた。
ノートを開いた。
今日の日付。
《委員会面談。継続可否、保留。》
次の行。
《芝生の前で止まった。村瀬に掴まれた。通り過ぎた。》
次の行。
《自分で、通り過ぎた。》
最後の行を少し見た。
記録か、確認か、わからなかった。
どちらでもよかった。
芝生の前で体が止まった。村瀬が腕を掴んだ。
帰り道、夏生は自分で通り過ぎた。
記録か、確認か、わからなかった。
どちらでもよかった。




