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【連作短編054】 蟻 全37話 ―悲しみの有無、不明―  作者: マチャオ (Machao)


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第十三話 記録:記録できなくなったとき、誰かが記録していないといけない。

記録できなくなったとき、誰かが記録していないといけない。

 翌朝、村瀬が来た。

 アポなしだった。顔が違った。


「先生、昨日のログ見ました」

 夏生は何も言わなかった。

「三時間です」

「そうだ」

「一人で入ったんですか」

「そうだ」

 村瀬はしばらく黙った。

「戦闘のデータが出てます」

「そうだ」

「心拍が百四十を超えてました。三十分以上」

「知らなかった」

「知らなかった」と村瀬は繰り返した。声が低かった。「モニターがなかったから、ですか」

「そうだ」

「先生、私に何か言うことはないですか」

 夏生は村瀬を見た。

 村瀬は目を逸らさなかった。

「ない」と夏生は言った。「言うべきことはあるが、言葉が出ない」


---


 村瀬が椅子を引いた。座った。

 立ったまま話す気がないことが、夏生にわかった。


「先生、聞かせてください」

「何を」

「なぜ続けるんですか」

 夏生は少し考えた。

「わからない」

「わからない」

「本当にわからない。やめる理由は十分ある。続ける理由が言語化できない」

「言語化できない、というのは」

「匂いがある。目を閉じると通路が見える。体が覚えている」村瀬を見た。「それが理由になるかどうかは、わからない。だがやめられない」

 村瀬は何も言わなかった。

「中毒だと思うか」と夏生は聞いた。

「思います」と村瀬は言った。間を置かなかった。


---


 しばらく、二人とも黙っていた。

 ハルが村瀬の足元に来た。村瀬は見なかった。


「先生」

「何」

「委員会に報告します」

 夏生は何も言わなかった。

「三時間のログを出します。戦闘データも出します。一人で入ったことも」

「わかった」

「止めてもらうためじゃないです」

 夏生は少し驚いた。顔には出さなかった。

「じゃあ何のためだ」

「記録するためです」村瀬は真っ直ぐ夏生を見た。「先生が記録できなくなったとき、誰かが記録していないといけない」


 夏生は何も言えなかった。


---


 村瀬が帰った。

 ドアが閉まった。

 夏生はしばらく、そのドアを見ていた。


 記録できなくなったとき。

 村瀬はそう言った。

 なるとき、ではなかった。

 なったとき、だった。


 夏生はノートを開いた。

 昨日のページ。

 《見なかったのは、見る必要がなかったからだ。》

 その下に、今日の日付を書いた。

 《村瀬、ログを委員会へ提出予定。記録継続の意志あり。》


 次の行。

 《村瀬は私が戻れなくなると思っている。》

 次の行を書きかけた。

 止まった。

 長い時間、止まった。


 書いた。

 《私もそう思っている。》


---


 夜、装置を見た。

 触れなかった。

 触れないことが、今日は難しかった。


 土の匂いがした。

 強かった。

 昨日よりは弱かった。


 ハルが来た。

 夏生の膝には乗らなかった。

 隣に座った。

 体を寄せなかった。ただ、隣にいた。


 夏生はハルを見た。

 ハルは前を見ていた。

 何を見ているのか、わからなかった。

 夏生には見えないものを、見ていた。


「お前には匂いがわかるか」と夏生は言った。

 ハルは動かなかった。

「土の匂いがする。今もする」

 ハルの耳が少し動いた。

「お前に届いているか」


 返事はなかった。

 ハルは前を見ていた。


 夏生はハルの見ている方向を見た。

 壁だった。

 何もなかった。


---


 翌朝、委員会から連絡が来た。

 面談の要請だった。

 夏生は承諾した。


 村瀬にも連絡した。

「委員会から面談の要請が来た」

 返信が来た。

「知ってます。私も呼ばれました」

「一緒に行くか」

 少し間があった。

「はい」


 夏生はノートを開いた。

 今日の日付を書いた。

 その下に何か書こうとした。

 書けなかった。


 代わりに、一番最初のページを開いた。

 第一回の記録。

 《負傷個体、放棄確認。巣内選別機能、匂い誘導による。悲しみの有無、不明。》


 最後の三文字を見た。

 不明。

 まだ不明だった。

 ずっと不明だった。


 それだけは変わっていなかった。

村瀬は「なるとき」ではなく「なったとき」と言った。

夏生はノートに書いた。《私もそう思っている。》

第一回の記録を開いた。《悲しみの有無、不明。》

それだけは、変わっていなかった。

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