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【連作短編054】 蟻 全37話 ―悲しみの有無、不明―  作者: マチャオ (Machao)


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第十二話 選択:誰の記録かわからなかった。

誰の記録かわからなかった。

 村瀬には言わなかった。

 委員会の条件は週一回だった。前回から八日経っていた。条件の範囲内だった。

 それでも言わなかった。


 朝、ハルに餌をやった。

 ハルは食べた。それだけだった。

 夏生は装置の準備をした。手が覚えていた。


---


 土の中に入った瞬間、体が動いた。

 今回は迷わなかった。

 列に混じらなかった。

 最初から、奥へ向かった。


 兵アリの分岐を通った。一秒。通った。

 幼虫室の前を通った。入らなかった。

 解体室の前を通った。今日は音がした。中を見なかった。

 死体保管室の前を通った。立ち止まらなかった。

 女王室の手前まで来た。


 入った。


---


 女王がいた。

 前回と同じだった。腹部が膨らんでいた。脚が床に届いていなかった。周囲の個体が支えていた。卵が出た。受け取られた。また出た。


 同じだった。

 何も変わっていなかった。


 夏生は女王の前に立った。

 触角が来た。女王の触角が、ゆっくり伸びた。夏生の体を読んだ。


 長かった。

 一秒ではなかった。十秒か、二十秒か。


 女王の複眼が光を反射していた。

 見ていた。

 夏生を、見ていた。


 夏生も見た。


 何かを伝えようとしているのか、ただ読んでいるのか、わからなかった。

 わからないまま、見た。


 周囲の個体が動き続けた。卵が出続けた。部屋が動き続けた。

 女王と夏生だけが、止まっていた。


---


 どのくらい経ったか、わからなかった。

 匂いが変わった。

 周囲の個体の動きが変わった。速くなった。密度が上がった。

 女王の触角が引いた。


 何かが来る、と体が知った。

 夏生は動いた。通路へ出た。


 別の巣の匂いだった。

 外から来ていた。侵入者だった。


 通路が変わった。働きアリが消えた。兵アリが増えた。走っていた。外へ向かっていた。

 夏生の体も走った。列に混じった。外へ向かった。


 地上に出た。


---


 光がうるさかった。

 芝生の上に、別の群れがいた。

 大きかった。数が多かった。


 夏生の体は止まらなかった。

 走った。向かった。

 顎が動いた。


 戦っていた。


 相手の体を掴んだ。顎で押さえた。相手も動いた。脚が絡んだ。体が転がった。

 痛みはなかった。

 痛みに相当する信号はあった。それでも体は動いた。止まらなかった。


 隣の個体が動かなくなった。

 夏生は見なかった。

 別の相手が来た。向かった。


---


 装置が切れた。


 夏生は椅子の上にいた。

 息が速かった。手が震えていた。


 モニターがなかった。

 村瀬がいなかった。

 記録だけが走っていた。


 窓の外が明るかった。

 昼だった。

 入ったのは朝だった。


 三時間経っていた。


---


 手を見た。

 震えていた。右手も左手も。

 指を動かした。動いた。自分の指だった。


 ノートを取った。

 書けなかった。手が震えていた。

 震えが止まるまで待った。


 五分後、書いた。

 《第九回。三時間。戦闘に参加。》

 次の行。

 《隣の個体が死んだ。見なかった。》

 次の行。

 《見なかったのは、見る必要がなかったからだ。》


 ペンを置いた。

 最後の一行を見た。


 研究者の記録ではなかった。

 夏生の記録でもなかった。

 誰の記録かわからなかった。


---


 ハルが来た。

 膝には乗らなかった。

 夏生の手の匂いを嗅いだ。

 右手を嗅いで、左手を嗅いで、離れた。


 部屋の隅に行った。

 夏生を見た。

 動かなかった。


 夏生はハルを見た。

 ハルは夏生を見ていた。

 いつもと違う目だった。

 何が違うのか、説明できなかった。


 村瀬に連絡しなかった。

 医師にも連絡しなかった。

 ノートを閉じた。


 土の匂いがした。

 強かった。

 今まで一番強かった。

三時間。戦闘。隣の個体が死んだ。見なかった。

見なかったのは、見る必要がなかったからだ。

ハルは膝に乗らなかった。部屋の隅から、夏生を見ていた。

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