第十一話 診断:戻る場所とはどこか、夏生にはわからなくなってきた。
戻る場所とはどこか、夏生にはわからなくなってきた。
専門家は、大学病院の神経内科の医師だった。
名前は聞いたが、すぐ忘れた。五十代で、白衣で、声が低かった。それだけが残った。
診察室は白かった。
窓がなかった。
夏生は椅子に座って、自分が土の中にいないことを確認した。確認する必要があることを、少し考えた。
「症状を教えてください」と医師は言った。
「症状」
「困っていること、気になっていること」
夏生は少し考えた。
「匂いが続いています」
「いつからですか」
「二か月ほど」
「どんな匂いですか」
「土の匂いです。有機物の腐敗と発酵が混じった、複合的な」
医師は書いた。
「他には」
「目を閉じると、場所の地図が展開します」
「場所というのは」
「研究対象の、巣の内部です」
医師は少し間を置いた。書いた。
「他には」
「自分の顔が、多いと感じたことがあります」
「多い」
「必要以上に、器官が多いと感じました。一度だけです」
医師は書いた。書く量が増えた。
---
一時間後、医師は言った。
「解離症状の一種だと思います」
「解離」
「没入体験の反復によって、自己と対象の境界が曖昧になっている。特に感覚系に顕著です。匂いの残存、空間記憶の優位化、身体図式の変容」
夏生は聞いた。
「治りますか」
「潜入をやめれば、おそらく」
「おそらく」
「前例がないので、断言できません」
夏生はそれ以上聞かなかった。
---
帰り道、夏生は歩いた。
バスに乗るつもりだったが、歩いた。体が歩いた。
大学まで四十分だった。
途中、公園を通った。
ベンチに老人が座っていた。鳩が足元にいた。老人は何も持っていなかった。ただ座っていた。
鳩が動いた。老人も見ていた。
夏生は立ち止まった。
老人が何をしているのか、考えた。
役割がなかった。
列もなかった。
匂いもなかった。
ただ、座っていた。
夏生にはそれが、どういう状態なのか、うまく理解できなかった。
少し前まで、理解できていたはずだった。
歩き出した。
---
研究室に戻ると、村瀬がいた。
「どうでしたか」
「解離症状だそうだ」
村瀬は何も言わなかった。
「潜入をやめれば治るかもしれないと言っていた」
「やめますか」
夏生は答えなかった。
コートを脱いだ。椅子に座った。
「先生」
「何」
「怖くないですか」
夏生は村瀬を見た。
「何が」
「このまま、戻れなくなることが」
夏生はしばらく考えた。
「戻る、というのが、どこへ戻るのかがわからなくなってきた」
村瀬は何も言わなかった。
「ここが戻る場所だとすると、今もここにいる。だから戻れなくなってはいない」
「そういう意味じゃないです」
「わかってる」と夏生は言った。「わかってるが、他の言い方ができなかった」
---
村瀬が帰った後、夏生はノートを開いた。
今日の日付。
《解離症状。感覚系優位。身体図式変容。》
次の行。
《戻る場所とはどこか。》
ペンを置いた。
机の引き出しを開けた。
父の論文が見えた。その上に委員会の文書があった。
論文を引き出した。
余白の、中学生の頃の字を見た。
《なぜ彼らは疑問を持たないのか?》
長い時間、その字を見た。
今なら少しわかる気がした。
疑問を持たないのではなかった。
疑問を持つ必要がなかった。
匂いがあって、体が動く。
それだけで、全部が動く。
それを羨ましいと思ったのか、恐ろしいと思ったのか、夏生にはわからなかった。
どちらでもあった気がした。
どちらでもなかった気もした。
---
ハルが来た。
膝に乗った。
夏生は論文をテーブルに置いた。
ハルがその上に前脚を乗せた。
「お前は疑問を持つか」
ハルは夏生を見た。
目を細めた。
あくびをした。
夏生は少し笑った。
笑ったことに、気づいた。
今回は、自分で気づいた。
解離症状、と医師は言った。
公園のベンチの老人が、何をしているのかわからなかった。
役割もなく、列もなく、匂いもなく、ただ座っている。
それがどういう状態なのか。




