↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【連作短編054】 蟻 全37話 ―悲しみの有無、不明―  作者: マチャオ (Machao)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
11/37

第十一話 診断:戻る場所とはどこか、夏生にはわからなくなってきた。

戻る場所とはどこか、夏生にはわからなくなってきた。

 専門家は、大学病院の神経内科の医師だった。

 名前は聞いたが、すぐ忘れた。五十代で、白衣で、声が低かった。それだけが残った。


 診察室は白かった。

 窓がなかった。

 夏生は椅子に座って、自分が土の中にいないことを確認した。確認する必要があることを、少し考えた。


「症状を教えてください」と医師は言った。

「症状」

「困っていること、気になっていること」

 夏生は少し考えた。

「匂いが続いています」

「いつからですか」

「二か月ほど」

「どんな匂いですか」

「土の匂いです。有機物の腐敗と発酵が混じった、複合的な」

 医師は書いた。

「他には」

「目を閉じると、場所の地図が展開します」

「場所というのは」

「研究対象の、巣の内部です」

 医師は少し間を置いた。書いた。

「他には」

「自分の顔が、多いと感じたことがあります」

「多い」

「必要以上に、器官が多いと感じました。一度だけです」

 医師は書いた。書く量が増えた。


---


 一時間後、医師は言った。

「解離症状の一種だと思います」

「解離」

「没入体験の反復によって、自己と対象の境界が曖昧になっている。特に感覚系に顕著です。匂いの残存、空間記憶の優位化、身体図式の変容」

 夏生は聞いた。

「治りますか」

「潜入をやめれば、おそらく」

「おそらく」

「前例がないので、断言できません」

 夏生はそれ以上聞かなかった。


---


 帰り道、夏生は歩いた。

 バスに乗るつもりだったが、歩いた。体が歩いた。

 大学まで四十分だった。


 途中、公園を通った。

 ベンチに老人が座っていた。鳩が足元にいた。老人は何も持っていなかった。ただ座っていた。

 鳩が動いた。老人も見ていた。


 夏生は立ち止まった。

 老人が何をしているのか、考えた。

 役割がなかった。

 列もなかった。

 匂いもなかった。


 ただ、座っていた。


 夏生にはそれが、どういう状態なのか、うまく理解できなかった。

 少し前まで、理解できていたはずだった。


 歩き出した。


---


 研究室に戻ると、村瀬がいた。

「どうでしたか」

「解離症状だそうだ」

 村瀬は何も言わなかった。

「潜入をやめれば治るかもしれないと言っていた」

「やめますか」

 夏生は答えなかった。

 コートを脱いだ。椅子に座った。

「先生」

「何」

「怖くないですか」

 夏生は村瀬を見た。

「何が」

「このまま、戻れなくなることが」

 夏生はしばらく考えた。

「戻る、というのが、どこへ戻るのかがわからなくなってきた」

 村瀬は何も言わなかった。

「ここが戻る場所だとすると、今もここにいる。だから戻れなくなってはいない」

「そういう意味じゃないです」

「わかってる」と夏生は言った。「わかってるが、他の言い方ができなかった」


---


 村瀬が帰った後、夏生はノートを開いた。

 今日の日付。

 《解離症状。感覚系優位。身体図式変容。》

 次の行。

 《戻る場所とはどこか。》


 ペンを置いた。

 机の引き出しを開けた。

 父の論文が見えた。その上に委員会の文書があった。


 論文を引き出した。

 余白の、中学生の頃の字を見た。

 《なぜ彼らは疑問を持たないのか?》


 長い時間、その字を見た。


 今なら少しわかる気がした。

 疑問を持たないのではなかった。

 疑問を持つ必要がなかった。

 匂いがあって、体が動く。

 それだけで、全部が動く。


 それを羨ましいと思ったのか、恐ろしいと思ったのか、夏生にはわからなかった。

 どちらでもあった気がした。

 どちらでもなかった気もした。


---


 ハルが来た。

 膝に乗った。

 夏生は論文をテーブルに置いた。

 ハルがその上に前脚を乗せた。


「お前は疑問を持つか」


 ハルは夏生を見た。

 目を細めた。

 あくびをした。


 夏生は少し笑った。

 笑ったことに、気づいた。

 今回は、自分で気づいた。

解離症状、と医師は言った。

公園のベンチの老人が、何をしているのかわからなかった。

役割もなく、列もなく、匂いもなく、ただ座っている。

それがどういう状態なのか。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。