第十話 境界:どちらが先にあるか、一瞬わからなかった。
どちらが先にあるか、一瞬わからなかった。
八回目の潜入の後、村瀬が帰らなかった。
データの整理が終わっても、椅子に座っていた。夏生はノートを書いていた。村瀬がいることに、しばらく気づかなかった。
「先生」
「何」
「今日、巣の中で笑いましたね」
夏生は手を止めた。
「笑った」
「モニターに出てました。口角が上がってました。頬の筋肉が」
夏生は何も言わなかった。
「どこにいたときか、わかりますか」
夏生は少し考えた。
「幼虫室だ」
「何かありましたか」
「いいや」と夏生は言った。「ただ、いた」
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幼虫室で何があったか、夏生は覚えていた。
何もなかった。
保育係が幼虫を舐めていた。いつもと同じだった。光が届かない部屋の中で、何十という命が、次の形になるのを待っていた。
それだけだった。
以前は、それを見て立ち止まった。
今回は立ち止まらなかった。
ただ、通りながら、見た。
見て、何かがあった。
言葉にならなかった。
美しい、という言葉が浮かんで、違うと思った。
正しい、という言葉が浮かんで、それも違った。
ただ、合っていた。
全部が、あるべき場所にあった。
それが顔に出ていた。
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村瀬が言った。
「先生、一度、外の人に話を聞いてもらえませんか」
「誰に」
「専門の人です。こういうケースの」
「こういうケース」
「はい」
夏生は村瀬を見た。
村瀬は目を逸らさなかった。
「考える」と夏生は言った。
村瀬は何も言わなかった。
帰り際にもう一度だけ、村瀬が振り返った。
「先生、今、土の匂いしますか」
毎回聞いた。
「する」と夏生は言った。
「強いですか」
「いつもと同じだ」
村瀬はうなずいた。ドアを閉めた。
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夜、夏生は鏡を見た。
久しぶりだった。
自分の顔を見た。
目があった。鼻があった。口があった。
当たり前だった。当たり前のはずだった。
しばらく見た。
何かが合わなかった。
合わない、というより、多かった。
目が、必要以上にあった。
鼻が、必要以上に複雑だった。
表情が、必要以上に動いた。
そう思った。
思ってから、鏡から離れた。
明かりを消した。
暗い部屋の中で、夏生は座った。
目を閉じた。
土の匂いがした。
目を閉じると、通路が見えた。
見えた。
暗闇の中に、通路の輪郭があった。
幼虫室への道を、体が知っていた。
女王室への道を、体が知っていた。
死体保管室への道を、体が知っていた。
目を開けた。
研究室だった。
夏生の部屋だった。
どちらが先にあるか、一瞬わからなかった。
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ハルが来た。
暗い部屋の中で、夏生の膝に乗った。
重さがあった。温かさがあった。
夏生はハルを見た。
見えなかった。暗すぎた。
輪郭だけあった。
「ハル」と呼んだ。
ハルが動いた。顔を上げた気配がした。
「お前は何のためにいる」
返事はなかった。
ハルは動かなかった。
重さと温かさが、膝にあった。
夏生はその重さを確かめた。
指で毛に触れた。
毛があった。体があった。生きていた。
鏡を見たとき感じた「多い」という感覚が、ハルには起きなかった。
なぜかは、わからなかった。
ただ、起きなかった。
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翌朝、ノートを開いた。
昨夜の日付で書いた。
《目を閉じると巣内の地図が展開する。地上での視覚情報より詳細。》
次の行。
《鏡の前で自分の顔に違和感。過剰に思えた。》
次の行。
《ハルは違和感なし。》
三行目を少し見た。
意味がわからなかった。
書いた自分には意味があったはずだが、朝になると説明できなかった。
消さなかった。
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村瀬に連絡した。
「専門家に、会う」
返信が来た。
「ありがとうございます」
夏生はその返信を見た。
八回目、と村瀬は言った。正確には七回だった。
夢の中の一回を、村瀬は知らなかった。
夏生は数えていた。
訂正しなかった。
目を閉じると、巣の通路が見えた。
鏡の中の自分の顔が、多すぎた。
ハルだけは、違和感がなかった。
なぜかは、わからなかった。




