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【連作短編054】 蟻 全37話 ―悲しみの有無、不明―  作者: マチャオ (Machao)


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第十話 境界:どちらが先にあるか、一瞬わからなかった。

どちらが先にあるか、一瞬わからなかった。

 八回目の潜入の後、村瀬が帰らなかった。


 データの整理が終わっても、椅子に座っていた。夏生はノートを書いていた。村瀬がいることに、しばらく気づかなかった。


「先生」

「何」

「今日、巣の中で笑いましたね」

 夏生は手を止めた。

「笑った」

「モニターに出てました。口角が上がってました。頬の筋肉が」

 夏生は何も言わなかった。

「どこにいたときか、わかりますか」

 夏生は少し考えた。

「幼虫室だ」

「何かありましたか」

「いいや」と夏生は言った。「ただ、いた」


---


 幼虫室で何があったか、夏生は覚えていた。

 何もなかった。

 保育係が幼虫を舐めていた。いつもと同じだった。光が届かない部屋の中で、何十という命が、次の形になるのを待っていた。

 それだけだった。


 以前は、それを見て立ち止まった。

 今回は立ち止まらなかった。

 ただ、通りながら、見た。

 見て、何かがあった。


 言葉にならなかった。

 美しい、という言葉が浮かんで、違うと思った。

 正しい、という言葉が浮かんで、それも違った。

 ただ、合っていた。

 全部が、あるべき場所にあった。


 それが顔に出ていた。


---


 村瀬が言った。

「先生、一度、外の人に話を聞いてもらえませんか」

「誰に」

「専門の人です。こういうケースの」

「こういうケース」

「はい」

 夏生は村瀬を見た。

 村瀬は目を逸らさなかった。

「考える」と夏生は言った。

 村瀬は何も言わなかった。


 帰り際にもう一度だけ、村瀬が振り返った。

「先生、今、土の匂いしますか」

 毎回聞いた。

「する」と夏生は言った。

「強いですか」

「いつもと同じだ」

 村瀬はうなずいた。ドアを閉めた。


---


 夜、夏生は鏡を見た。

 久しぶりだった。

 自分の顔を見た。

 目があった。鼻があった。口があった。

 当たり前だった。当たり前のはずだった。


 しばらく見た。

 何かが合わなかった。


 合わない、というより、多かった。

 目が、必要以上にあった。

 鼻が、必要以上に複雑だった。

 表情が、必要以上に動いた。


 そう思った。

 思ってから、鏡から離れた。


 明かりを消した。

 暗い部屋の中で、夏生は座った。

 目を閉じた。

 土の匂いがした。


 目を閉じると、通路が見えた。

 見えた。

 暗闇の中に、通路の輪郭があった。

 幼虫室への道を、体が知っていた。

 女王室への道を、体が知っていた。

 死体保管室への道を、体が知っていた。


 目を開けた。

 研究室だった。

 夏生の部屋だった。


 どちらが先にあるか、一瞬わからなかった。


---


 ハルが来た。

 暗い部屋の中で、夏生の膝に乗った。

 重さがあった。温かさがあった。


 夏生はハルを見た。

 見えなかった。暗すぎた。

 輪郭だけあった。


「ハル」と呼んだ。

 ハルが動いた。顔を上げた気配がした。

「お前は何のためにいる」


 返事はなかった。

 ハルは動かなかった。

 重さと温かさが、膝にあった。


 夏生はその重さを確かめた。

 指で毛に触れた。

 毛があった。体があった。生きていた。


 鏡を見たとき感じた「多い」という感覚が、ハルには起きなかった。

 なぜかは、わからなかった。

 ただ、起きなかった。


---


 翌朝、ノートを開いた。

 昨夜の日付で書いた。

 《目を閉じると巣内の地図が展開する。地上での視覚情報より詳細。》

 次の行。

 《鏡の前で自分の顔に違和感。過剰に思えた。》

 次の行。

 《ハルは違和感なし。》


 三行目を少し見た。

 意味がわからなかった。

 書いた自分には意味があったはずだが、朝になると説明できなかった。


 消さなかった。


---


 村瀬に連絡した。

「専門家に、会う」

 返信が来た。

「ありがとうございます」


 夏生はその返信を見た。

 八回目、と村瀬は言った。正確には七回だった。

 夢の中の一回を、村瀬は知らなかった。

 夏生は数えていた。


 訂正しなかった。

目を閉じると、巣の通路が見えた。

鏡の中の自分の顔が、多すぎた。

ハルだけは、違和感がなかった。

なぜかは、わからなかった。

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