第20話 涙
沈黙の続く中、おもむろにドアがノックされた。
拓也が「どうぞ」と低い声で返事をすると、ドアが静かに開いた。
西宮ホールディングスの顧問弁護士、木下が頭を下げて入室し、悠真が出迎えた。どうやら悠真が事前に連絡を入れていたらしい。
沙紀はその光景をぼんやりと眺めていた。やがて、山田の後ろからさらに二つの人影が現れたのを見て、息を呑んだ。
ビジネススーツを着込んだ、母の久美子と叔父の敏明だった。
久美子と敏明は、まるで自分のオフィスに入るように社長室の奥に進み、拓也と麗奈の前に立った。
「お久しぶりです、お義母さん。おじい様は、ご愁傷さまでした」
拓也が、何事もなかったかのような表情で挨拶をした。
「お心遣い、ありがとう。おかげさまで、大往生だったわ。今夜お通夜だから、来てくださったら父も喜ぶでしょう」
久美子は目元に悲しみを浮かべながら、にこやかに答えた。
「もちろん伺います」
拓也は、礼儀正しく返事をした。
「麗奈ちゃんも久しぶりね。相変わらず、かわいいわ」
久美子は麗奈に向かって、優しげに微笑んだ。
「おばさまもお変わりないようですね」
「留学から帰ってきたの?」
久美子は、白々しく聞いた。
「ええ。おかげさまで、無事にMBAを修了して日本に帰ってこれましたわ」
麗奈はにこやかだが、帰国の本当の理由を言わなくてもわかるだろう、と言わんばかりの棘のある口調で答えた。
「ハーバードでしょう? すごいわねえ。これからも、沙紀と仲良くしてほしいわ」
久美子の言葉が甘く響いた。
「もちろんですわ、おばさま。沙紀お姉さんとは大の仲良しですもの」
麗奈は優雅に微笑み返した。
「関係者がそろったことですし、隣の会議室に移りませんか?」
悠真が如才なく、明るい声で提案した。
一同は自然な様子で社長室を後にし始めた。すれ違いざまに、久美子は沙紀の耳元に顔を寄せ、小さく囁いた。
「よくやったわ。あなたはもう、帰りなさい」
その言葉を最後に、久美子と敏明は会議室へと消えた。
沙紀は一人、広々とした社長室に残された。
彼女は呆然と立ち尽くし、冷たい大理石の床を見つめていた。頰を、一筋の涙が伝った。自分でも理由がわからなかった。
自分の居場所は、もう失われていた。母や叔父、拓也、麗奈、そして悠真——誰もがそれぞれの役割を演じ、次の手を打っている。ただ一人、沙紀だけが、筋書きから取り残されているように思えた。
第一部 完




