19.「お辛い状況」
しばらくの沈黙の後、ライオネル様が、ゆっくりとその場に膝をついた。
かつての英雄王子が、誰の前でも決して頭を垂れなかったはずのその人が、今、私の前で床に膝をついている。
謁見の間に集まった側近たちの間に、微かなざわめきが広がっていった。
「エミア」
深く頭を下げたまま、彼は絞り出すような声で告げる。
「お願いだ。王国を、国民を救ってくれ」
その声には、かつての傲慢さの欠片もない。
ただ、切実な懇願だけが、震える言葉に滲む。
「私は……あの日、お前を切り捨てた。それがどれほど愚かなことだったか、今になって痛いほどわかった。だが、それでも頼ませてくれ。国民には、何の罪もない」
その言葉を聞きながら、私はかつて彼から浴びせられた言葉を思い出さずにはいられなかった。
「女としてつまらない」という、あの冷たい一言。
あの日の屈辱が、今も胸のどこかにわだかまり続けている。
続いて、アリア様もまた、震える足取りで膝をついた。
「聖女様……」
涙を浮かべながら、彼女は深く頭を垂れる。
「私のことは、どうでもいいのです。ですから、どうか……どうか、力を貸してください」
かつて謁見の間で私を嘲笑い、寺院で祈っていろと嘲った彼女が、今は涙ながらに許しを乞うている。
その光景を、私はどこか遠い出来事のように、静かに見つめていた。
「私が愚かでした。あなた様を見下し、傷つけたこと、深くお詫び申し上げます」
アリア様の声は、これまで聞いたどんな言葉よりも真摯に響く。
それでも、その真摯さが、あの日私が味わった屈辱を消し去ってくれるわけではない。
「私は、南方の小さな部族の生まれです。戦に負け、戦利品として王国に連れて来られました。ライオネル様に望まれて隣に立てることだけが、あの頃の私の、唯一の誇りでした」
震える声で、アリア様はぽつりぽつりと続ける。
「だから……あなた様を見下すことでしか、自分の場所を守れなかったのです。愚かな言い訳だと、わかっています」
その告白に、私は思わず言葉を失う。
かつて勝ち誇っていたあの人にも、誰にも言えなかった不安があったのだと知り、憎しみだけでは片付けられない複雑な感情が、静かに胸の奥に広がっていった。
それでも、それは彼女のしたことを許す理由にはならない。
何と返せばいいのか、言葉が見つからなかった。
二人が並んで床に膝をつき、深く頭を垂れる姿を、私はただ静かに見下ろす。
かつて自分を見下し、切り捨てた者たちが、今は必死に許しを乞うている。
その皮肉な逆転に、複雑な感情が胸の奥で渦を巻いていた。
隣に立つ彼――カイゼル陛下は、腕を組んだまま、二人の様子を冷ややかに見つめている。
その眼差しには、一切の同情も感じられない。
謁見の間に満ちる沈黙の中、私はゆっくりと息を吸い込んだ。
不思議なほど、心は静か。
かつてなら、彼らの言葉に動揺し、涙を堪えることさえできなかったかもしれない。
それでも今の私には、あの日感じたような不安も、動揺もない。
銀色の髪をそっと払い、私は背筋を伸ばす。
この帝国で過ごした日々が、いつの間にか自分に確かな気品と落ち着きを与えてくれていたのだと、自分でも改めて気づかされた。
「……お二人のお辛い状況は、理解いたします」
静かに、揺るぎない声で私は言葉を紡いでいく。
「ですが、私はもうゼントロールの聖女ではありません。あなた方にとって邪魔になったとき、簡単に捨てられた存在です。今さら私の『つまらない』力を求める権利は、あるでしょうか」
その一言に、ライオネル様が弾かれたように顔を上げた。
信じられないという表情が、そこには浮かんでいる。
かつて自分が放った言葉が、こうして自分自身へと返ってくることを、彼は予想もしていなかったのだろう。
アリア様もまた、呆然とした様子で私を見つめていた。
かつて祈るだけの弱々しい女だと見下していたはずの私が、今はこれほど毅然とした態度で言葉を発している。
その変化に、二人とも戸惑いを隠せずにいるようだった。
私は、静かに言葉を重ねる。
「私はここで、新しい人生を歩むことを選びました。どうか……もう二度と、私の前に現れないでください。それが、あなた方への最後の慈悲です」
その言葉には、優しさを込めたつもり。
それでも同時に、過去を完全に清算する強さも、確かに込めてある。
かつて献身だけを支えに生きてきた聖女ではない。
この帝国で、一人の女性として自立し、大切な人に愛される存在として、私は確かに変わっていた。
その事実を、私は自分自身の言葉によって、改めて実感する。
ライオネル様は、なおも何かを言おうと口を開きかけた。
続く言葉は見つからなかったのか、ただ唇を震わせるだけ。
アリア様は、涙を浮かべたまま、力なく俯いている。
かつて勝ち誇っていた彼女の姿は、もうそこにはない。
謁見の間に満ちる静寂の中、私はただ静かに、二人を見つめ続けていた。
心の中には、もう迷いも、動揺もない。
静寂を破ったのは、隣に立つ彼の声だった。
「聞いての通りだ」
抑揚のない、それでいて逆らう隙を与えない声に、跪いたままの二人がびくりと肩を震わせる。
彼は一歩、また一歩と、玉座から二人へと歩み寄っていく。
その足取りだけで、謁見の間の空気がさらに張り詰めていった。
「彼女は」
氷のように冷え切った瞳が、鋭くライオネル様たちを見据える。
「我が帝国の聖女だ」
その一言に、ライオネル様が息を呑む音が聞こえた。
「お前たちに、触れさせるものか」
冷徹な声には、これ以上の反論を一切許さない、確かな重みがある。
彼はさらに言葉を重ねる。
「王国が滅びようと、疫病で全滅しようと、私の知ったことではない」
その言葉に、ライオネル様が愕然としたように顔を上げる。
「陛下……そんな……民には何の罪も……」
「罪のない民を苦しめたのは、お前たちの愚かな判断ではないのか」
彼の声は、氷のように冷ややかだった。
「聖女を粗末に扱った報いを、今になって受けているだけのこと」
その容赦のない断罪に、ライオネル様は言葉を失い、ただ床に視線を落とすしかなかった。
アリア様もまた、涙を流しながら、なす術もなく俯いている。
「二度と」
彼の声が、謁見の間全体に低く響き渡る。
「私とエミアの前に、現れるな」
その一言を最後に、彼は側近たちに冷たく命じた。
「連れて行け」
衛兵たちが静かに歩み寄り、二人を連れて謁見の間から退出させていく。
ライオネル様が最後に振り返り、何か言おうとしたが、その口から言葉が発せられることはなかった。
ただ絶望に染まった表情だけが、私の記憶に深く刻まれていく。
二人の姿が完全に見えなくなると、謁見の間には静かな空気が戻ってきた。
かつて自分を傷つけた者たちが、絶望の表情を浮かべて去っていく様子を目にしても、不思議なほど心は凪いでいた。
憎しみでも、憐れみでもない。
ただ、一つの時代が確かに終わったのだという、静かな実感だけがそこにあった。
隣に立つ彼が、私の手をそっと取る。
「もう、案ずることはない」
その言葉に、私は小さく頷いた。
過去はもう、自分を縛るものではなくなっている。
そのことを、私は今、はっきりと実感していた。




