18.「帝国を訪れる」
使者が追い返されてから数日後、再び帝国に緊迫した報せがもたらされる。
「ゼントロール王国の状況が、さらに悪化しております」
側近の報告に、私は思わず息を呑む。
「疫病はもはや王都全体に広がり、医療も統治機能も限界に達しているとのことです。そして――」
側近が、一瞬言い淀んだ。
「ライオネル王太子殿下ご自身と、アリア様が、直接この帝国を訪れるとの報せが届いております」
その名を聞いた瞬間、私の心臓が大きく音を立てる。
かつての婚約者と、彼が選んだ女性。
あの謁見の間で受けた屈辱の記憶が、鮮明に蘇る。
彼らが直接この帝国を訪れるという事実に、私は動揺を隠しきれなかった。
「エミア」
隣に立つ彼が、静かに私を呼ぶ。
振り返ると、その表情には、驚くほどの落ち着きが浮かんでいた。
「会うがよい」
その一言に、私は思わず彼を見つめ返す。
「よろしいのですか。前回は、あれほど……」
「あのときとは、状況が違う」
彼は淡々とした口調で続けた。
「王太子自らが頭を下げに来るというなら、それを退ける理由はない。ただし」
瞳が、刃のように鋭い光を宿す。
「向こうがどのような態度を取るか、しっかりと見極める必要がある」
彼の落ち着き払った様子に、私は少しずつ動揺が収まっていくのを感じていた。
かつて一人で立ち向かわねばならなかったあの謁見の間とは違う。
今は、隣にこの人がいてくれる。
「謁見の準備を整えよ」
彼は側近に短く命じると、私の方へと向き直る。
大きな手が、そっと私の肩に触れた。
「案ずるな」
低く、けれど確かな力強さを持つ声。
「俺がいる」
その一言に、胸の奥が温かく満たされていく。
かつて婚約者だったあの人の前に立つことへの恐れは、まだ完全には消えていなかった。
それでも、隣にこの人が立ってくれるというだけで、これほどまでに心強く感じられることに、私は自分でも驚いていたのだ。
「はい……ありがとうございます」
☆
謁見の間に足を踏み入れると、そこにはすでに二つの人影があった。
近づくにつれ、その姿がはっきりと見えてくる。
私は思わず、自分の目を疑った。
かつて誰よりも堂々としていたライオネル様の姿は、見る影もない。
金髪は乱れ、頬はやつれ、纏う衣服も旅の疲労を隠しきれないほど汚れている。
かつての英雄王子の威厳は、そこにはもう残されていなかった。
その傍らに立つアリア様もまた、以前の華やかさとは程遠い姿。
褐色の肌はどこか青白く、豪奢だったはずのドレスも、今は薄汚れている。
二人は私たちの姿を認めた瞬間、驚愕したように目を見開いた。
「エミア……」
ライオネル様が、掠れた声で私の名を呼ぶ。
その声には、かつての傲慢さは微塵も感じられない。
私は静かに、確かな足取りで彼らの前に進み出た。
淡い青と銀の刺繍が施された、皇后候補としての装いを纏った自分の姿が、彼らの目にどう映っているのか――それを、私はあえて気にかけないようにする。
アリア様の視線が、私の装いを上から下まで、ゆっくりと辿っていくのがわかった。
その瞳の奥に浮かんでいるのは、隠しきれない驚きと、そして――嫉妬の色。
「そんな……」
小さく漏れたその呟きには、明らかな動揺が滲む。
かつて自分が見下し、嘲笑っていた相手が、今は皇后候補として、これほどまでに輝かしい姿でそこに立っている。
その事実を、彼女はまだ受け入れられずにいるようだった。
「お久しぶりでございます」
私は静かに、努めて冷静な声でそう返した。
感情を表に出さないよう、細心の注意を払いながら。
隣に立つ彼――カイゼル陛下が、鋭い視線でライオネル様たちを見据えている。
その存在感だけで、二人がどれほど萎縮しているかが手に取るようにわかる。
「王太子殿下ご自身が、このような遠路をわざわざ」
私の言葉に、ライオネル様は苦しげに顔を歪めた。
「エミア……頼む」
その声は、かつて誇り高かった王子の姿からは想像もできないほど、追い詰められた響きを帯びていた。
謁見の間に満ちる重い緊張の中、静かにかつての婚約者と、彼が選んだ女性の姿を見つめ続ける。
もはやそこには、自分を傷つけた者たちへの恐れではなく、ただ静かな確かさだけが胸の内にあった。




