第7話 鳴らない電話
照会対応の初日は、九月二十四日、木曜日だった。
佐久間貴史のデスクには、その朝、一枚のラミネートカードが置かれていた。
三宅が用意したものだった。
【一次受け 対応手順】
①名乗る(管理業務課・氏名)
②相手の会社/部署/氏名を確認
③用件を聞く
④分かるものは回答/不明は「確認して折り返し」
⑤担当に振る場合は保留→内線転送
紙だった。
紙のメモは禁止されているのに、これは紙だった。数字が書かれていないから許されるのだろう。
佐久間は、そのカードを長く見ていた。
紙が、机の上にある。
それだけのことが、少し嬉しかった。嬉しいと感じた自分に、少し情けなくなった。
「これ、俺が作ったやつ。使って」
三宅が言った。「最初は緊張するけど、慣れるから」
「ありがとうございます」
佐久間は、その日の朝、鏡の前で六回練習した。
六回目で、ようやく人間の顔になった。
最初の電話は、九時二十二分に鳴った。
佐久間の手が、受話器に伸びた。
伸びて、止まった。
鳴っている。二回目のコール。
取ればいい。①名乗る。それだけだ。
三回目のコール。
喉が、乾いていた。
声が出るかを、確かめたかった。確かめる時間はなかった。
四回目のコール。
斜め前で、三宅が受話器を取った。
「はい、管理業務課、三宅です」
佐久間の手は、受話器から十センチのところで止まっていた。
その手を、ゆっくり引いた。引いて、膝の上に置いた。
三宅は電話しながら、佐久間のほうを見なかった。
見なかったのが、救いだったのか、そうでなかったのか、佐久間には分からなかった。
二本目は、九時五十一分。
佐久間は、今度は一回目のコールで受話器を取った。
「はい、管理業務課、さ、佐久間です」
噛んだ。
噛んだことで、頭の中に「噛んだ」という文字が浮かんで、次の言葉が遅れた。
「あ、佐久間さん? 関連の東和物流の、田村ですけど」
「お世話になっております」
「先月分の請求書の件で、あの、内訳の照会なんですけど」
内訳。
佐久間の中で、単語が引っかかった。請求書の内訳。それは経理か、それとも自分の課か。
ラミネートカードを見た。④分かるものは回答。⑤不明は担当に振る。
担当が、誰か分からない。
「恐れ入ります、少しお待ちいただけますでしょうか」
「はい」
保留を押した。
押して、三宅を見た。三宅は別の電話中だった。
佐久間は、フロアを見渡した。
石橋はいない。課長は会議。若手二人は席にいたが、話しかけたことがほとんどない相手だった。
保留の秒数が、電話機の液晶に表示されていた。
00:22。
00:35。
佐久間は立ち上がりかけて、座った。
立ち上がって誰かに聞くという行為に、体が付いてこなかった。
00:48。
三宅が電話を切った。
「三宅さん、すみません、請求書の内訳照会は」
「あ、それ経理。宮原さんに転送して。内線は四二〇八」
「ありがとうございます」
佐久間は転送した。
転送しながら、田村を五十六秒待たせたことを考えていた。
五十六秒。
電話で五十六秒は、長い。
長いが、致命的ではない。田村は何も言わなかった。誰も何も言わない。
誰も何も言わないことが、この会社の仕組みだった。
午前中、電話は十一回鳴った。
佐久間が取れたのは、四回。
残りは三宅か、若手が取った。
取れなかった七回のうち、五回は、手が止まった。
鳴っている音を聞いて、受話器に手を伸ばして、その途中で、体が動かなくなる。
なぜ動かないのかは、はっきりしていた。
――取ったら、答えられないかもしれない。
――答えられなかったら、保留にする。
――保留にしたら、三宅に聞く。
――三宅に聞いたら、三宅が引き取る。
――引き取られたら、相手は次から三宅にかける。
――そうなったら、自分がここにいる意味が減る。
この六段の階段が、コール二回のあいだに頭の中を駆け上がる。
駆け上がっている途中で、誰かが電話を取る。
昼前、三宅が佐久間の横に来た。
「電話、無理して取らなくていいからね」
佐久間は、顔を上げた。
「え」
「最初はみんなそうだから。慣れるまで、取れるときだけ取ればいいよ。俺らが取るから」
優しかった。
完璧に、優しかった。
佐久間は、笑顔を作った。
「ありがとうございます。すみません」
「謝らなくていいって」
三宅は去った。
佐久間は画面に向き直った。
ウィンドウは十六枚あった。
「取れるときだけ取ればいい」。
その言葉の下で、佐久間は計算を始めた。
取れるときだけ取る。
取れないときは、他人が取る。
他人が取った回数は、記録されないが、記憶される。
三宅は数えていないだろう。数えていないが、体感として持つ。「佐久間くんは電話が苦手」という体感を。
その体感は、いつか言葉になる。半年後の面談で、「電話、まだ苦手そうだね」という形で。
だから、取らなければならない。
取らなければならないのに、「取らなくていい」と言われている。
――どっちなんだ。
佐久間は、その問いを頭の中で声にした。
声にして、答えがないことを確認した。
どちらでもいいのだ。
三宅は、本気で「取らなくていい」と思っている。そして半年後には、本気で「電話が苦手」と評価する。
その二つは、三宅の中で矛盾しない。矛盾しないのは、三宅が悪人ではないからだ。
悪人でないから、矛盾に気づかない。気づかないから、修正されない。
修正されない構造の中に、自分は立っている。
十三時十分、佐久間はトイレの個室に入った。
便座に座って、膝に肘をついて、頭を抱えた。
抱えて、そのまま八分いた。
個室の壁は薄い水色で、正面に「節水にご協力ください」というシールが貼られていた。
佐久間はそれを読んだ。読んで、また読んだ。
文字を読んでいると、思考が止まってくれる。
節水にご協力ください。
節水にご協力ください。
九分目に、外で誰かが入ってきた。
二人だった。若手の声だった。
「──だからさ、あれ振ったらまた保留だよ」
「はは、まあね」
「三宅さんも大変だよ、面倒見るの」
水が流れた。
二人は出ていった。
佐久間は、動かなかった。
あれ、というのが自分を指しているかは、分からない。
三宅が面倒を見ている相手は、自分以外にもいるかもしれない。
文脈の前半を聞いていないから、断定できない。
断定できない。
それが、いちばん、きつかった。
断定できれば、怒れる。
断定できないから、確認する作業が始まる。
あれは自分か。自分だろう。自分ではないかもしれない。だが保留は自分がした。今日、五十六秒。それを見ていた人間がいる。だから自分だ。だが「また」と言った。「また」ということは複数回だ。自分は今日が初日だ。だから自分ではない。いや、月次の一円で七十分止まったこともある。あれも保留と言えるか。言えない。あれは電話ではない。
頭の中で、それが十七周した。
十七周目で、佐久間は自分が数えていることに気づいた。
数えていた。
周回数を、数えていた。
佐久間は立ち上がって、水を流した。
流す必要はなかったが、流した。
鏡の前を、通った。
立ち止まらなかった。
午後、佐久間は一本も電話を取らなかった。
鳴るたびに、手を伸ばそうとした。
伸ばそうとする、という動作が、体の中で完結して、外に出なかった。
十五時、三宅が言った。
「佐久間くん、今日はもう電話いいよ。月次のほうやって」
「はい」
「明日から、また少しずつでいいから」
佐久間は頷いた。
月次のファイルを開いた。
開いて、数字を見た。
数字が、数字として見えなかった。
黒い形が並んでいるのは分かる。それが金額を表していることも分かる。
だが、意味に変換されない。
佐久間は、同じセルを四回クリックした。
クリックして、何をしようとしていたのかを思い出せなかった。
メモ帳を開いた。
二十九個のファイルの、どれを開けばいいのか分からなかった。
全部開いた。
二十九枚のテキストウィンドウが、画面を埋め尽くした。
埋め尽くされた画面を、佐久間はしばらく見ていた。
自分の書いた字が、そこに全部あった。全部あるのに、何一つ読めなかった。
一枚ずつ閉じた。
二十九枚閉じるのに、四分かかった。
最後に残ったのは、「作業ログ.txt」だった。
その中に、佐久間は一行打ち込んだ。
・9/24 照会初日。電話4/11。午後0本。
打って、保存した。
誰にも見せないファイルに、自分の欠損が記録された。
この記録を残す理由は、もう「言った言わない」の備えではなかった。
自分が壊れていく速度を、自分で測るためだった。
測って、どうするのか。
どうもしない。
ただ、測っていないと、自分が今どこにいるのか分からなくなる。
定時、佐久間はラミネートカードを引き出しに入れた。
入れて、閉めて、もう一度開けて、取り出した。
紙だった。硬い、薄い、光沢のある紙。
持ち帰りたい、と思った。
数字が書いていないから、たぶん規程違反にはならない。
佐久間はそれを鞄に入れた。
入れてから、なぜそんなことをしたのか、自分でも分からなかった。
分からないまま、エレベーターに乗った。
鏡張りの壁に、自分が映っていた。
目を、逸らした。
(最終話へ続く)




