↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
7/8

第7話 鳴らない電話

 照会対応の初日は、九月二十四日、木曜日だった。


 佐久間貴史のデスクには、その朝、一枚のラミネートカードが置かれていた。

 三宅が用意したものだった。


  【一次受け 対応手順】

  ①名乗る(管理業務課・氏名)

  ②相手の会社/部署/氏名を確認

  ③用件を聞く

  ④分かるものは回答/不明は「確認して折り返し」

  ⑤担当に振る場合は保留→内線転送


 紙だった。

 紙のメモは禁止されているのに、これは紙だった。数字が書かれていないから許されるのだろう。

 佐久間は、そのカードを長く見ていた。


 紙が、机の上にある。

 それだけのことが、少し嬉しかった。嬉しいと感じた自分に、少し情けなくなった。


「これ、俺が作ったやつ。使って」

 三宅が言った。「最初は緊張するけど、慣れるから」


「ありがとうございます」


 佐久間は、その日の朝、鏡の前で六回練習した。

 六回目で、ようやく人間の顔になった。



 最初の電話は、九時二十二分に鳴った。


 佐久間の手が、受話器に伸びた。

 伸びて、止まった。


 鳴っている。二回目のコール。

 取ればいい。①名乗る。それだけだ。


 三回目のコール。


 喉が、乾いていた。

 声が出るかを、確かめたかった。確かめる時間はなかった。


 四回目のコール。


 斜め前で、三宅が受話器を取った。


「はい、管理業務課、三宅です」


 佐久間の手は、受話器から十センチのところで止まっていた。

 その手を、ゆっくり引いた。引いて、膝の上に置いた。


 三宅は電話しながら、佐久間のほうを見なかった。

 見なかったのが、救いだったのか、そうでなかったのか、佐久間には分からなかった。



 二本目は、九時五十一分。


 佐久間は、今度は一回目のコールで受話器を取った。


「はい、管理業務課、さ、佐久間です」


 噛んだ。

 噛んだことで、頭の中に「噛んだ」という文字が浮かんで、次の言葉が遅れた。


「あ、佐久間さん? 関連の東和物流の、田村ですけど」

「お世話になっております」

「先月分の請求書の件で、あの、内訳の照会なんですけど」


 内訳。

 佐久間の中で、単語が引っかかった。請求書の内訳。それは経理か、それとも自分の課か。

 ラミネートカードを見た。④分かるものは回答。⑤不明は担当に振る。

 担当が、誰か分からない。


「恐れ入ります、少しお待ちいただけますでしょうか」

「はい」


 保留を押した。

 押して、三宅を見た。三宅は別の電話中だった。


 佐久間は、フロアを見渡した。

 石橋はいない。課長は会議。若手二人は席にいたが、話しかけたことがほとんどない相手だった。


 保留の秒数が、電話機の液晶に表示されていた。

 00:22。

 00:35。


 佐久間は立ち上がりかけて、座った。

 立ち上がって誰かに聞くという行為に、体が付いてこなかった。

 00:48。


 三宅が電話を切った。


「三宅さん、すみません、請求書の内訳照会は」

「あ、それ経理。宮原さんに転送して。内線は四二〇八」

「ありがとうございます」


 佐久間は転送した。

 転送しながら、田村を五十六秒待たせたことを考えていた。


 五十六秒。

 電話で五十六秒は、長い。

 長いが、致命的ではない。田村は何も言わなかった。誰も何も言わない。


 誰も何も言わないことが、この会社の仕組みだった。



 午前中、電話は十一回鳴った。


 佐久間が取れたのは、四回。

 残りは三宅か、若手が取った。


 取れなかった七回のうち、五回は、手が止まった。

 鳴っている音を聞いて、受話器に手を伸ばして、その途中で、体が動かなくなる。


 なぜ動かないのかは、はっきりしていた。

 ――取ったら、答えられないかもしれない。

 ――答えられなかったら、保留にする。

 ――保留にしたら、三宅に聞く。

 ――三宅に聞いたら、三宅が引き取る。

 ――引き取られたら、相手は次から三宅にかける。

 ――そうなったら、自分がここにいる意味が減る。


 この六段の階段が、コール二回のあいだに頭の中を駆け上がる。

 駆け上がっている途中で、誰かが電話を取る。


 昼前、三宅が佐久間の横に来た。


「電話、無理して取らなくていいからね」


 佐久間は、顔を上げた。


「え」

「最初はみんなそうだから。慣れるまで、取れるときだけ取ればいいよ。俺らが取るから」


 優しかった。

 完璧に、優しかった。


 佐久間は、笑顔を作った。


「ありがとうございます。すみません」

「謝らなくていいって」


 三宅は去った。


 佐久間は画面に向き直った。

 ウィンドウは十六枚あった。


 「取れるときだけ取ればいい」。

 その言葉の下で、佐久間は計算を始めた。


 取れるときだけ取る。

 取れないときは、他人が取る。

 他人が取った回数は、記録されないが、記憶される。

 三宅は数えていないだろう。数えていないが、体感として持つ。「佐久間くんは電話が苦手」という体感を。

 その体感は、いつか言葉になる。半年後の面談で、「電話、まだ苦手そうだね」という形で。


 だから、取らなければならない。

 取らなければならないのに、「取らなくていい」と言われている。


 ――どっちなんだ。


 佐久間は、その問いを頭の中で声にした。

 声にして、答えがないことを確認した。


 どちらでもいいのだ。

 三宅は、本気で「取らなくていい」と思っている。そして半年後には、本気で「電話が苦手」と評価する。

 その二つは、三宅の中で矛盾しない。矛盾しないのは、三宅が悪人ではないからだ。

 悪人でないから、矛盾に気づかない。気づかないから、修正されない。


 修正されない構造の中に、自分は立っている。



 十三時十分、佐久間はトイレの個室に入った。


 便座に座って、膝に肘をついて、頭を抱えた。

 抱えて、そのまま八分いた。


 個室の壁は薄い水色で、正面に「節水にご協力ください」というシールが貼られていた。

 佐久間はそれを読んだ。読んで、また読んだ。

 文字を読んでいると、思考が止まってくれる。


 節水にご協力ください。

 節水にご協力ください。


 九分目に、外で誰かが入ってきた。

 二人だった。若手の声だった。


「──だからさ、あれ振ったらまた保留だよ」

「はは、まあね」

「三宅さんも大変だよ、面倒見るの」


 水が流れた。

 二人は出ていった。


 佐久間は、動かなかった。


 あれ、というのが自分を指しているかは、分からない。

 三宅が面倒を見ている相手は、自分以外にもいるかもしれない。

 文脈の前半を聞いていないから、断定できない。


 断定できない。

 それが、いちばん、きつかった。


 断定できれば、怒れる。

 断定できないから、確認する作業が始まる。

 あれは自分か。自分だろう。自分ではないかもしれない。だが保留は自分がした。今日、五十六秒。それを見ていた人間がいる。だから自分だ。だが「また」と言った。「また」ということは複数回だ。自分は今日が初日だ。だから自分ではない。いや、月次の一円で七十分止まったこともある。あれも保留と言えるか。言えない。あれは電話ではない。


 頭の中で、それが十七周した。

 十七周目で、佐久間は自分が数えていることに気づいた。


 数えていた。

 周回数を、数えていた。


 佐久間は立ち上がって、水を流した。

 流す必要はなかったが、流した。


 鏡の前を、通った。

 立ち止まらなかった。



 午後、佐久間は一本も電話を取らなかった。


 鳴るたびに、手を伸ばそうとした。

 伸ばそうとする、という動作が、体の中で完結して、外に出なかった。


 十五時、三宅が言った。


「佐久間くん、今日はもう電話いいよ。月次のほうやって」

「はい」

「明日から、また少しずつでいいから」


 佐久間は頷いた。


 月次のファイルを開いた。

 開いて、数字を見た。

 数字が、数字として見えなかった。


 黒い形が並んでいるのは分かる。それが金額を表していることも分かる。

 だが、意味に変換されない。


 佐久間は、同じセルを四回クリックした。

 クリックして、何をしようとしていたのかを思い出せなかった。


 メモ帳を開いた。

 二十九個のファイルの、どれを開けばいいのか分からなかった。


 全部開いた。

 二十九枚のテキストウィンドウが、画面を埋め尽くした。


 埋め尽くされた画面を、佐久間はしばらく見ていた。

 自分の書いた字が、そこに全部あった。全部あるのに、何一つ読めなかった。


 一枚ずつ閉じた。

 二十九枚閉じるのに、四分かかった。


 最後に残ったのは、「作業ログ.txt」だった。


 その中に、佐久間は一行打ち込んだ。


  ・9/24 照会初日。電話4/11。午後0本。


 打って、保存した。

 誰にも見せないファイルに、自分の欠損が記録された。


 この記録を残す理由は、もう「言った言わない」の備えではなかった。

 自分が壊れていく速度を、自分で測るためだった。


 測って、どうするのか。

 どうもしない。

 ただ、測っていないと、自分が今どこにいるのか分からなくなる。



 定時、佐久間はラミネートカードを引き出しに入れた。


 入れて、閉めて、もう一度開けて、取り出した。

 紙だった。硬い、薄い、光沢のある紙。


 持ち帰りたい、と思った。

 数字が書いていないから、たぶん規程違反にはならない。


 佐久間はそれを鞄に入れた。

 入れてから、なぜそんなことをしたのか、自分でも分からなかった。


 分からないまま、エレベーターに乗った。

 鏡張りの壁に、自分が映っていた。


 目を、逸らした。


(最終話へ続く)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。