第6話 誰も怒っていない
金曜の夜、佐久間貴史は妻の作った味噌汁を三口だけ飲んだ。
碗を置いたとき、向かいに座っていた真弓が、箸を止めた。
「最近、食べないね」
「胃が、ちょっと」
「薬、まだ飲んでるの」
佐久間は、答えるまでに一拍かかった。
「たまに」
嘘だった。今日は三粒飲んだ。昨日も三粒だった。
真弓は、それ以上追及しなかった。代わりに、少し軽い声で言った。
「仕事、どう。慣れた?」
どう、と聞かれて、佐久間は自分の中を探した。
説明したかった。
説明できるはずだと思った。何が起きているかは、自分がいちばん分かっている。
「……上司の人が、すごくいい人でさ」
「うん」
「親切なんだよ。困ってると助けてくれるし、体調のことも気にしてくれるし。休んでいいよって言ってくれる」
「いい職場じゃない」
真弓は笑った。安心した笑い方だった。
その笑顔を見て、佐久間の中で、続きの言葉が止まった。
――でも、その人が「覚えなくていい」と言ったことを、あとで「前にも言ったよね」と言うんだ。
――でも、助けてくれたせいで、俺の仕事が他の人から見えなくなるんだ。
――でも、休んでいいと言われた直後に、業務が増えるんだ。
どれも、口に出したら、負けだと思った。
負け、というのは正確ではない。口に出したら、それは「被害妄想の人の話」になる。
実際、聞いた側はこう思うだろう。
優しい上司が、気を遣ってくれている。それを悪く取る夫。
自分が真弓の立場でも、そう思う。
「うん、いい職場だと思う」
佐久間はそう言った。
「よかった。前がひどかったからね」
「うん」
「あそこ、ほんとにひどかったもんね。怒鳴られてたんでしょ」
「怒鳴られてた」
「今の会社、怒鳴る人いないんでしょ」
「いない」
いない。
誰も、怒鳴らない。誰も、責めない。誰も、否定しない。
「じゃあ、大丈夫だ」
真弓は、心からそう言った。
佐久間は頷いた。
頷きながら、自分の言語が、この家の中で使えないことを理解した。
「怒鳴られていない」は、この家では「大丈夫」と同義だった。
それを覆すための語彙を、自分は持っていない。
持っていないのは、たぶん、そういう語彙が世の中にまだ無いからだ。
土曜、佐久間は昼まで眠って、起きてから三時間、何もしなかった。
スマートフォンでニュースを開いて、読まずにスクロールした。
途中で、仕事のことを考えた。
付箋十パックのことを考えた。
あれは多すぎたのではないか。
技術二課の人数は、たしか十二人だ。付箋十パック。一パック十冊入り。百冊。
多い。明らかに多い。
月曜に納品される。
月曜、岡本が困る。困った岡本が、誰かに言う。言われた誰かが、三宅に伝える。
その先の光景が、勝手に再生された。
三宅は怒らない。三宅は「あー、まあ、いいんじゃない」と言う。言って、笑う。笑って、それで終わる。終わるが、記憶には残る。
佐久間は目を閉じた。
閉じても、画面が浮かんでいた。ウィンドウが十五枚。一番上に、業者の発注確認メール。
――今から、取り消せるか。
取消し期限を思い出そうとした。
思い出せなかった。メモには書いてある。会社のパソコンの中に。
佐久間は、会社のパソコンにアクセスできない。持ち帰りは禁止されている。紙のメモも禁止されている。
この二日間、佐久間は自分の記憶にしかアクセスできない。
そして自分の記憶は、もう信用できない。
その事実の前で、佐久間はソファに沈み込んだ。
月曜、九時四十分。
納品された段ボールが、フロアの入口に置かれた。
付箋、十パック。想像より大きかった。
佐久間はそれを見て、内臓が下に落ちるような感覚を覚えた。
三宅が通りかかった。
「お、来たね。……あれ、これ全部付箋?」
「はい」
「多くない?」
「……数量の確認が取れなかったので、多めに」
三宅は、箱の側面を見て、ふっと笑った。
「まあ、いいんじゃない。使うものだし」
優しかった。
叱責されるより、その一言のほうが、深く刺さった。
「すみません」
「いや、謝ることじゃないよ。数量分かんないとき、確認しづらいもんね。匿名フォームだと誰が出したか分かんないし」
分かってくれている。
三宅は、佐久間の困難を正確に理解していた。理解した上で、責めなかった。
これ以上ない対応だった。
「ただね」
三宅は続けた。
「岡本さんに、電話一本かければ済んだよね。あの件、岡本さんからだって分かってたでしょ?」
佐久間の思考が、一瞬、白くなった。
分かっていた。
先週、岡本本人から電話が来た。あのとき、数量を聞けばよかった。聞かなかった。
聞かなかった理由は、電話をかける気力がなかったからだ。
それを、どう説明すればいいのか。
「気力がなかった」は、説明として成立しない。
「……確認します、次から」
「うん。あのね、佐久間くん、一人で抱えすぎだよ」
三宅は、心配そうな顔をしていた。
「聞けばいいんだよ。俺でも、岡本さんでも。聞くのって、恥ずかしいことじゃないから」
佐久間は、口を開いた。
開いて、閉じた。
――聞いています。
――聞いたら、あなたが引き取ってしまうから、聞けなくなったんです。
言葉にすると、被害妄想だった。
三宅は佐久間を助けただけだ。助けられて、それを「奪われた」と感じたのは、自分の受け取り方だ。
「はい。ありがとうございます」
佐久間は笑った。
笑えた。うまく笑えたかどうかは、鏡がないので分からなかった。
十一時、岡本が課に来た。
佐久間は立ち上がって、頭を下げた。
「岡本さん、付箋の件、数量を確認せずに多めに発注してしまいまして」
「あー、いいっすよ全然。むしろ助かります、これで一年もつんで」
岡本は、本当に気にしていない様子だった。
佐久間の胸が、少し軽くなりかけた。
そこに、三宅が寄ってきた。
「岡本さん、ごめんね。うちの佐久間くん、まだ慣れてなくて」
軽い口調だった。
軽い口調の、上司としてのフォローだった。
「いやいや、こっちも書き忘れてたんで」
「次から数量ちゃんと聞くようにさせるから」
させるから。
その言い方が、佐久間の耳に残った。
悪意はない。定型句だ。上司が部下について話すときの、ごく普通の言い回しだ。
それでも、その瞬間、この場に三人いて、二人が会話していて、自分は話題として扱われていた。
「あ、俺、この人にちゃんと数量書いとけって言われるやつだ」
岡本が笑った。三宅も笑った。
佐久間も笑った。
二人より、コンマ五秒遅れて。
遅れたことに気づいて、佐久間は先週の三宅の言葉を思い出した。
――無理して笑わなくていいよ。
見られている。今も、たぶん。
その意識が入った瞬間、佐久間の顔の筋肉は完全に止まった。
止まった顔のまま、二人の会話が終わるのを待った。
岡本が去り、三宅が席に戻った。
誰も、何も、言わなかった。
午後、佐久間は自分の呼吸が浅くなっているのに気づいた。
息が入らない。
正確には、入っているのに、入った気がしない。何度吸っても、足りない感じがある。
前職の、最後の週と同じだった。
佐久間は席を立って、非常階段の踊り場に行った。
手すりには近づかず、壁を背にして座り込んだ。
目を閉じて、四秒吸って、八秒吐いた。
カウンセラーに教わった方法だった。三回やった。少し戻った。
戻ってから、佐久間は、自分の中で起きていることを整理しようとした。
――誰も、自分に悪意を持っていない。
これは事実だ。三宅も、岡本も、真弓も。
――誰も、自分を怒鳴っていない。
これも事実だ。
――にもかかわらず、自分は毎朝、電車を一本見送っている。
この三つの事実が、同時に成立している。
成立していることが、佐久間には理解できなかった。
理解できないから、原因を自分に置くしかなかった。
自分が弱い。自分の受け取り方が歪んでいる。自分の記憶力が足りない。自分が確認しなかった。自分が笑うタイミングを外した。
全部、自分だった。
全部自分にすると、話は簡単になる。簡単になるが、出口が消える。
出口が消えた場所で、佐久間はもう一度、四秒吸った。
十六時、三宅からチャットが来た。
三宅:おつかれ。来週から照会対応、入ってもらえそう?
三宅:体調、落ち着いてきたかなと思って
佐久間は、その二行を三分見つめた。
三宅は、覚えていた。
「もうちょっと落ち着いてから」という保留を、忘れずに、律儀に、確認してきた。
これは配慮だ。強制していない。聞いている。断る余地を残している。
断る余地を残されている、ということが、いちばん逃げ場がなかった。
断れば、断ったのは自分になる。
佐久間は打った。
佐久間:ありがとうございます。大丈夫です、お願いします。
送信した。
送信して、椅子の背にもたれた。
自分が今、何をしたのか。
自分で、自分の首を、締めた。
締めたのは自分の指だった。指を動かしたのも自分だった。三宅は何もしていない。
三宅:ありがとう! 助かります。無理はしないでね。
感嘆符が、明るかった。
その日、佐久間は退勤時にトイレの鏡の前に立った。
立って、口角を上げようとした。
上がらなかった。
指で、両方の頬を押し上げてみた。
鏡の中に、口角の上がった、目の笑っていない男がいた。
佐久間はしばらくそれを見ていた。
見て、手を離した。
顔が、元に戻った。
元に戻った顔が、どういう顔なのか、佐久間にはもう判断できなかった。
(第7話へ続く)




