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第5話 休んでいいよ

 その朝、佐久間貴史は電車を一本見送った。


 ホームのベンチに座って、扉が閉まるのを見ていた。

 乗れなかったわけではない。人が多かったわけでもない。ただ、足が前に出なかった。

 次の電車が来るまでの四分間、佐久間は自分の膝を見ていた。


 これは、まずい兆候だ。

 前の職場でも、同じことが起きた。最初は一本見送るだけだった。三週間後には二本になり、一か月後には駅のトイレで三十分過ごすようになり、そのあと行けなくなった。


 同じだ、と思った。

 同じではない、と即座に打ち消した。

 あそこは怒鳴られる職場だった。ここは違う。誰も自分を責めない。だから同じであるはずがない。同じに見えるのは、自分の体が過剰に反応しているだけだ。


 二本目の電車に、佐久間は乗った。

 乗れた。乗れたのだから、大丈夫だ。



 入社七十一日目。

 佐久間は、朝から自分の顔色を気にしていた。


 鏡の中の男は、白かった。もともと色の白い方だったが、今日は白の質が違った。血が通っていない白だった。

 口角を上げる練習を、いつもより丁寧にやった。四回。五回目で、まあまあの顔になった。


 フロアに入って、席に着いて、パソコンを立ち上げる。

 起動を待つあいだ、机の下で腹を押さえた。押さえると、少し楽になる。

 朝食は食べていない。昨日の夕食も、半分残した。妻には「昼が重かったから」と言った。妻は「ならいいけど」と言って、それ以上聞かなかった。

 聞かれなかったことに、佐久間は安堵し、少し寂しくなった。


 九時十二分、三宅が佐久間の席の横に立った。


「おはよう。……あれ、佐久間くん、大丈夫?」


 佐久間は顔を上げた。


「おはようございます。はい、大丈夫です」

「顔、白いよ。すごく」


 三宅の声には、心配が乗っていた。演技ではない、本当の心配だった。

 この人は、こういうことに気づく人だった。誰かが咳をすれば「風邪?」と聞き、誰かが遅刻すれば「電車?」と聞く。人望が厚いのは、そういう部分だ。


「少し、胃が弱いだけで」

「胃? 病院行った?」

「前に行ったことがあって、薬はもらってます」

「ならいいけど。無理しないでね。しんどかったら休んでいいから」


 休んでいいから。


 その五文字が、佐久間の中に落ちた。

 落ちた場所で、少し温かくなった。ありがたかった。本当にありがたかった。

 この人は、休めと言ってくれる人なのだ。前の職場の上司は、「代わりがいない」としか言わなかった。


「ありがとうございます」

「うん。ほんとに無理しないでね。倒れられるほうが困るから」


 倒れられるほうが困る。

 三宅は笑いながらそう言った。冗談の形をした、優しさだった。


 佐久間も笑った。


「気をつけます」



 十時、三宅が佐久間の席に戻ってきた。


「あ、佐久間くん。ちょっといい?」

「はい」

「照会対応、来週から入ってもらえる?」


 佐久間の指が、キーボードの上で止まった。


 照会対応。

 他部署や関連会社から来る問い合わせに答える業務だ。フロアの電話が鳴ると、誰かが取って、内容によって担当に振る。振り先がなければ自分で調べて回答する。

 この課の業務の中で、いちばん範囲が広い。範囲が広いということは、覚えることが最も多いということだ。


「照会、ですか」

「うん。会議で言ってた、フロー変わるやつ。あれで一次受けの人数増やすことになってね」


 議事録に書いた記憶があった。議題二。フロー変更。

 自分が打った文章の中に、自分がこの業務に入る予定が書かれていた可能性があった。書いた記憶がない。細かく取らなくていいと言われた部分だったかもしれない。


「今、月次と発注と議事録で、正直かなり――」

「あー、大丈夫大丈夫」


 三宅は遮った。優しく、素早く。前と同じ速さだった。


「一次受けだけだから。難しいのは全部こっちに回していいの。名前と用件だけ聞いて、振ればいい。それだけ」

「……はい」

「むしろ電話取ってると、業務の名前が耳に入るから、覚えるの早くなるよ。俺もそうやって覚えた」


 覚えるのが早くなる。

 その理屈は、正しかった。反論できなかった。

 反論できないことばかりが、この職場では起きる。


 佐久間は、口を開いた。


「体調のこともあるので、少し時期を――」


 言った。

 言えた、と思った瞬間、三宅の表情が、ほんの少しだけ動いた。


 嫌な顔ではなかった。

 困った顔でもなかった。

 ほんの少し、意外そうな、そして――申し訳なさそうな顔だった。


「あ、そっか。ごめんね、俺、無神経だった」


 三宅は素直に謝った。

 佐久間の中で、何かが崩れた。


「いえ、そういうことでは」

「いいのいいの。じゃあ照会は、もうちょっと落ち着いてからにしよう。うん、そうしよう」


 三宅は納得した顔で頷いた。

 それで済むはずだった。それで済んだら、佐久間の勝ちだった。


 三宅は続けた。


「じゃあ発注のほう、俺が引き取ろうか?」


 佐久間の呼吸が、止まった。


「え」

「発注、俺がやるよ。あれなら俺、三十分で終わるから。佐久間くんは月次に集中して。そのほうがいいでしょ」


 そのほうがいいでしょ。

 また、その言葉だった。


 佐久間の頭が、猛烈な速度で回り始めた。


 ――ここで「お願いします」と言えば、楽になる。

 ――言えば、備品発注は三宅の仕事に戻る。木下も宮原も、二度と自分に依頼しなくなる。

 ――窓口を任されて二週間で、返上した中途社員になる。

 ――「体調を理由に業務を減らした人」として、この課に記録される。

 ――記録は消えない。半年後、一年後、評価の場面で、誰かが必ず思い出す。


 思考が加速して、加速したまま行き先を失った。

 佐久間は、答えを出さなければならなかった。三宅は待っていた。優しい顔で、返事を待っていた。


「……いえ、発注は、続けさせてください」


 佐久間はそう言った。


「そう? 無理してない?」

「大丈夫です。慣れてきたところなので」

「そっか。うん、じゃあお願いね。ほんとにきつくなったら言って。いつでも代わるから」


 三宅は、安心したように笑って、去っていった。


 佐久間は、画面に向き直った。

 十五枚のウィンドウが重なっていた。


 自分が今、何を守ったのか、分からなかった。

 業務は減らなかった。体調は改善しない。照会対応は「もうちょっと落ち着いてから」という宙吊りの形で、確実に自分の未来に置かれた。

 守ったのは、たぶん、自分の立場という言葉で説明されるものの、輪郭だけだった。


 胃が、絞られた。

 引き出しを開けた。錠剤は、昨日買い足していた。新しいシートが二枚、揃って入っていた。

 揃っているのを見て、佐久間は少し安心した。

 その安心の仕方が、健康な人間のものではないことも、分かっていた。



 昼、佐久間は非常階段の踊り場に行った。


 食堂には行けなくなって二週間が経っていた。

 コンビニのおにぎりも、最近は喉を通らない。カロリーの入ったゼリー飲料を一本、そこで飲むのが習慣になっていた。


 踊り場は寒かった。

 九月の中旬で、外はまだ暑いのに、コンクリートに囲まれたその場所だけは冷えていた。


 佐久間は座り込んで、ゼリーを半分飲んだ。

 残り半分を持ったまま、階段の手すりの隙間から、下を見た。

 三階分の吹き抜けが、まっすぐ下に伸びていた。


 何も考えていなかった。

 考えていなかったのに、自分がそれを見ていることに気づいて、佐久間は急いで顔を上げた。


 心臓が、鳴っていた。


 違う。

 今のは、そういうことではない。ただ、目線が下にあっただけだ。座っているのだから、下を見るのは当たり前だ。

 当たり前だ。当たり前だが、心臓は勝手に鳴り続けていた。


 佐久間は立ち上がって、手すりから離れた。

 壁際に寄って、そこでゼリーの残りを飲み干した。味は分からなかった。


 スマートフォンを出して、妻に「今日は普通に帰る」とだけ送った。

 送ってから、なぜそれを送ったのか、自分でも分からなかった。


 妻からは、スタンプが一つ返ってきた。

 それを見て、佐久間は少しだけ、まともな呼吸ができた。



 午後、フロアに戻ると、三宅が電話を取っていた。


「はい、管理業務課……あ、はいはい、その件ですね。ええ、担当が――」


 三宅の視線が、佐久間のほうに動いた。

 目が合った。三宅は受話器を手で押さえて、小声で言った。


「佐久間くん、これ、備品の件。出られる?」


 佐久間は頷いて、自分の電話を取った。

 保留が切り替わって、相手の声が入ってくる。


「あ、佐久間さん? 技術二課の岡本ですけど」

「お世話になっております」

「付箋の件、フォームから出したんですけど、あれって届いてます?」


 付箋。

 黄色の付箋、大量。匿名フォームから来た依頼だ。

 匿名フォームだったから、数量の確認ができなくて、保留にしていた。保留にしたまま、月次に押されて、忘れていた。


 忘れていた。

 その事実が、体温を一度下げた。


「申し訳ありません、確認いたします」

「あー、いや、急ぎじゃないんで大丈夫ですよ。ただ、そろそろ無くなりそうで」

「本日中にご連絡いたします」

「はい、お願いします。すみませんね、お忙しいのに」


 電話が切れた。

 優しい人だった。誰も自分を責めない。この会社は本当にそうだ。


 佐久間はメモ帳を開いた。

 二十四個のファイルの中から、発注関係のものを探した。

 「発注メモ.txt」「発注_依頼一覧.txt」「発注メモ_9月.txt」。三つあった。


 どれにも、付箋の記載はなかった。

 四つ目、「やること_new.txt」の中に、あった。


  ・技術二課 付箋(黄)数量不明 →確認


 九月八日の行だった。

 今日は九月十七日だ。


 九日間、自分は放置していた。


 佐久間は、その一行を見つめた。

 誰にも怒られていない。岡本は「急ぎじゃない」と言った。三宅は電話を回しただけで何も言っていない。

 被害は出ていない。損害もない。


 なのに、佐久間の中で、自分に対する裁判が始まっていた。

 自分は忘れた。忘れたのは、能力の問題か、量の問題か。

 量の問題だと言えば、言い訳になる。

 能力の問題だと認めれば、ここにいる資格がなくなる。


 どちらも選べないまま、佐久間は業者に発注メールを書いた。

 数量は、確認せずに、「10パック」と書いた。

 多すぎたら岡本が困る。少なすぎたら岡本が困る。

 確認すればいい。確認する電話を、かける気力がなかった。


 送信ボタンを押した。

 押してから、これが今日いちばん、自分らしくない仕事だと思った。



 定時後、佐久間は鏡の前に立たなかった。


 立たずに、そのままエレベーターに乗った。

 乗ってから、今日は笑顔の練習をしていないことに気づいた。


 気づいて、少しほっとした。

 ほっとして、それから、怖くなった。


 練習をやめるということは、明日、うまく笑えないということだった。


(第6話へ続く)

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