第4話 議事録の中の私
入社六十四日目、月曜日の朝礼で、佐久間貴史は自分の名前を二回聞いた。
一度目は、備品の窓口として。
二度目は、課内会議の議事録係として。
「じゃあ議事録、佐久間くんにお願いしようかな」
三宅は、朝礼の輪の中でそう言った。十一人が佐久間を見た。
断る理由が、なかった。中途の新人が議事録を書くのは、どこの会社でも普通のことだ。むしろ業務の全体像を掴む近道だと言われている。実際、三宅もそう続けた。
「早く全体分かるようになるからさ。俺も最初そうだった」
佐久間は頷いた。頷きながら、火曜と木曜の午後が消えることを計算していた。
議事録は書く時間より、書いたあとの確認に時間がかかる。前職でそれは学んでいた。
会議は十四時に始まった。
佐久間はノートパソコンを持って会議室に入り、席の端に座った。
テーブルの上には、誰も紙を出していない。この会社では会議室でも紙のメモは原則禁止で、全員がノートパソコンかタブレットを開いている。
打鍵音が、七人分、重なって鳴っていた。
議題は四つあった。
一つ目、来期のシステム更改。
二つ目、他部署からの照会対応のフロー変更。
三つ目、年末に向けた繁忙期の体制。
四つ目、その他。
佐久間は打った。
発言者の名前と、発言内容を、できるだけそのまま。要約する余裕がなかったので、逐語に近くなった。逐語に近くなると、追いつかなくなる。追いつかなくなると、拾えるところだけ拾う。拾えるところだけ拾うと、文脈が飛ぶ。
三十分過ぎたあたりで、佐久間の手のひらに汗が滲んだ。
議題三つ目に入ったとき、三宅が言った。
「あ、佐久間くん、そこは細かく取らなくていいから」
佐久間は顔を上げた。
「はい」
「体制の話はまだ確定じゃないから、決まったことだけでいいよ。ここのやり取りは、書くとかえって混乱する」
周囲の何人かが、軽く頷いた。
合理的な指示だった。未確定の議論を残すと、あとで独り歩きする。よくあることだ。
「承知しました」
佐久間は、打つのをやめた。
やめて、話を聞いた。聞くだけになると、話が急に速く感じられた。
石橋が来年度の要員について何か言い、課長が別の案を出し、三宅が「それだと十二月が持たない」と返し、話が枝分かれし、また戻り、誰かが冗談を言って三人が笑った。
佐久間は笑わなかった。笑うタイミングを掴めなかった、というのが正確だった。
笑わなかったことに気づいて、遅れて口角を上げた。上げた頃には、話は次に進んでいた。
自分だけが、この部屋の音楽に乗れていない。
そういう感覚があった。
会議は十五時二十分に終わった。
佐久間は自席に戻り、議事録の整形を始めた。
議題一と二は、そこそこの形になっていた。議題三は、ほぼ空白だった。「決まったことだけ」と言われて、決まったことが一つも出なかったからだ。
【議題3】年末繁忙期の体制について
・継続検討
その五文字を打って、佐久間は少し考えた。
これでいいのか。
いいはずだ。三宅がそう指示した。決まったことだけでいい、と。
だが、この議事録を後から読む人間は、この五文字から何も分からない。
補足を書こうか、と思った。
書こうとして、手が止まった。書けば「細かく取るな」という指示に反する。書かなければ、内容がない。
佐久間は五文字のまま残した。
残して、自分用のメモ帳に、覚えている限りの議論を打ち込んだ。二百字ほど。誰にも見せないファイルだ。
打ち終えてから、自分が何をしているのか分からなくなった。
これは、何のための記録なのか。
業務のためではない。誰にも渡さない。
では、誰のためか。
――自分が、あとで「言った」「言っていない」になったときのため。
その答えが浮かんだ瞬間、佐久間は椅子の背にもたれた。
自分は、上司を疑っている。
三宅を。あの、誰にでも親切で、全員に好かれている人を。
疑うだけの根拠が、自分にあるか。ない。三宅は一度も嘘をついていない。一度も怒鳴っていない。一度も自分を否定していない。
なのに、こうして記録を残そうとしている。
やましさが、胃の下のあたりに溜まった。
薬とは違う種類の重さだった。
ファイルを削除しようと、右クリックした。
削除しなかった。
ファイル名を「作業ログ.txt」に変えた。業務用の名前に見えるように。
その行為自体が、何よりも自分の疚しさを証明していた。
議事録を三宅に送ったのは、十六時四十分だった。
三宅からの返信は、七分後に来た。
三宅:ありがとう! あと、議題3のところ、もうちょっと書いといて。
三宅:石橋さんが十二月に人出せないって話、あれ大事なんで。
佐久間は、その二行を見つめた。
細かく取らなくていいと言われた。
決まったことだけでいいと言われた。
石橋の発言は、決まったことではなかった。「人が出せないかもしれない」という懸念の表明だった。
打っていない。
打つなと言われて、打つのをやめたから。
佐久間はチャットに指を置いた。
書きかけて、消した。
(先ほど、細かく取らなくていいとご指示いただいたので)
書けなかった。
書けば、三宅は「あ、ごめんごめん」と言うだろう。この人は必ずそう言う。謝られる。謝られて終わる。そして自分は、指示を盾に取って上司に反論した中途社員になる。
佐久間は、自分の「作業ログ.txt」を開いた。
二百字のメモの中に、石橋の発言はあった。
石橋「十二月は総務も動けない。うちから人は出せない」
残しておいてよかった、と思った。
思った直後に、その安堵の質が、自分でも嫌になった。
安堵している。上司の指示の矛盾に備えていた自分に。
それは、備えが役に立ったということだ。
備えが役に立つということは、備える必要が本当にあったということだ。
――じゃあ、これから毎回、備えるのか。
佐久間は、議事録に石橋の発言を追記して、送り直した。
三宅:ばっちり! ありがとう。
感嘆符が、明るかった。
十七時十分。
三宅が席を立つついでに、佐久間の横で足を止めた。
「議事録、助かったよ。次からもよろしくね」
「はい」
「あ、それとさ」
三宅は、少しだけ声を落とした。
「会議中、もうちょっと顔上げたほうがいいよ」
佐久間は、意味が掴めず、三宅を見た。
「打つのに必死なのは分かるんだけどね。ずっと下向いてると、聞いてないように見えちゃうから」
佐久間の中で、二つの事実が並んだ。
議事録係として、逐語に近く打っていた。だから下を向いていた。
下を向いていたから、聞いていないように見えた。
「……すみません。気をつけます」
「うん。あとね、無理して笑わなくていいよ」
心臓が、一度、止まったように感じた。
「え」
「いや、変な意味じゃなくて。さっき石橋さんの冗談のとき、ワンテンポ遅れて笑ってたでしょ。ああいうの、無理しなくていいから。佐久間くん、真面目だから合わせようとしちゃうんだろうけど」
三宅は、笑っていた。
優しく、まったく他意なく、心配して言っていた。
見られていた。
誰も自分のことなど見ていないと、毎日自分に言い聞かせていた。
見られていた。しかも、いちばん見られたくない部分を。
「……ありがとうございます」
佐久間は、笑顔を作った。
作った瞬間、これも見られている、と思った。
思ったら、口角の位置が分からなくなった。
三宅は「じゃあお疲れ」と言って、行った。
フロアに人が減っていく。
佐久間は画面を見ていた。十三枚のウィンドウが、意味もなく重なっていた。
議事録のファイルを開いた。
自分が書いた文章を、上から読んだ。
【議題3】年末繁忙期の体制について
・石橋(総務)より、十二月は総務側も逼迫のため要員の供出は困難との発言。
・継続検討。
正しい議事録だった。
この二行を書くために、自分は、指示に反する隠しメモを作った。
その隠しメモの存在を、佐久間は誰にも言えない。
言えば、疑っていたことになる。
言わなければ、これからも増える。
佐久間はエクスプローラを開いた。
デスクトップのテキストファイルは、二十一個になっていた。
その中の一つ、「作業ログ.txt」を、佐久間は右クリックして、プロパティを開いた。
作成日時が表示された。今日の、十五時三十八分。
この日付を、いつか誰かに見せる日が来るのだろうか。
来るとしたら、それは自分がここを辞める日だろう。
そこまで考えて、佐久間は自分に驚いた。
まだ六十四日だった。
胃が、静かに絞られた。
今日、三粒目だった。錠剤の並びは、あと四粒になっていた。
明日、買っておこう、とメモ帳に打ち込んだ。
・胃薬買う
その一行が、業務メモの中に紛れた。
二十一個のファイルの、どこかに。
(第5話へ続く)




