第3話 助けてあげただけ
備品発注は、三十分の仕事ではなかった。
入社五十八日目の火曜日、佐久間貴史のチャット画面には、朝の時点で依頼が九件並んでいた。
総務・石橋:コピー用紙A4、10箱お願いします
営推・木下:来週の展示会用にクリアファイル200
経理・宮原:例のトナー、前回と同じで
技術二課・匿名フォーム:付箋(黄)大量
総務・石橋:↑訂正、8箱でお願いします
「前回と同じで」の前回が、いつの、何なのか、佐久間には分からなかった。
発注履歴を開いた。トナーは三種類あった。型番が似ていて、末尾の一文字だけが違う。宮原がどれを指しているのかを判別する方法は、履歴の日付から推測する以外にない。
推測して、間違えたら、取消し期限がある。
佐久間は宮原にチャットを送った。「恐れ入ります、型番をご教示いただけますでしょうか」。
文面を三回書き直した。「恐れ入ります」で始めるか「お世話になっております」で始めるか。前者にした。
送信して、返信を待った。
待っているあいだに、月次突合を進めようとした。
基幹の照会画面を前に出す。八月分。抽出。
抽出中のプログレスバーが、三分の一のところで止まる。この時間帯はいつも重い。
その三分の一を、佐久間はじっと見ていた。
見ていても早くならないことは分かっていた。分かっていて、目が離せなかった。
画面には九つのウィンドウが重なっていた。三つまでにしろと言われてから、五日で三倍になっていた。
十時十四分、木下から追加のチャットが来た。
木下:クリアファイル、色って選べます?
木下:あと納期いつになりそうですか
木下:展示会15日なんで、それまでに欲しくて
佐久間は、業者のカタログPDFを開いた。十個目のウィンドウだった。
色は五色あった。納期は「在庫品:2営業日/受注品:7営業日」と書かれていた。二百枚は在庫品の範囲なのか、それが分からない。
業者に問い合わせるメールを書き始めた。宛名の敬称で少し迷った。
書いている途中で、宮原から返信が来た。
宮原:え、前回と同じでいいですよ
佐久間は、その一行を三回読んだ。
悪意はない。宮原は忙しいのだろう。「前回と同じ」で通じると本気で思っている。実際、三宅が担当していた頃は通じていたのだ。三宅は全部覚えていたから。
覚えていることが前提の仕事を、覚えていない人間が引き継いだ。
それだけの話だった。それだけの話が、佐久間の胃を細く絞った。
佐久間:承知いたしました。念のため確認ですが、TN-3480でお間違いないでしょうか。
宮原:たしかそれです
宮原:たぶん
たぶん。
佐久間はその三文字を見つめた。
この「たぶん」で発注して、違っていたら、誰の責任になるのかを考えた。考えて、たぶん自分だと結論した。確認したのだから自分ではない、という理屈は成り立つが、成り立つ理屈が通る職場かどうかは別問題だ。
スクリーンショットを撮って、メモ帳に貼れないので、ファイル名を「20260908_宮原_トナー確認.png」にして保存した。
証拠を残す、という発想が自分に生まれていることに、佐久間はあとで気づいた。
十一時三十分。
三宅が席を立ち、佐久間の後ろを通りかかって、足を止めた。
「あれ、木下さんの件、まだ?」
佐久間は振り返った。
「業者に納期を確認中です。返信待ちで」
「あー、それ電話のほうが早いよ」
「電話……」
「メールだと向こう、夕方まで見ないから。あそこの担当、外回り多いんだよ。携帯にかけちゃっていい。番号、履歴にある」
知らなかった。
知らないことが、また一つ増えた。増え方が、減り方より速い。
「すみません、電話します」
「うん。あ、いいよ、俺かけとく」
三宅は、自分の席に戻らず、佐久間の机の電話に手を伸ばした。
「え」
「いいのいいの、俺の方が話早いから。ちょっと借りるね」
佐久間の受話器で、三宅が番号を押した。
佐久間は椅子を引いて、少し体をずらした。自分の机の前で、自分の電話を、上司が使っている。どういう姿勢でいればいいのか分からず、両手を膝の上に置いた。
「あ、ヤマシタさん、三宅です。お世話になってます。……いやいや、こちらこそ。あのね、クリアファイルなんだけど、二百枚、色は――」
三宅の声は、笑いを含んでいた。相手も笑っているのが伝わってくる話し方だった。
二分で終わった。
「はい、じゃあお願いします。うん、いつもすみません。はい、失礼します」
受話器を置いて、三宅は佐久間に向き直った。
「青が在庫あるって。二百なら明後日出せる。青でいい? 木下さんに聞いて」
「はい、ありがとうございます」
「あと、ヤマシタさんね、あの人にはあんまり丁寧にやらなくていいから。逆に距離できちゃうから」
佐久間は頷いた。
頷きながら、自分が書いていた「平素より格別のお引き立てを賜り」という一文が、画面の中で急に恥ずかしいものに見えた。
「勉強になります」
「うん。まあ、慣れだよ、慣れ」
三宅は爽やかに笑って、去っていった。
佐久間は、書きかけのメールを削除した。
削除して、木下に青でいいか聞くチャットを打って、そこで手が止まった。
――自分は、今、何をしていたのか。
問い合わせを、自分でやっていた。方法は非効率だったかもしれないが、進んでいた。
それを、三宅が二分で終わらせた。
助かった。事実として、助かった。感謝もしている。
なのに、何かが減っていた。
うまく言葉にできなかったが、確かに、何かが減っていた。
午後、その「減った何か」が形になった。
木下から返信が来た。
木下:あー、三宅さんから聞きました!青で大丈夫です
木下:ありがとうございます、助かりました
三宅さんから聞きました。
佐久間は、その一行の前で止まった。
三宅が、木下に直接連絡していた。
悪いことではない。むしろ親切だ。佐久間が打つ前に、三宅が伝えてくれた。木下は喜んでいる。誰も損をしていない。
ただ、木下の中で、この案件を解決したのは三宅になった。
佐久間は、そのあいだ何をしていたか。カタログPDFを開いて、宛名の敬称で迷っていた。
そのあと、宮原からもチャットが来た。
宮原:トナー、三宅さんが型番教えてくれたので大丈夫です!
佐久間の指が、キーボードの上で浮いた。
自分が確認していた。スクリーンショットまで撮った。
三宅が横から入って、正解を渡して、終わった。
――正しい。
三宅は正しい。効率的で、親切で、判断が速い。宮原も木下も助かっている。組織として、それは正解だ。
では、自分は何なのか。
備品発注の担当者として名前だけが置かれていて、実際に動くのは別の人間で、依頼者は自分を経由せずに解決する。
いなくても、回る。
その結論に辿り着いた瞬間、佐久間は自分の呼吸が浅くなるのを感じた。
これは被害妄想だ、と即座に自分に言った。
三宅は佐久間を助けようとしただけだ。新人が詰まっていたから、手を出した。上司として当たり前の行動だ。それを「奪われた」と受け取るのは、自分の受け取り方の問題だ。
自分の、受け取り方の、問題。
その言い方を、佐久間は前の職場でも使っていた。
最後の三か月、毎日使っていた。
十五時、三宅が全体に向けて声を出した。
「あ、皆さん。今月から備品の窓口、佐久間くんになってるので、依頼は佐久間くんにお願いします」
フロアの何人かが「はーい」と返した。
三宅は佐久間を見て、笑顔で片手を上げた。応援の仕草だった。
佐久間は会釈した。
「頑張ってね。分からないことは全部聞いていいから。今日みたいに、必要なら俺が引き取るし」
必要なら俺が引き取るし。
その言葉は、心強いはずだった。
実際に心強いと感じている部分も、佐久間の中に確かにあった。
同時に、別の場所で、条件文が組み立てられていた。
――どこまでが「必要」なのか。
自分が詰まったら引き取られる。引き取られたら、依頼者は次から三宅に直接聞く。三宅に直接聞かれたら、自分の仕事はさらに減る。減った状態で「窓口はあなた」と言われ続ける。
この構造から出る方法が、佐久間には一つしか思いつかなかった。
詰まらないこと。
詰まらないためには、全部覚えていること。
全部覚えなくていい、と言われている状態で。
定時前、フロアの向こうで笑い声が上がった。
三宅と、若手二人と、石橋。
石橋が何か言って、三宅が「またそれ」というふうに手を振って、四人が笑った。
石橋の視線が、一瞬、佐久間のほうに流れた気がした。
気がした、だけだ。
石橋は総務で、コピー用紙の依頼を出していて、それは佐久間が今日処理して、訂正の八箱で正しく通した。訂正まで正確に拾った。あれは、うまくやった仕事だ。
だから、笑われる理由がない。理由がないのに、佐久間の首の後ろが冷えた。
冷えた自分に、佐久間は腹を立てた。
人が笑っている。それだけだ。それだけのことで、なぜ自分の体はこうなる。
カウンセラーの言葉を思い出そうとした。「関係のない情報を、自分に関係づけないでいい」。
思い出せた。思い出せたが、体には届かなかった。
佐久間は画面に向き直った。
ウィンドウは十一枚あった。
一番上に、業者のカタログPDFが開いたままになっていた。もう用のない資料だった。閉じようとして、マウスを動かして、そのまま手を止めた。
閉じたら、また探すことになる。
探す三分が、いま自分にはない。
だから、開いておく。
ウィンドウは、こうして増えていく。
紙のノートなら、開いたまま置いておけば済んだ。閉じても厚みが残った。
この画面には、厚みがない。
十七時三十分、佐久間はエクスプローラを開いて、今日撮ったスクリーンショットを整理した。
「20260908_宮原_トナー確認.png」
結局、使わなかった。
三宅が正解を渡して、案件は終わったから。
削除しようとして、右クリックまでして、やめた。
残しておいた。
なぜ残したのか、自分でうまく説明できなかった。
トイレの鏡の前で、佐久間は口角を上げる練習をした。
三回やって、四回目で、鼻の奥が熱くなった。
水を出した。
顔は洗わなかった。洗ったら、洗った理由を誰かに説明しなければならなくなる気がした。
(第4話へ続く)




