第2話 どこかに書いたはずのメモ
入社五十一日目の朝、佐久間貴史はメモ帳のファイルを開けなくなった。
正確に言えば、開けないのではない。どれを開けばいいのか分からなくなった。
デスクトップの隅に、テキストファイルが十四個あった。
突合メモ.txt
突合メモ2.txt
突合メモ_修正.txt
三宅さん指示.txt
三宅さん指示_0902.txt
やること.txt
やること_new.txt
基幹操作.txt
基幹操作_続き.txt
メモ.txt
残りの四つは、名前を見ても中身が思い出せなかった。
紙のノートなら、一冊をめくればよかった。時系列に並んでいて、書いた場所の記憶が残っていて、「あのページの右下」で手が勝手に開く。
テキストファイルには右下がない。厚みもない。開かなければ、そこに何も存在しない。
佐久間は上から順にダブルクリックしていった。四つ目で、探していた記述が見つかった。
・締め処理は経理の確定後
・確定連絡はチャットの「経理連携」チャネル
見つかった、と思った瞬間、安堵よりも先に疲労が来た。
三分かかった。三分、自分は何も生産していない。
その三分を三宅は見ていない。見ていないから、佐久間の作業は、外からは「ただ遅い」だけに見える。
背後で、椅子が軋む音がした。
「佐久間くん、ちょっといい?」
三宅は、佐久間の後ろに立って画面を覗き込んだ。
覗き込む、という表現は正確ではない。三宅は自然に、悪びれもなく、同僚の画面を見る人だった。この職場では誰もそれを不快がらない。指導とはそういうものだからだ。
「あー、ウィンドウ多いね」
佐久間の心臓が、一度だけ強く打った。
「すみません」
「いや、責めてるんじゃなくて。俺も昔そうだったから」
三宅は笑った。本当に、優しい笑い方だった。
「でもね、これだと絶対どっか見落とすよ。俺は三つまでって決めてる。作業画面、参照画面、あとチャット。それ以上開いたら、開いた時点で負け」
負け、という言葉が、するりと佐久間の中に入ってきた。
悪意はない。冗談だ。軽口だ。分かっている。
分かっているのに、その単語だけが胃の下のほうに沈んでいった。
「……気をつけます」
「うん。あ、それでね、本題」
三宅は身を起こして、少し声を落とした。
「来週から、備品の発注、佐久間くんにお願いしていい?」
佐久間は、画面から目を離せないまま答えた。
「備品、ですか」
「うん。大した量じゃないよ。各課から依頼が来るから、まとめて業者に投げるだけ。月に二、三回。三十分くらいの仕事」
三十分。
その数字を、佐久間はうまく受け取れなかった。三宅にとっての三十分と、自分にとっての三十分が同じ長さである保証がどこにもない。
「今、月次のほうが正直まだ――」
「あ、大丈夫大丈夫」
三宅は遮った。優しく、素早く。
「月次も並行でいけるよ。むしろ発注のほうが単純だから、息抜きになる。それに、いろんな課とやり取りするから、佐久間くんの顔も覚えてもらえるしね。そのほうがいいでしょ」
そのほうがいいでしょ。
その通りだった。反論の余地が、どこにもなかった。
三宅は佐久間のことを考えて言っている。中途で入ってきた人間が、部署の外に知り合いを作れないまま孤立していくのを、この人はきっと何度も見てきたのだろう。
これは、善意だ。純度の高い善意だ。
「……ありがとうございます。やらせてください」
佐久間はそう言った。喉の奥が、少し乾いていた。
「うん。じゃあ手順、あとで教えるね」
「はい」
「あ、今でもいいか。今のうちにやっちゃおう」
三宅は椅子を引っ張ってきて、佐久間の隣に座った。
説明は、二十二分続いた。
発注システムのログイン方法。依頼フォームの見方。品番の確認先。単価が一定額を超えたときの承認フロー。承認者が不在のときの代理承認。納期回答の転送先。誤発注時の取消し期限。
途中で三宅の携帯が鳴り、彼は「ごめんちょっと」と席を立ち、四分後に戻ってきて、「どこまで話したっけ」と言い、佐久間が答える前に「あ、承認か」と自分で思い出して続きを話した。
佐久間は、メモ帳を開いていた。
打っていた。打ちながら、聞いていた。
打ちながら聞くと、聞いた内容が二割ほど抜ける。抜けた部分を補うために画面を見ると、今度は指が止まる。指が止まると、次が降ってくる。
――手が四本、欲しい。
そう思った自分に、少しぞっとした。前の職場で、辞める二か月前に、同じことを考えたのを覚えていたからだ。
「――で、まあ、細かいところはマニュアルがあるから」
三宅が言った。
「マニュアル、あるんですか」
思わず、声が出た。少し強かったかもしれない、と直後に思った。
「あるよ。共有の、総務のフォルダ。ちょっと古いけどね、大枠は変わってない。あ、でも」
三宅は、あっさりと付け加えた。
「あれ読むより、今の説明のほうが早いから。マニュアル読むと逆に混乱すると思う。書いてあることと運用が違うとこ、けっこうあるから」
じゃあ、と佐久間は思った。
じゃあ、正しいのは、今の二十二分だけだ。
今の二十二分は、この画面の中の、この十七行のメモの中にしか存在しない。
メモを見返した。
自分で打ったはずの行が、意味を成していなかった。
・承認 5万↑ 代理は→(誰)
・納期回答 転送
・取消 期限あり
(誰)。
電話が鳴ったところだ。あそこで切れている。
聞き返せばいい。今、隣にいる。今しかない。
「三宅さん、承認者が不在のときの代理は」
「あー、それは石橋さん。総務の。あ、でも石橋さんも出張多いから、そのときは課長でいいよ。課長も捕まらなかったら、まあ翌日でいいや。急ぎのものってそんなに無いから」
佐久間は打った。石橋さん→課長→翌日。
打ちながら、この三段階を「三十分の仕事」と呼ぶ感覚が、自分には一生身につかないだろうと思った。
「あとね、これ全部、覚えなくていいから」
三宅が、立ち上がりながら言った。
「え」
「やってりゃ体で覚えるから。今は『そういうものがある』って知っとくだけでいい。頭に入れようとすると疲れるでしょ」
優しかった。
その言葉は、間違いなく、佐久間を楽にするために発されていた。
佐久間は、笑顔を作った。朝、鏡の前で三回練習したやつだ。
「ありがとうございます。助かります」
三宅は満足そうに頷いて、自分の席に戻っていった。
昼休み、佐久間は社員食堂に行かなかった。
行かない理由をいくつか用意していた。今日は財布を持ってこなかった。午前の作業が中途半端だ。人が多い時間を避けたい。
どれも本当で、どれも本当ではなかった。
実際の理由は、四日前の昼にあった。
カウンターで定食を受け取って振り返ったとき、窓際のテーブルに三宅がいて、若手三人と話していた。三宅がなにか言い、三人が笑った。
その瞬間、佐久間と三宅の目が合った。三宅は自然に手を上げて、「こっちこっち」というふうに空いた席を指した。
佐久間は会釈をして、別のテーブルに座った。
座ってから、あの笑いは何だったのか、と考え始めた。
考えて、考えて、味の分からない鯖を食べ終えて、そこから四日、食堂に行っていない。
自意識過剰だ。
三宅は自分を呼んだ。呼ぶ人間が、自分を笑うわけがない。
その論理は正しい。正しいのに、体が食堂の方向に動かない。
佐久間は自席で、コンビニのおにぎりを一つだけ食べた。
半分残した。胃が、下から押し返してくる感じがあった。
昼の錠剤を飲んだ。今日、二粒目だった。
誰もいないフロアで、蛍光灯だけが均一に明るかった。
午後、佐久間は月次突合の続きに戻った。
基幹から抽出した数字と、補助簿の数字が、一円合わない。
一円。
三十分、探した。
見つからなかった。もう一度、頭から。今度は四十分かかった。まだ見つからない。
条件付き書式の赤は、どこにも出ていなかった。出ていないということは、差異がないということだ。差異がないのに、合計が一円ずれている。
――値貼り付け。
その単語が、頭の底から浮かんできた。
初日に三宅が言った言葉だ。書式ごと貼ると条件付き書式が壊れる。壊れると赤が出ない。
佐久間は、自分の作業履歴を辿った。
最初の貼り付け。九月一日。あのとき自分は、右クリックのどのアイコンを押したか。
覚えていない。
覚えていない、という事実の前で、佐久間はしばらく動けなかった。
自分がやった作業を、自分が覚えていない。三日前の、自分の手の動きを。
それは、忙しさのせいなのか。それとも。
――前と、同じじゃないか。
前職の、最後の一か月。
自分が送ったはずのメールを覚えていなくて、送信済みフォルダを何度も確認した。確認して、あるのを見て、安心して、五分後にまた確認した。
あのときと、同じ手触りがした。
胃が、絞られた。今日いちばん強く。
佐久間は引き出しに手を伸ばして、そこで止めた。三粒目だ。用法は一日三回だから、規定内だ。規定内なのに、なぜ手が止まったのか、自分でも分からなかった。
「どうかした?」
三宅の声だった。
いつのまにか、また後ろにいた。
「あ……突合が、一円ずれてまして」
「ああ、一円ね。丸めじゃない?」
「丸め、ですか」
「消費税の端数。補助簿は切り捨てで、基幹は四捨五入なんだよ。だから一円までは無視していい。ローカルルール」
佐久間は、三宅の顔を見た。
「……無視して、いいんですか」
「うん。一円は無視。十円からは調べる」
佐久間は、七十分、探していた。
その七十分は、この一行のローカルルールを知らなかったせいで発生した。
そして、そのローカルルールは、どこにも書かれていない。マニュアルは古くて、運用と違う。運用は三宅の頭の中にある。三宅の頭の中には、佐久間がアクセスできない。
「これ、どこかに書いてありますか」
佐久間の口が、勝手にそう言った。
言ってから、まずい、と思った。責めるように聞こえたかもしれない。
三宅は、少しだけ、目を細めた。
怒った顔ではなかった。困った顔でもなかった。ほんの少し、意外そうな顔だった。
「うーん、書いてはないなあ。でもこれ、前にも言ったよね?」
空気が、止まった。
佐久間の中で、何かが確認を求めて動き出す。
言われたか。言われていない。いや、言われたのかもしれない。初日の、あの流れる説明の中に、確かに「差異」の話はあった。あのとき自分は聞き流した。聞き流していいと言われたから。
だから、言われていたのに、自分が捨てた可能性がある。
ある。証明はできない。
証明できないものを、否定はできない。
「……すみません。自分の聞き漏らしです」
佐久間はそう言って、笑った。
三宅は「まあ最初はね」と言って、優しく肩を叩いて、去っていった。
肩に、触れられた感触が残った。
嫌ではなかった。嫌ではないのが、いちばん、うまく説明できない部分だった。
定時後、佐久間はメモ帳を新しく作った。
ファイル名を「ローカルルール.txt」にして、一行だけ打った。
・一円は無視。十円から調べる。
保存して、デスクトップを見た。
テキストファイルは、十五個になっていた。
どこかに、書いたはずだ。
どこかに、書いたはずのことが、どんどん増えていく。
書いた場所を覚えておくためのメモが、そのうち必要になる。そう思って、佐久間は少し笑いそうになり、笑えなかった。
帰り際、二階のトイレの鏡の前に立った。
朝と同じ場所だった。
口角を、二ミリ。
上がらなかった。
もう一度。上がった気がしたが、鏡の中の男は、笑っていなかった。
佐久間は水道の水を出して、しばらくそれを見ていた。
誰にも、何も、されていない一日だった。
(第3話へ続く)




