親切の檻:逃げ場のない画面と、侵食される日常
第1話 覚えなくていいよ
朝八時四十二分。
佐久間貴史は、二階の男子トイレの一番奥、鏡の前に立っていた。
口角を、二ミリだけ上げる。
目尻をわずかに緩める。眉は動かさない。動かすと、作った顔になる。
三秒。息を吐く。もう一度。
前の職場を辞める少し前から始まった癖だった。
医者には「自律神経の乱れ」と言われた。眠れない、汗が止まらない、心臓が勝手に走る。休職して、退職して、半年かけて元に戻したつもりだった。
戻ったのは体だけで、顔の使い方だけがどこかに置き忘れられていた。
だから毎朝、こうして練習する。
鏡の中の男は、悪くない表情をしていた。人当たりのいい、三十三歳の中途社員の顔だ。
よし、と声に出さずに言って、佐久間は自分の席に向かった。
管理業務課のフロアは、静かだった。
怒鳴る人間はいない。書類を叩きつける人間もいない。壁は白く、床は毛足の短いグレーのカーペットで、蛍光灯は均一に明るい。前職の営業部にあった、あの張り詰めた空気は、ここには存在しない。
だからこそ、佐久間はこの職場を選んだ。面接で「落ち着いた環境ですよ」と言われて、正直に安堵したのを覚えている。
入社して、四十七日目だった。
カウントしてしまうのは良くない兆候だと分かっていたが、頭が勝手に数えていた。
「佐久間くん、おはよう」
斜め前の席から声がかかる。三宅主任。四十八歳。細身で、いつも清潔なシャツを着て、声が少し高い。
この人は、いい人だ。
初日に社員食堂へ連れて行ってくれたのも、席の配置を分かりやすく紙に書いて説明してくれたのも――いや、あれは紙ではなかった。ホワイトボードだ。この会社は紙のメモを持ち歩けない。
ともかく、親切な人だった。フロアの誰に聞いても、三宅さんはいい人だと言う。実際、笑顔に嫌な感じが一切ない。
「おはようございます」
佐久間も練習した顔で返す。うまく出せた、と思った。
「あのね、今日から月次の突合、やってみようか」
佐久間の手が、マウスの上で止まった。
「……はい」
「もう見てはいたよね、隣で。じゃあ大丈夫。ちょっと来られる?」
三宅のデスクの椅子を借りて、佐久間は画面を覗き込んだ。
三宅は立ったまま、身を屈めて、マウスを操作していく。
「これがね、うちの基幹の照会画面。ここから前月分を落として、こっちの共有フォルダの様式に貼る。あ、この様式ね、四月に変わってるから古いのを掴まないように。二〇二四のフォルダの下に旧様式が残ってるんだけど、あれはもう使わない。使わないんだけど消せなくて、経理が参照してるから。で、貼るときに値貼り付け。書式ごと持ってくると条件付き書式が壊れる。壊れると赤が出なくなって、差異が見えなくなるから。あ、差異っていうのは、こっちの補助簿と――」
言葉が、途切れずに流れていく。
佐久間の頭の中で、単語が積み上がっていく。旧様式。値貼り付け。条件付き書式。補助簿。四月。経理。
積み上がるというより、降ってきたものが床に散っていく感じだった。拾おうとして手を伸ばすと、次のものが降ってくる。
メモを、と反射的に思って、佐久間はポケットに手を伸ばした。何もない。
紙のメモは禁止だ。情報管理規程。入社時に署名した。数字が書かれた紙をデスクに置くこと、社外に持ち出すこと、いずれも不可。記録はPC内のメモアプリに限る。
だが今、自分が座っているのは三宅の椅子で、開いているのは三宅の画面だ。
自分の席に戻ってから打ち込むしかない。それまで、頭の中に置いておくしかない。
――旧様式。値貼り付け。条件付き。補助簿。四月。旧様式。値貼り付け。
「……で、ここまでが前段。ここから先が本番なんだけど」
三宅が、ふっと笑って、佐久間の顔を見た。
「あ、いいよいいよ。今の話、全部覚えなくていいから」
佐久間は、思わず顔を上げた。
「え」
「聞き流していいよ。細かいところは、やりながら覚えるものだから。今は流れだけ、ぼんやり分かってればいい」
声は柔らかかった。気遣いだった。
実際、佐久間の肩から少し力が抜けた。ありがたい、と思った。三宅の親切に、素直に。
「はい、ありがとうございます」
「うん。じゃ、とりあえず前月分の抽出だけやってみて。分からなかったら聞いて。いつでもいいから」
いつでもいいから。
その言葉に、佐久間はもう一度、少し救われた気持ちになった。
自席に戻る。
ディスプレイの中には、すでに六つのウィンドウが重なっていた。
基幹システムの照会画面。共有フォルダのエクスプローラ。Excelの様式。メールソフト。社内チャット。そして、自分用のメモ帳。
二十四インチの画面に、それらが階層になって沈んでいる。一番下のメモ帳を掘り出すのに、四回クリックした。
打ち込もうとして、指が止まる。
――旧様式は、四月。いや、四月に新しくなったから、旧様式は三月まで。
値貼り付け。条件付き書式が壊れる。壊れると赤が出ない。赤が出ないと差異が見えない。差異は補助簿と、何だったか。基幹と補助簿の差異か。それとも前月と当月か。
思い出せない。
覚えなくていいと言われたから、覚えていない。
覚えなくていいと言われた。だから、聞き流した。
――本当に、聞き流したのか?
覚えられなかったのを、あの言葉に預けて、楽になっただけではないのか。
胃の奥が、しゅっと縮んだ。
物理的な感覚だった。誰かが内側から布を絞ったような、細く鋭い痛み。
佐久間は引き出しを開けた。錠剤のシートが、二列並んでいる。前職の頃から常備している胃薬だ。今日はまだ飲んでいない。
水筒に手を伸ばしかけて、やめた。今飲むと、午後の分がなくなる。午後のほうが、たぶんきつい。
メモ帳に、佐久間は打ち込んだ。
・月次突合
・旧様式NG(新様式は共有の下)
・値貼り付け
・差異=?
疑問符の位置で、カーソルが点滅した。
これを、聞けばいい。いつでもいいと言われた。
だが今、三宅は電話中だった。受話器を肩で挟んで、何か穏やかに笑いながら話している。あの笑い方は、たぶん相手が社外の人だ。
待とう、と思った。
待っているあいだに、抽出だけでもやってしまおう。基幹の照会画面を前に出す。前月分を選ぶ。……前月とは、八月なのか、七月なのか。今日は九月四日で、月次は締めてから動くはずだから――
フロアの向こう側で、笑い声が上がった。
三人。若い社員たちだ。誰かがパソコンの画面を指さして、それを見た二人が声を上げて笑っている。
佐久間の指が、キーボードの上で止まった。
自分ではない。
自分の話であるはずがない。彼らは自分と業務上の接点すらない。今のは何か、動画か画像か、そういうものだ。
分かっている。分かっているのに、背中の皮膚が薄くなったような感じがして、佐久間は椅子の座り直しを装って、少し画面のほうに体を寄せた。
自意識過剰だ、と自分に言った。
前の職場でも同じことをやって、同じように削られた。人は自分のことなんて、そんなに話題にしない。医者にもそう言われた。カウンセラーにも。
だから今のは何でもない。何でもないので、忘れる。
忘れられなかった。
笑い声はもう止まっていたが、耳の奥にまだ残っていて、佐久間は自分の呼吸が浅くなっているのを感じた。
画面の六つのウィンドウが、意味のある形をしていなかった。
どれかを閉じたい、と思った。閉じたら、何かが分からなくなる気がして、閉じられなかった。
三宅が電話を切ったのは、十一時過ぎだった。
「三宅さん、すみません」
「うん、どうした」
「先ほどの突合の、差異の確認のところなんですが」
三宅は椅子を回して、佐久間のほうを向いた。柔らかい表情のままだった。
「差異? どのへん?」
「基幹から落としたものと、何を突き合わせるのか、そこが自分の中で――」
「あれ」
三宅が、軽く首を傾げた。
声の高さは、変わらなかった。責める色は、一切なかった。むしろ、少し楽しそうにさえ聞こえた。
「それ、前にも言ったよね?」
佐久間の視界の中で、蛍光灯の白が一段明るくなったように見えた。
「……はい」
「補助簿だよ。ほら、朝いちで説明したところ。あそこがこの作業の一番大事なとこだから」
覚えなくていいと言われた。
聞き流していいと言われた。
その言葉が、頭の中で音になって鳴った。鳴ったが、口からは出なかった。
出そうとして、喉の途中で止まった。
止めたのは、自分だった。
言えば、三宅は困った顔をするだろう。「そんなこと言ったかな」ではなく、たぶん「あ、そうだったっけ、ごめんごめん」と素直に謝るだろう。この人はそういう人だ。謝られてしまう。謝られたら、自分が、覚えられなかったことを人のせいにした人間になる。
「すみません、確認不足でした」
佐久間はそう言って、練習した顔で笑った。
うまく出せた、と思った。
「うん。まあ、最初はそんなもんだよ」
三宅は本当に優しく笑って、椅子を戻した。「分かんなくなったら、いつでも聞いてね」
「ありがとうございます」
自席に戻って、佐久間はメモ帳の疑問符を消し、「補助簿」と打ち込んだ。
打ち込みながら、指先が少し震えているのに気づいた。
誰も怒っていない。
誰も自分を責めていない。
優しくて、風通しがよくて、人望のある主任がいて、自分は確認不足を素直に謝った。
それだけの、何でもない三十分だった。
なのに、胃の奥の布が、また絞られた。
佐久間は引き出しを開けて、今度はためらわずに錠剤を一粒押し出した。
窓の外は、九月の高い青空だった。
画面の中には、七つのウィンドウが重なっていた。
(第2話へ続く)




