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第8話 親切の檻

 十月一日、木曜日。

 佐久間貴史は、電車を三本見送った。


 四本目に乗った。乗れた。

 乗れたから大丈夫だ、という理屈を、佐久間はもう使わなかった。

 三本見送る人間は、大丈夫ではない。それだけのことだった。


 会社の最寄り駅で降りて、改札を出て、いつもの角を曲がった。

 曲がった先に、ビルの入口が見える。ガラスの自動扉。その向こうに受付。


 足が、止まった。


 止まったのは、歩道の途中だった。

 人が横を通り過ぎていく。誰も佐久間を見ない。


 佐久間は、自分の足を見た。

 右足も左足も、地面についている。動かせないわけではない。動かそうとする指令が、届いていないだけだった。


 二分、そこにいた。


 二分後、佐久間は歩き出した。

 歩き出せたことに、安堵はなかった。



 九時。フロアは、いつも通りだった。


 白い壁。グレーのカーペット。均一な蛍光灯。

 誰も怒鳴っていない。誰も机を叩いていない。

 二か月半、ここは一度も変わっていない。


 佐久間は席に着いて、パソコンを立ち上げた。

 起動を待つあいだ、腹に手を当てた。

 朝、薬を飲んできた。飲んできたのに、もう痛かった。


 三宅が来た。


「おはよう。……あれ、佐久間くん、なんか痩せた?」


 佐久間は顔を上げた。


「そうですか」

「うん、頬のあたり。大丈夫?」

「はい」

「ちゃんと食べてる?」

「食べてます」


 嘘だった。

 三日前から、固形物を口にしていない。ゼリー飲料と、水と、薬。


 三宅は、心配そうな顔をしていた。

 この人は、本当に心配していた。二か月半、一度も、演技をしなかった。


「ほんとに無理しないでね。しんどかったら休んでいいから」


 三度目だった。

 同じ言葉を、三宅は三度、佐久間に言った。


 佐久間は、その三度を全部覚えていた。

 三度とも、直後に業務が増えた。

 三宅の中で、その二つはつながっていない。つながっていないから、三宅は毎回、心から言える。


「ありがとうございます」


 佐久間は、笑おうとした。

 口角が、動かなかった。


 動かなかったことに、三宅は気づかなかった。

 もう自席に向かって歩き出していたからだ。



 十時十四分、電話が鳴った。


 佐久間は受話器を取った。

 取れた。今日は取れた。


「はい、管理業務課、佐久間です」

「あ、総務の石橋です。コピー用紙の件なんだけど」

「はい」

「先月八箱でお願いしたやつ、あれ十箱で来てるんだけど」


 佐久間の中で、何かが、すとんと落ちた。


 訂正を拾った、と思っていた。

 九月八日。石橋が「訂正、八箱で」と送ってきた。それを拾って、正しく通した。あれは、うまくやった仕事だった。

 二か月半で、数少ない、うまくやった仕事だった。


「……確認いたします」

「うん、まあ急がないから。使うからいいんだけどね」


 電話を切って、佐久間は履歴を開いた。


 発注データ。九月九日。コピー用紙A4、10箱。


 自分の指が、10と打っていた。

 訂正チャットのスクリーンショットも、フォルダに残っていた。「8箱」と書いてある。


 拾って、記録して、間違えた。


 佐久間は、その画面を見ていた。

 十分ほど、見ていた。


 自分が正しくやったと思っていた唯一の仕事が、正しくなかった。

 その事実に対して、佐久間の中に湧いてきたのは、悔しさでも焦りでもなかった。


 ――ああ。

 という、それだけだった。


 ああ、そうか、と思った。

 自分は、もう、機能していない。



 昼、佐久間は非常階段の踊り場に行かなかった。


 行かずに、自席にいた。

 誰もいないフロアで、画面を見ていた。


 ウィンドウは、十九枚あった。

 テキストファイルは、三十三個あった。


 佐久間は、そのすべてを、順に閉じた。

 一枚ずつ、上から。


 全部閉じると、壁紙が出た。

 会社支給の、無地の青。何もない画面。


 二か月半で、初めて見た。


 その青を、佐久間はしばらく見ていた。

 息が、少し楽になった。


 ――ここに、自分の仕事はなかったのかもしれない。


 そう思った。

 思ってから、違う、と訂正した。


 仕事はあった。月次も、発注も、議事録も、照会も。全部、実在した。

 実在したものを、自分が持てなかった。

 持てなかったのは、量なのか、能力なのか、環境なのか。


 その問いに、佐久間はもう答えを出さないことにした。

 答えを出そうとするたびに、自分に辿り着く。自分に辿り着くと、出口が消える。

 二か月半、それを繰り返してきた。繰り返した結果が、今日の朝の、動かない足だった。



 十四時、佐久間は三宅の席に行った。


「三宅さん、少しお時間よろしいですか」

「うん、どうした」


 三宅は、椅子を回して、佐久間を見た。

 いつもの、柔らかい顔だった。


「体調のことで、ご相談がありまして」

「あ、うん。会議室行こうか」


 三宅は立ち上がった。

 その動きが速かった。速かったことに、佐久間は少し感謝した。



 小会議室で、二人は向かい合った。


「病院に、行こうと思っています」


 佐久間はそう言った。

 言葉を、家で三回練習してきた。練習した通りに出た。


「うん。行ったほうがいい」

「胃だけではなくて、その、以前かかっていた症状が、戻ってきていまして」

「以前?」

「前の職場を辞めたときの症状です。自律神経の」


 三宅の表情が、変わった。


 初めて見る顔だった。

 驚きと、心配と、それから、少しの困惑。


「そうだったんだ。……知らなかった」


 知らなかった。

 その一言が、佐久間の中に静かに落ちた。


 言っていなかった。それは事実だ。中途入社の面接でも、休職歴は「体調不良」としか伝えていない。

 だから、三宅が知らないのは、当然だった。

 当然なのに、佐久間は、この二か月半、三宅が知っている前提でずっと苦しんでいた。


「言っていませんでした。すみません」

「いや、謝ることじゃないよ。……そうか。そうだったのか」


 三宅は、少し黙った。

 黙って、それから言った。


「俺、詰め込みすぎたね」


 佐久間は、顔を上げた。


「いえ」

「発注も議事録も照会も、二か月で全部乗せたもんな。うん、そりゃそうだ。悪かった」


 三宅は、素直に謝った。

 まっすぐ、目を見て、謝った。


 ――この人は、いい人だ。


 その事実が、この瞬間、いちばん強く、佐久間に届いた。

 届いて、そして、何も解決しなかった。


 三宅が悪人なら、話は簡単だった。

 悪人ではないから、三宅は謝る。謝って、反省して、そして三か月後には、また同じことをする。

 同じことをするのは、三宅の中に「聞き流していい」と「前にも言ったよね」を矛盾として登録する機構がないからだ。

 その機構は、たぶん、一生できない。


「三宅さんのせいでは、ありません」


 佐久間は言った。

 それは、社交辞令ではなかった。本当に、そう思っていた。


「いや、俺のせいだよ」

「違います」


 佐久間は、少し強く言った。

 言ってから、自分の声が震えていることに気づいた。


「三宅さんは、ずっと、親切でした」


 それが、佐久間の言えるすべてだった。


 三宅は、その言葉を、褒め言葉として受け取った。

 少し照れたように、頭をかいた。


「そんなことないよ。……とにかく、病院行って。しばらく休んでいいから」


 しばらく休んでいいから。

 四度目だった。


 今度こそ、その言葉は、正しく機能した。


「ありがとうございます」



 診断書が出たのは、翌週の火曜だった。

 適応障害。休養を要する、三か月。


 佐久間はそれを人事に提出し、三宅にはチャットで連絡した。


  三宅:ゆっくり休んで。仕事のことは何も考えなくていいから。

  三宅:戻ってきたときは、ちゃんと段階踏んで慣らしていこう。

  三宅:俺も反省してる。ごめんね。


 三行とも、本心だった。

 佐久間には、それが分かった。


  佐久間:ありがとうございます。ご迷惑をおかけします。


 送って、スマートフォンを伏せた。



 休職に入って、九日目。


 佐久間は昼過ぎに起きて、ベランダに出た。

 十月の空気は乾いていて、日差しが少し斜めになっていた。


 真弓は仕事に出ていた。

 診断書を見せたとき、真弓は「そんなに悪かったの」と言った。悪かったのか、と佐久間は思った。数字と名前がついて初めて、それは「悪かった」ことになった。


 部屋に戻って、佐久間は鞄を開けた。

 九月二十四日から入れっぱなしになっていた、ラミネートカードが出てきた。


  【一次受け 対応手順】

  ①名乗る(管理業務課・氏名)

  ②相手の会社/部署/氏名を確認


 三宅が、佐久間のために作ったものだった。

 わざわざ、時間を割いて、作ってくれた。

 紙が禁止のオフィスで、これだけは紙で渡してくれた。


 佐久間は、それを両手で持って、見ていた。


 優しさだった。

 まぎれもなく、優しさだった。

 この二か月半に受け取ったもののうち、九割は優しさだった。


 その優しさで、自分は、ここまで来た。


 佐久間はカードを机の上に置いた。

 捨てなかった。捨てられなかった。


 立ち上がって、洗面所に行った。

 鏡の前に立った。


 口角を、二ミリ上げる。

 目尻を緩める。眉は動かさない。

 三秒。息を吐く。


 上がった。

 二か月半ぶりに、鏡の中の男が、まともに笑った。


 佐久間は、それをしばらく見ていた。


 見ているうちに、目の奥が熱くなった。

 笑顔のまま、涙が出た。出て、頬を伝って、顎から落ちた。


 拭かなかった。


 誰にも、何も、されていなかった。

 二か月半、一度も。


 それでも自分は、ここまで削られた。

 削られた理由を、佐久間はいまだに一言で説明できない。

 説明できないものは、たぶん、これからも世の中で名前を持たない。


 名前がないから、また誰かが同じ場所に落ちる。

 落ちた人は、また自分を責める。誰も怒鳴っていないのだから、と。


 佐久間は蛇口をひねって、顔を洗った。

 冷たい水が、頬を流れた。


 顔を上げると、鏡の中の男は、もう笑っていなかった。

 笑っていない顔で、まっすぐ、こちらを見ていた。


 それは、二か月半ぶりに、練習していない顔だった。



                             (了)

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