第7話:遅れて届く違和感
彼女が去ってから。
王宮は、何も変わっていない――はずでした。
政務は滞りなく進み。
聖女は相変わらず周囲に囲まれ。
貴族たちはいつも通りに振る舞う。
すべてが、以前と同じ。
そう。
“以前と同じであるはず”なのです。
(……問題はない)
書類に目を落としながら、そう結論づける。
婚約解消は円満に行われた。
彼女は何も不満を口にせず、静かに去った。
感情的な対立も、派閥の衝突もない。
これ以上ないほど、理想的な形。
だから――
(これでよかった)
そう思うべきなのです。
なのに。
「殿下」
側近が、控えめに声をかけてきた。
顔を上げると、わずかに困ったような表情をしている。
「何だ」
「……いくつか、報告がございます」
「言え」
短く促す。
すると、彼は一瞬言葉を選ぶようにしてから口を開いた。
「公爵令嬢――いえ、元婚約者殿ですが」
その言い方に、わずかな引っかかりを覚える。
だが、それを指摘する理由もない。
「領地へ戻られたとのことです」
「……そうか」
予想通りの報告。
貴族としては自然な行動。
王都に留まる理由は、もうないのだから。
それ以上でも、それ以下でもない。
はずなのに。
「……随分と、急だったようで」
「何がだ」
「帰還の準備です。最低限の人員と荷だけで出立されたと」
「……問題はないだろう」
むしろ、合理的だ。
長居すれば無用な噂を呼ぶ。
早期の撤収は賢明な判断。
彼女らしい、とすら思える。
だが。
「……そう、ですね」
側近の返事は、どこか歯切れが悪い。
「他には」
促すと、彼はさらに続けた。
「社交界でも、いくつか声が上がっております」
「内容は」
「……あまりにも“何もなさすぎる”、と」
眉がわずかに動く。
「何もなさすぎる?」
「はい。婚約解消に至るまで、そして解消後も含めて――」
一度、言葉を切る。
「……あの方は、一切の感情を表に出されておりません」
「それの何が問題だ」
即座に返す。
感情を抑えることは、美徳だ。
特にあの立場であれば、なおさら。
彼女は、最後まで完璧だった。
それだけのこと。
だが。
「……ええ。問題はございません」
側近はそう言いながらも、どこか納得していない様子だった。
「ただ――」
「何だ」
「“完璧すぎる”のです」
その言葉に。
なぜか、一瞬だけ思考が止まる。
「……どういう意味だ」
「普通であれば、多少の感情は漏れるものです」
静かに、しかしはっきりとした口調で続ける。
「長年の婚約者との関係が終わるのです。悲しみでも、怒りでも、未練でも」
「……」
「何かしら、周囲に見えるものがあるはずです」
だが。
「あの方には、それが一切なかった」
静かな断言。
「まるで――」
そこで、彼はわずかに言葉を濁した。
「最初から、何もなかったかのように」
その一言が。
胸の奥に、わずかに引っかかる。
(……違う)
そうではない。
彼女は、確かに――
「……考えすぎだ」
言葉を遮るように、そう返す。
「彼女は元々、感情を表に出さない性質だ」
「ですが、殿下」
「それに」
さらに言葉を重ねる。
「それが彼女の選択だ」
静かに、断じる。
「ならば、尊重すべきだろう」
それで話は終わり。
終わらせるべき話。
側近も、それ以上は何も言わなかった。
「……失礼いたしました」
頭を下げ、静かに退室していく。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
再び、静寂。
机の上には、未処理の書類。
やるべき仕事は山ほどある。
だから。
(……問題はない)
もう一度、そう結論づける。
すべては正しく進んでいる。
何一つ、間違っていない。
そうでなければならない。
なのに。
ふと。
机の端に置かれた、小さな空白に目が留まる。
以前、そこには。
彼女が持ち込んだ書類や、小物が置かれていた場所。
いつの間にか、何もなくなっている。
ただ、それだけのこと。
整理されただけ。
それなのに。
(……なぜだ)
ほんのわずかに。
違和感が残る。
埋まらない、空白。
それが何なのか、言葉にはできない。
だが。
確実に、そこにある。
彼女は何も言わなかった。
最後まで、完璧だった。
だからこそ。
何も残らないはずなのに。
(……なぜ)
この静けさが。
こんなにも、重いのか。
その答えを。
まだ、彼は知らない。




