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守るために婚約者を手放した王太子は、彼女がもう戻らないことを後から知る  作者: あめとおと


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第3話:守るための決断



 聖女リディア様が王宮に迎えられてから、わずか数日。


 それだけの時間で、空気は目に見えて変わっておりました。


 貴族たちは口々に彼女を称え、

 教会はその存在を“神の祝福”として広め、

 民衆は奇跡の噂に熱を上げる。


 そして――


「殿下、聖女様との謁見の件ですが」


「本日の午後、再度の面会を設けております」


 王宮の執務室。


 積み上げられた書類と、途切れることのない報告。


 その中心にいるのは、もちろん王太子殿下。


 わたくしが知る“彼”とは、少し違う表情で。


「……またか」


 小さく呟かれたその一言に、わずかな疲労が滲む。


「教会側からの要請が強く。奇跡の検証も含め、継続的な接触が必要とのことです」


「検証、ね……」


 乾いた笑いが、かすかに漏れました。


 けれど、それを否定することはできない。


 なぜなら、それはすでに“個人の問題”ではなくなっているから。


「殿下」


 重臣の一人が、慎重に口を開きます。


「聖女様は、国にとって極めて重要な存在となる可能性がございます」


「分かっている」


 即答でした。


 迷いのない、しかし重い響き。


「ゆえに、軽んじることはできません」


「……ああ」


「民の支持も、教会の意向も、無視はできません」


 淡々と並べられる現実。


 それは、ひとつひとつが正しく。


 そして同時に、逃げ場のないものばかり。


 殿下はしばらく沈黙し、やがて深く息を吐きました。


「――つまり」


 静かな声。


「距離を置くことも、拒むことも、許されないと」


「……はい」


 誰もが目を伏せる。


 それが意味するものを、理解しているから。


 聖女を受け入れるということは。


 その隣に立つ者が、誰になるのか――


 自然と、比較が生まれるということ。


 そして。


 “王太子の婚約者”という立場が、どれほど注目されるのかも。


「……下がれ」


 低く告げられ、側近たちは静かに頭を下げて退出していきました。


 広い執務室に、残されたのはただ一人。


 王太子殿下のみ。


 ――その後の時間を、わたくしは知りません。


 けれど。


 後になって聞いた話と、あのときの彼の表情から。


 おそらく、こうだったのでしょう。


 彼は、長い時間、動かなかった。


 机の上に置かれた書類に目を落としたまま。


 何も決められずに。


 あるいは――すでに決めてしまったことを、受け入れきれずに。


「……ふざけるな」


 ぽつりと、零れた言葉。


 それが、誰に向けられたものだったのかは分かりません。


 国か。


 教会か。


 それとも――自分自身か。


 やがて、彼はゆっくりと顔を上げます。


 その目には、迷いは残っている。


 けれど。


 王太子としての決断が、そこにはあった。


「……巻き込めない」


 小さく、しかしはっきりと。


 誰に聞かせるでもなく、そう呟く。


 その言葉が指すのは、ただ一人。


 ――わたくし。


「これ以上、あいつを表に出せば」


 社交界は騒ぐ。


 教会は圧を強める。


 民は比較し、そして――


 傷つくのは、彼女だ。


 それが、分かっている。


 分かっているからこそ。


「……遠ざけるしかない」


 それは、逃げではなかった。


 責任から目を背けたわけでもない。


 むしろ逆。


 すべてを理解した上で。


 最も傷を少なくするために選んだ、最悪の選択。


「嫌われてもいい」


 ぽつりと。


「誤解されてもいい」


 机の上のペンを、強く握りしめる。


「――守れるなら、それでいい」


 その瞬間。


 何かが、決定的に変わったのでしょう。


 もう戻れない方向へと、舵が切られた。


 その決断が、どれほどの代償を伴うのかも知らずに。


 あるいは――


 分かっていて、なお。


 彼はそれを選んだ。


 そして、その日の夕刻。


 わたくしは再び、彼と顔を合わせることとなりました。


 いつもの場所。


 いつもの時間。


 ――の、はずでした。


「……お待たせいたしました、殿下」


 扉を開け、静かに頭を下げる。


 視線を上げた、その瞬間。


(……ああ)


 すべてを理解しました。


 言葉にされる前に。


 説明される前に。


 彼の表情ひとつで。


「……忙しい」


 それが、最初の言葉でした。


 短く、そっけなく。


 昨日までとは、まるで違う響き。


「本日は、長く時間を取れない」


「そうでございますか」


 自然に、答える。


 声が震えることもなく。


 表情が崩れることもなく。


 ただ、淡々と。


 それが“正しい反応”であると、理解しているから。


「用件だけ伝える」


 彼は、わたくしを見ないまま言いました。


「しばらく、公の場での接触は控える」


 ――やはり。


 胸の奥で、何かが静かに沈む。


「聖女との件で、周囲が騒がしい」


「はい」


「余計な憶測を呼ばないためだ」


「ええ」


 すべて、理解できる理由でした。


 正しくて、合理的で、そして――


 どうしようもなく、優しい。


 だからこそ。


「……承知いたしました」


 わたくしは、微笑みました。


 いつも通りに。


 何も知らないふりをして。


 何も感じていないふりをして。


「殿下のご判断に、従います」


 その言葉に、彼の指がわずかに動いたのを、見逃しませんでした。


 けれど。


 それ以上は、何も起きない。


 視線も、言葉も、伸ばされることはなく。


 ただ、距離だけが残る。


「……それでいい」


 低く、押し殺したような声。


 それが、最後でした。


 会話は終わり。


 時間も終わり。


 そして――


 何かが、確かに終わった音がした。


 けれど。


 それを口にする者は、誰もいない。


「では、失礼いたします」


 わたくしは静かに一礼し、踵を返しました。


 背を向ける。


 歩き出す。


 その途中で、一度だけ。


 ほんの一度だけ、振り返りたくなる衝動を――


 抑えて。


 そのまま、扉を開ける。


 外の空気は、やけに冷たく感じられました。


 ――だって。


 これはきっと。


 終わりではなく、始まりだから。


 もっと静かで。


 もっと確実に、壊れていくための。


 その第一歩なのだと。


 もう、分かってしまったのですから。




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