第2話:ヒロイン、突撃
それは、あまりにも唐突に現れました。
まるで物語の筋書きに従うかのように。
ある日、王都に“聖女”が現れたのです。
地方の小さな教会に仕えていたという、男爵令嬢。
名を――リディアと申しましたか。
奇跡を起こした、という噂は瞬く間に広がり、やがて王宮へと召し上げられることとなりました。
病を癒し、枯れた土地に花を咲かせる。
そんな話が、尾ひれをつけて語られます。
――まあ、社交界というものは、いつの時代もそういうものですわね。
「お聞きになりまして? 例の聖女様のお話」
昼の茶会。
いつもの顔ぶれの中で、わたくしは優雅に紅茶を口へと運びながら、何気なく話題に耳を傾けておりました。
「ええ、もちろん。殿下自らお会いになるとか」
「まあ、それは……」
視線が、ちらりとこちらへ向けられる。
好奇と、同情と、そしてわずかな期待。
――何か面白い反応を見せてくれないか、という。
けれど、わたくしはただ微笑むだけ。
「王太子殿下がご判断なさることですもの。わたくしどもが口を挟むことではございませんわ」
当たり障りのない言葉。
それだけで、場の興味はすぐに別の話題へと移っていきました。
……本当に、分かりやすいこと。
わたくしが騒がない限り、この話は“まだ”ただの流行り話でしかない。
そう、“まだ”は。
その日の夜。
王宮の一室にて、わたくしは彼――王太子殿下と再び顔を合わせておりました。
昼間の喧騒とは打って変わって、静かな空間。
けれど。
どこか、いつもと違う空気が流れているのを感じます。
「……例の聖女について、何か聞いているか?」
先に口を開いたのは、殿下の方でした。
いつもなら、もう少しだけ柔らかい導入があるはずなのに。
まるで、用件を急いでいるかのような言い方。
「ええ。噂程度には」
わたくしは静かに答えます。
「奇跡を起こすお方だとか」
「ああ……」
殿下は短く頷き、それきり言葉を切りました。
沈黙。
ほんの数拍のはずなのに、やけに長く感じる。
いつもなら、この沈黙すら心地よいものだったのに。
今は――少しだけ、違う。
「……明日、謁見することになっている」
「そうでございますか」
自然に返したつもりでした。
けれど、殿下はじっとこちらを見ている。
何かを測るように。
あるいは――反応を探るように。
「それだけですの?」
わたくしは首をかしげました。
「何か、わたくしが申し上げることがございます?」
「いや……」
殿下は、そこで一度視線を逸らし、そしてすぐに戻す。
「……お前は、どう思う」
問われて、ほんのわずかだけ考えました。
どう思うか。
奇跡を起こす聖女。
国にとって必要な存在。
そして、殿下が自ら会うことを選んだ相手。
「そうですわね」
ゆっくりと、言葉を選びます。
「もしそれが真実であるならば――国にとって、得難いお方でございましょう」
感情を挟まない、事実だけの答え。
それ以上でも、それ以下でもない。
殿下は、わずかに目を細めました。
「……それだけか」
「それ以上、何を?」
問い返せば、ほんの一瞬だけ。
彼の中で何かが揺れたように見えました。
けれどそれはすぐに消え、いつもの表情に戻る。
「いや。……そうだな」
短く、そう言う。
それで会話は終わりました。
終わって、しまった。
いつもなら。
ほんの些細なことでも言葉を重ねて、気づけば時間が過ぎているはずなのに。
その日は違った。
沈黙が増え、言葉が減り、そして――
どこかで、線が引かれたような感覚だけが残る。
「……殿下」
思わず、呼び止めておりました。
彼が部屋を出ようとした、その背に向かって。
足が止まる。
振り返る。
その一瞬の間に、何を言うべきかを考えて――
結局、口にしたのは。
「明日の謁見、滞りなく進みますよう」
そんな、どうでもいい言葉でした。
けれど殿下は、ほんのわずかに目を見開いて。
そして、静かに頷く。
「ああ」
それだけ。
それだけを残して、扉は閉じられました。
――その後のことは、よく覚えております。
聖女リディア様は、噂に違わぬお方でした。
人懐こく、飾り気がなく、そして何より――
「殿下! あの、こちらでよろしいでしょうか?」
遠慮なく、彼の名を呼ぶ。
距離を測らない声。
無邪気な笑顔。
そして、それを咎めることのできない空気。
王宮の庭園にて。
わたくしは少し離れた場所から、その光景を眺めておりました。
殿下は困ったように眉を寄せながらも、彼女の問いに答えている。
距離は、近い。
けれど――
(……ああ)
なぜでしょう。
胸が痛むわけでは、ないのです。
嫉妬も、怒りも、湧いてはこない。
ただ。
静かに、理解してしまったのです。
(そういうことですのね)
彼が、あの夜、何を考えていたのか。
なぜ、あのような間があったのか。
なぜ、“どう思う”などと聞いたのか。
すべてが、一本の線で繋がる。
――守ろうとしているのだと。
誰を。
何から。
それはまだ、はっきりとは分かりません。
けれど、少なくとも。
その選択の中に、“わたくしが含まれていない”ことだけは、理解できました。
それで、十分でした。
「……さて」
わたくしは静かに踵を返します。
視線を外し、何事もなかったかのように歩き出す。
誰にも気づかれないように。
いつも通りの、公爵令嬢として。
――だって。
まだ、何も起きてはいないのですから。
何も、壊れてなどいない。
ただ少しだけ。
ほんの少しだけ。
“同じ方向を見ていなかった”ことに、気づいただけで。
それだけのこと。
……そう。
このときのわたくしは、まだ。
これが“始まり”であると、理解していなかったのです。




