第1話:すでに、両想いだった
王太子殿下と、公爵令嬢。
それが、わたくしたちに貼られた、もっとも簡潔で、もっとも誤解を招く関係性の名前でございます。
社交界において、わたくしたちは冷え切った婚約者同士だと認識されておりました。
舞踏会では決して手を取り合わず、必要以上に視線を交わすこともなく、言葉も最小限。
互いに敬意はあれど、情は見えない――そんな関係。
ええ、確かに。
それは“表向き”としては、正しい評価でございましょう。
けれど。
「……本当に、これでよろしいのですか?」
人気のない回廊で、わたくしは問いかけました。
夜会の喧騒から離れた、静かな石造りの廊下。窓の外には庭園が広がり、月明かりが白く床を照らしております。
振り返った彼――王太子殿下は、ほんのわずかに眉を寄せて、苦笑なさいました。
「何がだ?」
「本日の振る舞いですわ。……あまりに、他人行儀に過ぎます」
わたくしがそう告げると、殿下は一歩だけ近づいて――そして、周囲に人の気配がないことを確かめるように視線を巡らせました。
その仕草に、胸の奥がわずかに熱を帯びます。
誰にも見せない顔を、今だけは見せてくださるのだと、知っているから。
「仕方がないだろう。公の場だ」
「ええ、理解しておりますわ」
理解している。しているからこそ、何も言えなかった。
誰よりも近いはずの距離が、誰よりも遠く見えるあの場所で。
けれど、今は違います。
彼はわたくしの前に立ち、ふっと息を吐いて、肩の力を抜きました。
「……少しだけ、許してくれ」
そう言って、彼はそっと手を伸ばす。
躊躇うように、けれど確かに――わたくしの指先に触れました。
その温もりが、あまりにも自然で。
あまりにも、当たり前で。
胸が、きしりと音を立てるように、静かに満たされていきます。
「……誰かに見られますわ」
「見られない場所まで来た」
そう言って、ほんのわずかに、指を絡める。
強くもなく、弱くもない、逃げ道を残したままの触れ方。
それが、この関係のすべてを表しているようで――思わず、笑みがこぼれました。
「ずるいお方」
「そうかもしれないな」
殿下は否定なさらない。
その代わり、ほんの少しだけ、指先に力を込める。
それだけで十分でした。
言葉よりも確かなものが、そこにあると知っているから。
しばしの沈黙。
夜の空気は静かで、遠くから楽団の音がかすかに届きます。
このまま、時間が止まればいいのに――と、そんなことを考えてしまうほどに。
「……次の舞踏会が終われば」
ぽつりと、殿下が口を開きました。
わたくしは顔を上げる。
「正式に発表しよう」
一瞬、意味が理解できませんでした。
けれど、その言葉が胸の奥に落ちてきたとき――
息が、止まりそうになる。
「それは……」
「もう、隠す必要はないだろう」
静かに、しかしはっきりとした声で、殿下は続けます。
「これ以上、距離を取る理由もない。……お前を、これ以上遠ざけておくのは、限界だ」
その言葉に、胸の奥で何かがほどけていくのを感じました。
ああ、やはり。
この方は、同じ気持ちでいてくださったのだと。
「……よろしいのですか?」
「何がだ」
「わたくしは、“扱いづらい婚約者”として有名でしてよ」
わざと軽く言えば、殿下は小さく息を漏らして笑われました。
「それなら、こちらも“冷酷な王太子”として釣り合いが取れる」
「まあ」
思わず笑ってしまう。
こんな風に笑える時間が、こんなにも尊いものだとは――きっと、誰も知らない。
「後悔はさせない」
不意に、低く告げられたその言葉。
指先に込められた力が、わずかに強くなる。
逃がさないとでも言うように。
それが、あまりにも嬉しくて。
「……ええ」
わたくしは、そっと頷きました。
「信じております」
それは、疑いようのない本心で。
そして同時に――
これから先も、ずっと続いていくものだと、信じて疑わなかった言葉でした。
だからこそ。
このときのわたくしは、まだ知らなかったのです。
この穏やかな約束が――
どれほど容易く、崩れてしまうものなのかを。
そして。
あの方がこの手を離す理由が、
“わたくしのため”であることすら。
――知らないままの方が、幸せでいられたのだと。
後になって、思い知ることになるとも。




