第10話(最終話):それでも彼女は微笑む
結局。
何もせずに終わることだけは、できなかった。
それが無意味だと分かっていても。
遅いと理解していても。
それでも。
(……一度だけでいい)
確かめなければならなかった。
あの選択が、本当に正しかったのか。
あの終わりが、本当に“終わり”なのかを。
だから。
彼は王都を出た。
最小限の供だけを連れて。
公務という名目をつけて。
彼女のいる領地へと向かった。
道中、何度も考えた。
何を言うべきか。
何を伝えるべきか。
だが。
(……何も、浮かばない)
当然だった。
言葉にできる段階は、もう過ぎている。
それでも。
何か一つでも。
何か――
そんな曖昧な思いだけを抱えて。
馬車は進む。
そして。
「……ここか」
辿り着いた先。
広大な領地の中心にある、静かな屋敷。
王宮の喧騒とは、まるで別の世界。
空気すら違う。
穏やかで、静かで。
――満ち足りている。
そのことに、わずかな違和感を覚える。
(……満ちている?)
彼女はすべてを失ったはずだ。
婚約も、立場も、未来も。
それなのに。
この場所には、“欠けた気配”がない。
むしろ。
最初から完成していたかのような、静けさ。
その中心に。
彼女は、いた。
「……殿下」
出迎えに現れた彼女は。
あの日と同じように。
いや。
それ以上に穏やかな微笑みを浮かべていた。
違うのは、ただ一つ。
もうそこに、“距離”がないこと。
正確には。
“測る必要のある距離”が、消えている。
婚約者ではないから。
気を遣う必要も、守る必要もない。
ただの。
一人の貴族としての距離。
「急な訪問、失礼する」
「いいえ。お越しいただき、光栄です」
完璧な応対。
だが、それはもう。
以前のものとは違う。
役割としての完璧さではなく。
ただ自然な、完成された在り方。
(……違う)
胸の奥が、静かに軋む。
知っているはずの姿なのに。
決定的に、何かが違う。
「中へどうぞ」
案内されるままに、屋敷の中へ。
整えられた空間。
無駄のない配置。
だが、冷たさはない。
むしろ、柔らかい。
人が“居る”空間。
彼女が、ここで生きているのだと分かる。
(……ここには)
自分の居場所はない。
そう、直感的に理解してしまう。
「お茶をお持ちいたしますね」
彼女が席を外す。
その背中を、ただ見送ることしかできない。
引き止める理由が、ない。
引き止める資格が、ない。
やがて。
茶器を手に、彼女が戻ってくる。
向かい合う形で座る。
それはかつて、何度も繰り返した光景。
なのに。
もう二度と同じにはならないと分かる光景。
「……変わらないな」
思わず、口に出る。
彼女は、わずかに首を傾げた。
「そうでしょうか?」
「ああ」
変わらない。
完璧で、穏やかで。
何一つ、不足がない。
だが。
(……違う)
変わっている。
決定的に。
「……殿下は、お変わりになられましたね」
静かな指摘。
一瞬、言葉に詰まる。
「そうか?」
「ええ」
彼女は、穏やかに微笑む。
「以前よりも、少しだけ……迷っておられるように見えます」
核心を突く言葉。
だが、それを責める響きはない。
ただ、事実として述べているだけ。
「……そうかもしれない」
否定はしなかった。
できなかった。
少しの沈黙。
やがて。
「……あの時」
口を開く。
ようやく、ここまで来て。
「俺は――」
言いかけて。
止まる。
何を言おうとしているのか。
自分でも、分かっている。
謝罪か。
弁明か。
それとも。
――取り戻したい、という言葉か。
だが。
「……」
彼女は、何も言わずに待っている。
急かすこともなく。
期待することもなく。
ただ、そこにいる。
その姿を見た瞬間。
(……ああ)
理解してしまう。
この人は、もう。
何も求めていない。
自分に対して。
一切。
だから。
どんな言葉も。
意味を持たない。
「……いや」
ゆっくりと、首を振る。
「何でもない」
それが、唯一言えることだった。
彼女は、静かに頷く。
「そうですか」
それだけ。
それ以上、踏み込まない。
踏み込ませない。
その距離が。
すべてを物語っている。
しばらくして。
彼は席を立った。
「……長居をしたな」
「いいえ」
彼女は、最後まで穏やかだった。
玄関まで見送られる。
扉の前。
もう一度だけ、向き合う。
最後の機会。
本当に、最後の。
だが。
(……言うことはない)
もう、何も。
「……元気で」
絞り出した言葉は、それだけだった。
あまりにも、ありふれていて。
あまりにも、遅すぎる言葉。
「はい」
彼女は、微笑む。
あの日と同じように。
けれど。
もう、その微笑みは。
自分のためのものではない。
ただ、彼女自身のもの。
完成された、彼女の在り方。
「殿下も、どうかお健やかに」
丁寧な別れの言葉。
それで、終わり。
今度こそ、本当に。
彼は背を向ける。
振り返らない。
振り返る理由が、ない。
振り返っても、何も変わらないと知っているから。
歩き出す。
一歩。
また一歩。
その背後で。
扉が、静かに閉じる音がした。
それは。
すべてが終わった音だった。
――彼女は、最後まで優しかった。
だからこそ。
何一つ、取り戻せなかった。
守ったはずのものは、すべて失われ。
守られていたことに気づいた時には。
もう、遅かった。
それでも。
彼女は、最後まで微笑んでいた。
その微笑みが。
二度と、自分に向けられることはないと知りながら。




