表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
4/5

4. 三は、出せません

 翌日――。


 夜明け前の地図の間。掌の底には、まだ昨日の二が残っている。昼に冷める。


 つまり今日は、昼から出せる日である。出せる日に出さないことは、出せない日に出さないこととは、まるで違う。その違いが、まだ暗い部屋の空気より重く、肩へのしかかっている。


 窓はまだ暗く、外の空は夜の底に沈んでいる。灯りがかすかに揺れ、その下で、地図の北のほうだけが黄色く浮いて見える。


「〈鴉ノ喉〉の跡に、新しい巣ができております。竜が三頭」


「輪の内側に、何人おりますか?」


 フェリシーが読み上げるより先に、地図を追っていた指が止まる。止めたつもりはないのに、関節だけが冷たくこわばっている。


「……炭焼きのロドリグの一家が、四人。跡の中腹に、新しい窯を組んでおります」


「新しい?」


「三日前の晩、北風で、麓の窯の火が落ちたそうです。窯が、割れて。……先代の炭焼きが使っていた古い窯跡が、崩れた斜面の中腹に残っておりましたので、そこへ石を積み直した、と」


 四半里。半里の輪の、ど真ん中である。どちらへ目を逃がしても、窯は輪の内へ沈んだまま動かない。


 フェリシーが錘を窯の位置へ置き直す。錘が地図へ触れる小さな音が、静かな部屋にひどく大きく響く。錘は、半里の輪のちょうどまん中で止まる。


 三日前、同じ錘は、いまは無い岩山の上にあった。その距離を、わたくしは指で二度なぞる。指の腹で紙の目がざらざらと鳴り、消えた岩の手触りだけがそこに残る。喉の奥が乾いて狭まり、唾が途中でつかえて下りていかない。


 わたくしの引き算は、いつも輪の内側だけを見ている。輪の外は、段では壊れない。壊れないと、そう覚えてきた。その言葉だけが、いまは薄い紙のようで、指を置けば破れそうに思える。


「今日は、零のままにいたします」


 部屋にはフェリシーと、寝床から首だけ出したコランしかいない。赤茶の髪には、厨の灰がまだ残っている。この一言は、いつもここから出ない。扉も壁も、そういうものだと思っていた。


 朝。地図の間を出て廊下を折れると、厨の窓のところにフェリシーがいる。頭に巻きつけた髪がわずかにほどけ、急いだ息で肩が上下している。封をした紙を、窓の外の手へ渡している。今日の分である。


 わたくしは訊かない。訊けば、答えがここで出てしまう。答えが出れば、毎朝そばにあった手を、窓の外の手へつながるものとして数えなければならない。まだ、その数だけは口にできない。


       ◇


「そなたが二で済ませるたび、三で終わったはずの戦が、来年もう一度来る」


 王城の一の間。高い窓から朝の光が斜めに差し、冷えた床を白く切っている。ボーメール卿は何も持っていない。紙も、帳面も、机の上に一枚も無い。左目の下の縫い跡だけが光にさらされ、古い傷なのに、まだ痛んでいるような白さに見える。


「三年前の春。そなたは二と申告した。現場に被害は出ておらん。その翌年の夏、同じ谷に二度目が湧いた」


「……」


「四年前の秋。二。被害なし。翌年、二度目。儂は、六年ぶんを全部言えるぞ」


「……存じております」


「そして今朝、そなたは地図の前で〈今日は、零のままにいたします〉と言うたな。あの部屋から外へは出ておらぬはずの声だ」


 夜明け前に地図の間で言った言葉が、朝のうちに、この部屋にある。背筋を、細い氷が一本、すっと下りていく。今朝あの窓から出ていった封のほかに、道は無い。数はいつも合う。こういうときまで、残酷なほど合ってしまう。


 わたくしは何も言わない。今日の勘定に、それは入れない。入れれば、数字では済まないものまでこぼれ出しそうで、舌を上あごへ押しつける。


「……」


「一で足りた日を、そなたは二と申告した。儂は、そなたの数字が嘘だと知っている」


 言い返す言葉はある。ただ、言えば、その先まで言うことになる。自分の隠したことと、今朝の声を運んだ者のこと。言葉が舌の上で二つに割れ、どちらを選んでも誰かを傷つける気がして、どちらも出てこない。


 わたくしの声は、数を言うときだけ、はっきりする。


「三は、出せません」


「四人だ」


「四人でございます」


 卿はもう何も言わない。朝の光の中で、机の上に組んでいた指をゆっくり解く。何も持たない手のひらが机に残り、言葉の途切れた部屋だけが重くなる。


       ◇


 昼。冷めた。出せる。出さない。


 出せる日に出さないというのは、朝から夕まで、ずっと自分の掌を意識しているということである。素手のままの掌が袖の中で行き場をなくし、何にも触れていないのに、じわじわと重くなっていく。


 冷める瞬間は、いつも指先から訪れる。今日はその瞬間を、館の窓辺で、ひとりで迎えた。指の熱が戻り、窓の冷たさまで分かる。誰も見ていない。それでもわたくしは掌を握り、出さない、と自分へあらためて言い聞かせる。


 騎士団が跡へ入り、夕に下りてくる。竜は三頭とも落ちた。担架が三つ。重傷が三人。勝ったという言葉は、誰の口からも出ない。


 跡は、三日前より歩きやすい。岩が無いというのは、こういうことである。足を取るものも、風を遮るものもない。歩きやすい斜面を登るほど、その理由が靴底から伝わってくる。


 わたくしは自分の足で〈鴉ノ喉〉の跡へ登り、担架の横に立つ。膝の奥が震えても、頭は下げない。下げると、数が嘘になる。代わりに、爪が掌へ食い込むまで手を握る。


「わたくしは、二を出しませんでした。半里の内側に、炭焼きの一家が四人おりましたので」


 担架の上の男は、まだ目を開けている。土と汗に汚れた顔をわたくしへ向け、それから、屋根のない空を見る。血の匂いと竜の焦げた匂いが混ざり、風の来ない斜面のくぼみに重くたまっている。息を吸うたび、その苦さが舌に貼りつく。


 誰かが、喉を痛めるのも惜しむように、息だけで笑う。


「四人ね」


「はい。四人です」


「その四人と、うちの三人は、どう数えるんです?」


「……同じに数えます。ですから、二を出しませんでした」


 背中の後ろで、鎧の擦れる音がする。乾いた金属の音が、責める声の切れ目へ静かに差し込む。


「この方は、数えているのだ。数えていない者が、数えている者を責めるな」


 レニエ卿である。右のこめかみの剃り跡が、担架を照らす灯りの油煙で黒く汚れている。かばわれたのは、たぶん生まれて初めてで、わたくしには背中へ灯った熱の置きどころが分からない。ありがとうございます、という言葉を返したい。けれど、その言葉は喉の途中でつかえ、乾いた息しか出てこない。


 背中だけが熱い。けれど、担架へ向けた体の前は、冷たいままである。人にかばわれると、体が二つの温度に割れるのだと、わたくしはこの日はじめて知る。嬉しいと感じてよい場所が、体のどこにも見つからない。


 六年、わたくしは輪の内側の人を数えてきた。けれど、数えられる側に立ったことは、たぶん一度もない。背中に残る熱は、知らない場所へ置かれた印のように、いつまでも消えない。


       ◇


 その足で、新しい窯へ登る。頼むのは、これで二度目である。血と焦げの匂いがまだ服に残り、斜面を踏むたび、背中の熱だけが遠ざかっていく。


 新しい窯は、古い窯跡の石の上に積み上げてある。継ぎ目だけ土の色が違い、指で押せばへこみそうなほど、まだ乾ききっていない。窯の風下には、四人ぶんの寝床が藁で寄せてあり、灰色の暮らしがもう根を下ろしている。


 ロドリグは太い腕で灰をならしている。節の太い指が灰を押すたび、白い粉が低く舞う。それでも、わたくしを見ない。


「崩れた斜面から、降りていただけませんか。半里の外まで。そうすれば、次は二で終わります」


「あの跡でしか、いい炭は焼けんけん」


 灰の匂いが、風のないところにたまっている。鼻の奥へ入り込む乾いた苦さは、さっきの竜の焦げた匂いによく似ている。


「組んだばかりじゃ。もういっぺんばらせと、嬢さまは言いなさるので?」


「……はい」


「嬢さまが山を消したけん、うちの窯が割れて、いい炭になったんじゃ。降りろは、ちいと勝手じゃろ」


 勝手である。積み直したばかりの石と、灰にまみれた太い腕を見れば、言い訳は見つからない。だから、わたくしは二度は言わない。


 窯の風下、藁の寝床で、いちばん小さい子が眠っている。四人のうちの一人である。頬についた灰は、やわらかな寝息のたびにわずかに揺れ、幼い顔の上で、小さな影を作っている。


 わたくしはその子を数える。頬の灰も、藁からのぞく小さな手も目に焼きつけ、それでも数えたことは口に出さずに帰る。


 跡を下りるころ、北の空に狼煙が三本上がる。夕映えを裂く黒い筋は、細いのに、空の色をすべて押しのけて見える。


 斜面を吹き抜ける風が、冷えた灰をいっせいに舞い上げる。国境の向こうから、軍が一つ下りてくる。一万。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ