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5. 六十年、誰にも触れておりません

 六の月七日。朝。窓から入る光はまだ白く、地図の間には、消えかけた灯り油の匂いと夜の冷たさが残っている。


 三が要る。三の輪を、わたくしは指で地図の上に描く。指の腹が紙の目を拾い、乾いた音を立てる。そのざらつきが、止めるなら今だと告げているように思えた。それでも指は進み、輪を閉じる。この輪の中に、六年ぶんの朝が、ぜんぶ入ってしまう。


「輪の内側に、サンス村。まるごと入ります。八十四人でございます。〈鴉ノ喉〉は三里余の外、ロドリグの窯は入りません」


 読み上げの声は、途中から、糸がほどけるように遅くなる。輪の北の縁は、ちょうど国境の線に触れている。声が細くなるほど、その線だけが地図の上で濃く見えた。


 まるごと、というのは、家もという意味である。八軒ではない。戸口に残る手の跡も、壁に染みついた煙も、帰れば開くはずだった窓も、全部である。


 地図の前で、わたくしは初めて手が止まった。六年、二より上を出したことがない。三の先に何があるのかを、わたくしは数でしか知らない。知らないものへ手を伸ばすのに、指だけがもう、その形を覚えている。


「……では、今日は、三までにいたします」


 この部屋で三と言ったのは、初めてである。口から離れた声が、冷えた空気の中へ落ち、もう拾い直せないものになる。


「お嬢さま。……お顔の色が」


「大丈夫です。塔へ参ります」


       ◇


 館の東の塔は、六年のあいだ一度も上がったことがない。朝の光を背に見上げると、細い窓だけを空に並べた石の塔は、館から切り離された場所のように見える。


 階段の石が、足の裏に冷たい。上がるほど、湿った冷たさが膝から腰へ移り、古い石と閉じた空気の匂いが濃くなる。この塔には、盆を運ぶ者しか出入りしない。壁に触れずに上がるわたくしの足音だけが、狭い階段を先へ先へとのぼっていく。


 六年、上がらずに済ませてきた。上がらなければ、終点を見ないで済む。見ないで済むあいだは、朝の勘定だけが仕事でいられる。そう思っていたのに、扉へ近づくほど、見なかった時間まで背後からついてくる。


 盆は、扉の内側の床に置く決まりだと聞いている。大伯母さまは盆を肘で引き寄せて、柄を布で太く巻いた匙を、両の手袋で挟んで使う。握るのではない。挟むのである。こぼす。床の石には、ぬぐっても消えない薄い染みが残っている。六十年、それをしている。


 大伯母さまは北の窓のそばに座っている。白髪を結わずに肩へ落とし、細い背を朝の光に縁取られながら、膝の上に両手を置いている。大伯母さまの手袋は、指先だけが新しかった。掌のところは、糸の目が透けるほど薄い。そこだけを、毎年、誰かが縫い足しているのだと分かる。新しい指先が、かえって積もった時間をはっきり見せている。


「おまえか」


「はい。ヴィオレーヌでございます」


「触れるな」


「はい」


 わたくしへ向いた目は、灰のかかった青である。毎朝、盥の水に映っているのと同じ色をしている。その色の奥に、わたくしの行き着く先がもう座っているように見えて、息が浅くなる。


「六十年、誰にも触れておりません」


 窓の外には、北の平野が淡い朝の霞の下で広がっている。その果てに、草の生えない帯が、古い傷のようにまっすぐ横たわっている。


「あれは三十七里ある。わたくしが引いた」


「……はい」


「おまえは、四千を数えたことがあるか?」


 喉が、鳴らない。息を吸っても、冷たい空気が鎖骨のあたりで止まり、返す言葉のある場所まで届かない。


「あの日、輪の中に、向こうの兵と、こちらの村が入っておった。数えたのは、出したあとよ」


 大伯母さまは膝の上の手を、少しだけ持ち上げて、また戻す。布が擦れるかすかな音まで、静かな部屋に残る。持ち上げ方が、置き方が、わたくしの手つきと同じである。その同じさが、顔立ちよりも深く、わたくしの中へ入ってくる。


「十は、生きたまま段を手放す唯一の道。出した者は、二度と誰にも触れられぬ」


「……大伯母さまは、いま、何段でいらっしゃいますか?」


「零よ。零のまま、冷めぬ」


 わたくしは自分の掌を見る。手袋の中で、指が少しだけ震えている。震えは革に吸われ、外からは見えない。こわさなのか、六年ぶんの朝が今日で終わるからなのか、わたくしには数えられない。数えられないものが、指の間に冷たい汗だけを残している。


 こわいという言葉は、わたくしの喉の、数よりずっと奥にある。その手前を、段と範囲と人数がいつも塞いでいる。取り出すころには、たいてい日が変わっている。


「……六十年」


 それだけ言うと、大伯母さまは窓のほうを向く。白髪が肩を滑り、頬の線を隠す。もう、こちらを見ない。差し込む光の中で、膝の手袋だけが動かずに残る。


 階段を下りながら、わたくしは手袋の指先を数える。五本。親指で縫い目をなぞると、どの指も、まだ誰かに触れられる形をしている。あと何年ぶんの朝が残っているのかは、数えない。


       ◇


 サンス村を空にするのは、二度目である。今度は二刻で済む。鐘も呼び声も待たず、戸が開き、荷が道へ運び出されていく。二度目は、人が先に動く。戸口を振り返る時間だけが、前より長い。


「荷も、ぜんぶ出してください。鍋も、寝台も、麦の袋も」


「……家は」


「家は、出せません」


 訊いた人は、開いた口をそのまま閉じ、それ以上訊かない。薄暗い家の中へ戻り、寝台の脚を持ち上げる。床板に残った跡だけが、その重さを惜しむように白く浮いている。


 家は出せないが、家の中のものは出せる。鍋のすすも、寝台に残った体のくぼみも、麦の匂いも、運べるものにはまだ手が届く。それだけが、今日わたくしにできる引き算である。


 村の道の端に、夜露をつけた荷車が三台停まっている。引いているのはロドリグと、その妻と、子が二人。四人である。昨夜の狼煙を見て、暗いうちに跡を出たのだという。車輪には乾ききらない泥が厚くつき、皆の髪と肩には、窯の灰がまだ残っている。


「跡は降りん」


「……はい」


「荷車は、貸す」


 礼の言葉が喉まで上がる。それでも、わたくしは礼を言わない。言えば、頼みのほうが通ったことになってしまう。向こうも、礼を待つ顔をしていない。


 頼みは通らなかった。通らなかったのに、この人はここにいる。荷車のきしむ音が、返事の代わりに村の道を往復している。わたくしは、その二つが別のことなのだと、このとき初めて知る。昨日の拒みと今日の荷車は、どちらも、この人のしたことである。


 昼過ぎ。〈灰原〉。雲は薄く、日差しを受けた草が、風のたびに鈍い銀色へ裏返る。


 平地である。風よけの役をする山がひとつも無い。低い草の向こうまで空が落ちてきて、立っているだけで体の輪郭が風にさらされる。ここを消しても、外の風は変わらない。それだけが、今日の救いである。


 わたくしは輪のまん中に立つ。錘を置いた場所である。輪は目に見えない。それでも、ここから北へ一里半、輪の縁が国境の帯にちょうど触れている。足元の草が揺れるたび、見えない線まで呼吸しているように思える。


 平地は、遠くまで見える。それが今日いちばん役に立つ。風に押される草の波の上へ、列の先頭も、列の尾も、同じ一枚の景色の中に浮かび上がっている。逃げ場のない広さが、いまだけは味方になる。


 北から、一万が下りてくる。


 先頭が帯を越える。黒い列が平野へ染み出し、しばらくして、列の向きがこちらへ寄る。足並みの速さが、目で分かるくらいに上がる。風とは違う揺れが、草の向こうから近づいてくる。


 まだである。最後の旗が、まだ帯の向こうにある。宣言の言葉はもう舌の裏にあるが、声にはしない。


 わたくしは数える。帯を越えた旗を数え、まだ帯に触れている旗を数え、風で列がたわむのを数える。重なった旗を目でほどき、また数え直す。先頭の槍の穂先が、日を弾いて光るところまで来る。白い光が瞬くたび、距離が短くなるのが分かる。


 まだである。数え終わるまで、わたくしは口を開けない。早く言えば、そのぶんだけ誰かが輪の外に残る。遅く言えば、先頭がここへ届く。唇を閉じたまま、そのあいだだけを見つめる。


 足音が地面から膝へ上がってくる。靴の中で足裏が震え、地面が、鼓のように鳴っている。旗の布が風で鳴る音と、鎧の擦れる音と、馬の息。ぜんぶ、いま数えているものの音である。自分の鼓動だけは、どこへ入れればよいのか分からない。


 最後の旗が、帯の灰色から離れる。風にあおられた布の端まで、こちら側の空へ出る。


 全部、輪の内側である。


 手袋を外す。こわばった指の間へ風が入り、掌にあたる。風だけは、わたくしの手を怖がらない。今日はもう、これで最後である。


「〈三〉で参ります」


 シュオォォォ……。


 黄金の光の微粒子が盛大に辺りから生まれ、集まってくる。黄金の輝きが手を覆う――――。


 一里半。白い光が平地の上でふくらみ、視界を埋めてから、何事もなかったように引いていく。輪の縁で、草が焦げもせずに立っている。国境の帯が、輪の北の縁にちょうど触れて、それより向こうは何も動かない。空と草だけが、さっきまでと同じ色をしている。


 一万は、旗ごと無くなっている。倒れた者も、逃げた者もいない。血も、土煙も、折れた槍も残らない。輪の中にいたものが、輪の中から抜き取られただけである。あまりにきれいな空白が、かえって目をそらさせてくれない。


 地面の鼓が、止まる。止まったあとの静けさは、いつもより厚い。耳の奥にはまだ足音の形だけが残り、わたくしの呼吸を内側から押し返す。厚さは、たぶん数の分だけある。


 輪の南西のほう、縁までは届かないあたりに、サンス村があった。いまは、道の形だけが残っている。行き先を失った道は、草の中で不自然に途切れて見える。八十四人は、荷を積んだ荷車とともに街道の上で、それを見ている。泣き声はまだなく、風が荷車の金具を鳴らす音だけが届く。


 わたくしは背中を向けない。向けたら、数えなかったことになる。消したものを目に入れたまま立つことだけが、いまのわたくしにできる。まばたきをするたび、道の形が消えてしまいそうで、目を閉じることもできない。


「お嬢さま。……お戻りに」


「はい。もう少し」


 フェリシーの足音が、少し離れたところで止まる。近寄りもしない。去りもしない。風の中に、その距離だけが静かに残る。


       ◇


 三の冷めは一日半である。指先から体の奥へ、見えない冷たさがゆっくり沈み、今日の夜だけでは終わらない。


 その晩おそく、厨の卓に紙が一枚、広げたまま置いてある。灯りの下で、書きかけの墨だけが濡れて光っている。三、という字のところで止まっている。筆はまだ、フェリシーの手の中にある。穂先に墨のしずくがふくらんで、紙へ落ちるのを待っている。


 フェリシーは、その前に座って、動かない。うつむいた横顔の影が、紙の上へ細く落ちている。わたくしは通り過ぎる。何も言わない。明日の朝には、たぶん、封がしてある。分かっていて遠ざかる自分の足音が、厨の暗がりでやけに大きい。


 その夜、扉の外に足音が止まって、朝になっても去らない。交代の声もしない。鎧の擦れる音の間隔で、誰が立っているかは分かる。眠りへ沈みかけるたび、その音が、まだいる、と暗がりへ小さな印をつける。


 手を、こちらへ。


 そう言えばいいのに、わたくしの口は、数を言うときにしか、はっきりしない。喉の一番手前にあるのは、いつも数で、その後ろに来た言葉は、順番が回る前に息へほどけてしまう。扉の向こうの気配が近いほど、声は奥へ引っ込んでいく。


 夜半、厨から上がる裏の階段のほうで、板がきしむ。ひそめた足音が近づき、扉が肘で押し開けられて、コランが入ってくる。灰をかぶった赤茶の髪が、燭台の火で錆びた赤になり、壁へ揺れる影を落とす。表の扉の外の足音は、動かない。


「入るなって言われたけど」


「……砕けます」


「砕けないって。前も平気だったし」


 小さな手が、手袋の上から、わたくしの手を取る。革がきしみ、その向こうにある指の形を、鈍い熱がゆっくり教える。革ごしの熱が、遠い。それでも、触れられている場所だけは、はっきり分かる。


 わたくしは手袋を外した。冷えた空気にさらした掌の上へ、コランの掌が置かれる。逃げる間も、ためらう間もないほど、まっすぐな触れ方である。


 砕けない。子どもの温さで、少し湿っている。かすかな脈が、触れたところからわたくしの指へ伝わってくる。わたくしの掌は、たぶん、氷の裏側の温度をしている。それでも、その手は引かれず、温さはそこに居続ける。


「手が、あったかいですね」


「あんたが冷たいだけだよ。きゃははは」


 言われて、わたくしは黙る。何か返そうとして、数のかたちをしていない言葉が喉のところで詰まり、そのまま息になる。掌の熱だけが、ゆっくり手首のほうへ上がってくる。それがどこまで上がるのか、黙ったまま待つ。


 コランが、手を重ねたまま、窓のほうへ顎をしゃくる。


 北の空の低いところで、光が一度、ふくらんで消える。遠い雲の腹が白く染まり、消えたあとも、目の奥に形だけが残る。重ねた掌は温かいままなのに、背中の奥へ冷たさが走る。わたくしが出した三と、同じ形だった。


「……ほら。あっちにも、いる」


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