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3. 毎朝、わたくしが引き算をしております

 六の月五日。夜明け前。


 わたくしは、夜明け前の冷えた机に広げた地図へ、錘を置く。鍋底(なべぞこ)の谷。〈鴉ノ喉〉の東へ二里、山肌が深く落ち込み、すり鉢の底のようになった窪地である。窓の外がまだ白みもしないうちに、魔獣の群れが夜のうちに湧いた。


 錘に紐を結び、地図の上へ静かに広げる。半里。できあがった輪が、谷を冷たく囲んでいる。


 窪地は、輪を引くのがいちばん楽な地形である。縁が初めから地面に描かれているようなものだから、手は迷わない。迷わない朝ほど、あとがよくない。それは、紐を引く音の軽さで分かる。


「輪にかかるのは、サンス村の南の端。八軒でございます。村ぜんぶで、八十四人。牛が十一頭」


 フェリシーが読み上げる声は、夜明け前の薄い空気よりも細い。紙の端を持つ指にだけ、力がこもっている。


「……端だけですか?」


「はい。南の八軒だけが、線の内でございます」


「では、村ごと出します。八軒だけ出して、残りを線の外の数として置くことはできません」


 村の人は、隣の家が消える朝に、自分の家だけで朝を迎えたりはしない。荷を分け、子を抱き、最後まで隣にいる。それだけの話である。そう言い切ってしまわなければ、輪を引く手が止まる。


 フェリシーが紐を村の端へ寄せて、輪の線を引き直す。その指先が、ほんのわずかに揺れていた。けれど線は動かない。線は、動かせるものではない。動かせるのは人だけである。


 そして八軒は、動かせない。柱も屋根も、そこで重ねられた暮らしも、荷車には載らない。


「牛のほかには?」


「猫が、幾匹か」


「猫は数えません」


「猫だって半里の中にいるじゃん」


 コランが寝床から首だけ出して言う。眠たげに細めた目の下で、前歯の欠けたところから抜けたあくびが、笛のような音になる。


「猫は、逃げます。人は、逃げません。人は、置いていくものを数えてから逃げます」


 地図の上に指を置くと、その下には輪と、村と、道がある。わたくしがしているのは足し算ではない。毎朝、輪の内側から人を引いていく引き算である。ぜんぶ引けたら、その数を出す。引けなければ、出さない。それだけの仕事を、六年している。けれど、慣れたと思えた朝は、まだない。


「間に合わん。三を出しなさい」


 地図の間を出て広間へ向かう途中で、ボーメール卿に呼び止められる。夜明け前に館まで来ていたらしく、外の冷気を肩にまとったままである。鉄色の髪は、まだ寝癖のまま硬く立っている。


「三はもっと悪うございます。一里半なら、村は輪のまん中でございます」


「まん中なら、逃げる先も遠い、と申すか?」


「はい。二なら、村人は半里で出られます」


「三刻かかるぞ」


「三刻で出します。半刻で村へ参ります」


 卿は短く舌打ちをする。その音の奥にあるのが怒りなのか焦りなのか、わたくしにはわからない。やがて、行け、とだけ言う。


 あれは、いつまで数えていられるのかね。うしろでそう言う声が聞こえた。背中へ冷たい針を当てられたような気がしたけれど、返事はしない。振り向けば、自分まで数の中へ入ってしまいそうだった。


 朝。廊下を折れると、厨の窓のところにフェリシーがいる。封をした紙を、窓の外から差し出された手へ渡している。顔の見えないその手は、紙を受け取ると、朝の薄明かりの中へすぐ引っ込む。


「お待たせいたしました。馬の支度が」


「……はい」


 わたくしは訊かない。訊けば、答えがここで出てしまう。出た答えを数えずにおく自信はなかった。返事のかわりに、馬小屋で馬の腹を蹴り、走り出した風の中へ問いを置き去りにする。


       ◇


 サンス村は、三刻で空になった。戸口は開いたまま、消えかけたかまどの煙だけが、誰もいない家々のあいだを低く流れている。


 わたくしは家の戸を一軒ずつ叩いて、名前ではなく人数を訊く。何人ですか。四人。五人。二人と、寝ている子が一人。牛は。十一頭。手押し車は。三台。答えが返るたび、頭の中の村から人が引かれていく。


 声が少しずつ枯れてくる。喉の奥が、数を出すたびに薄く削られていくようである。それでも数だけは、いつも喉の一番手前にある。人の名前は、その奥の、うんと遠いところへ、傷つけないようにしまってある。


 母は逆だった、と思う。母は名前のほうを先に出す人で、そのぶん、数をよく間違えていた。間違えるたびに笑って、笑ったまま十四年、一より上を出さずに済ませている。あの笑い方だけは、六年たっても真似ができない。真似ようとすると、舌の付け根が重くなる。


 五軒目で、赤ん坊を抱いた女が出てくる。女の腕に包まれた小さな顔が見えた途端、抱いているのが一人ぶんなのか二人ぶんなのか、一瞬わからなくなり、わたくしは訊き直す。二人です、と女が言う。その声を聞き終わるより先に、二人ぶん、引く。


 訊き直したことを、わたくしは覚えておく。忘れてしまえば、同じところでまた間違える。数え違いは、いつも自分の疲れから始まる。


 レニエ卿は何も言わずに、麦の袋を荷車へ積んでいる。肩に粉がついても払わず、助言もしない。この方は、わたくしの数字を一度も訊き返さない。疑われないことは安らぎではない。訊き返されないというのは、思っているよりずっと重い。


「八十三」


 最後に村の外れの柵の前で、わたくしは自分の指を折り直す。こわばった指の関節が、戻すたびに小さく痛む。


「一人、足りません」


 風が止まる。誰も動かない。牛の荒い鼻息さえ、ひどく遠く聞こえる。八十三と八十四のあいだの一人が、この村のどこかで、何も知らずに寝ている。


 日は、もう真上に近い。あと半刻で、谷の獣は村の柵まで下りてくる。急げと身体のすべてが叫んでいるのに、八十三で出すことはできない。八十四で出すか、出さないかの、どちらかである。


 柵の向こうでは、麦が風の通った形のまま倒れている。その重なった穂の下に人がいるのかどうか、麦は何も教えてくれない。見えないものを信じたくても、教えてくれないものを、わたくしは数に入れられない。


 喉が、音もなく干上がっていく。舌が上あごに貼りつき、息を吸うたび、背中のほうが狭くなる。この乾き方を、わたくしは知っている。数が合わない朝の乾き方である。


「いたぞー! 耳、遠いんだって、この人!」


 コランが、揺れる麦の陰から老人の袖を引いて出てくる。裸足の足は泥だらけで、息は切れているのに、見開いた目だけはまっすぐこちらを向いている。


「ジョスさん。肘をお借りします。歩けますか?」


「……なんで、わしの名前を」


 答えないまま、わたくしは老人の肘を持つ。遠いところへしまっていた名を呼んでしまった熱が、まだ唇に残っている。掌では持たない。肘の骨は細く、上着ごしでも角がはっきりとわかり、力を入れれば折れてしまいそうである。


 柵から街道までの道を、村の人たちが長い列になって歩く。荷を負った背中、土を踏む靴、牛の尻、手押し車の軋み。誰かを呼ぶ声と、眠そうな子の泣き声が、乾いた道に重なる。その列の長さを、わたくしは目で測る。列が輪の線を越えた瞬間が、今日の答えである。


 昼。八十四人と牛十一頭が、輪の外の街道に並んだ。照り返す光の中で、どの顔も汗と土に汚れながら、確かに息をしている。


「〈二〉で参ります」


 谷が消える。音も風もなく、大地からそこだけが抜き取られ、すり鉢の縁のところでは草が焦げもせずに立っている。ついさっきまで谷だった場所へ、空の明るさだけが深く落ちている。


 獣の声が、途中で切れる。遠吠えも、地を蹴る音も、息を吸う間さえ与えられずに途絶える。切れたあとの静けさが、耳の奥を内側から押し、自分の鼓動だけをひどく大きくする。


 輪の縁は、村の南の八軒をまっすぐ通っていた。八軒は、いま無い。屋根の形をした空白が八つ、切り取られた暮らしの跡のように、地面の上へ並んでいる。


       ◇


 村へ戻ると、誰もわたくしを見なかった。家のなくなった場所を抜けてきた風だけが、遮る壁を失い、道の上を冷たく走っていく。


 八軒ぶんの家族は、道の上に荷を置き、肩を寄せて座っている。誰も泣いていない。膝の上で重ねた手が、ただ動かないでいる。泣くのは、たぶん、もっとあとである。


 礼を言う人はいる。深く頭を下げる人もいる。ただ、目だけが合わない。八十四人ぜんぶの目が、わたくしの手袋のあたりで止まり、何かを恐れるように、それより上へ来ない。


 礼の言葉だけが、正しい高さで返ってくる。助かったという言葉は耳へ届くのに、その目は、消えた家のほうへ落ちたままである。言葉と目の高さが合わないのを、わたくしは八十四回ぶん、順番に受け取る。


 道の分かれ目にある井戸のふちへ腰かけて、わたくしは自分の喉をゆっくりさする。八十四という数が、細かな砂のように、まだ舌の上でざらついている。今日いちにちで、この数を何度言ったのか、それだけは数えていない。


 井戸の水は、誰にも汲まれないまま、底で暗く光っている。わたくしは覗き込まない。手袋の手ではつるべの縄も満足に引けないし、覗けば、疲れも安堵も隠しきれない、灰のかかった青い目がこちらを見返してくるからである。


「お嬢さま。あの、村の方が、これを」


 フェリシーがためらいがちに差し出したのは、麦の穂を一本、紐で結んだものだった。日に温められた穂の根元には、ほどけないよう、赤い糸が丁寧に巻いてある。


「どなたから?」


「……名乗られませんでした」


 手袋に包まれた指では、細い穂の先がどうしても摘まめない。フェリシーが何も言わず、そっと袖の内へ入れてくれる。入れてもらったことに少し遅れて、胸の奥のほうが温かくなる。そのぬくもりに気づいてしまうと、今度は目の奥がかすかに熱くなる。


 その晩。冷めは一日である。指の曲がらない手袋をしたまま、わたくしは長いこと窓の外を見ている。夜の闇に沈んだ袖の内で、麦の穂の軽さだけが、消えずに残っている。


 王城から使いが来る。差し出された書き付けをフェリシーに開いてもらうと、卿の急いだ字でこうある。


「〈鴉ノ喉〉に、また巣ができた。そなたが二で消した場所だよ」


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