2. 一で足りた日のことは、申し上げません
六の月四日。朝の地図の間で、わたくしは手袋のまま立っている。窓から差す薄い光が地図の川筋を白くなぞり、革の内側では鉛の重みが掌を眠らせている。
昨日の二が、まだ体の奥に沈んでいる。冷めるのは昼である。それまでは、どれほど声を張っても、わたくしは次の数を宣言できない。つまり今日、昼までのこの国には、〈段〉が一つも無い。地図に引かれた国境だけが、いつもより頼りなく見える。
窓の外で、荷車が門を出ていく。乾いた車輪の音が、朝の静けさをゆっくり遠ざかっていく。何も知らない音である。国に段が無い朝ほど、外の音がよく聞こえる。この半日を、わたくしは毎回どこかで買っている。買った代金は、今日どこかで誰かが払うのかもしれないし、払わずに済むのかもしれない。それは夕方にならないと分からない。分からないまま待つ時間だけが、足もとに重く溜まっていく。
窓枠に肘をついて、わたくしは門のほうを見ている。肘は使える。掌が使えないだけである。この区別を、体は六年かけて覚えている。頭で考えるより先に、掌だけが世界から遠ざかる。
「街道の件、ボーメール卿から二度目の使いが参りました。『今すぐ出よ』と」
「出られません。まだ冷めておりませんので」
「そうおっしゃられたら『冷める刻限を書いて寄越せ』と」
「昼でございます。そう伝えてくださいませ」
フェリシーが唇を噛む。三つ編みの巻きが、今朝はきれいに留まっている。留まっている朝は、この人が早く起きて、一度ほどいて結い直した朝である。髪には乱れがないのに、噛んだ唇の色だけが消えていく。
「……あの、お嬢さま。使いの方が、もうひとつ。『昨日はほんとうに二が要ったのか』と卿が」
わたくしは地図を見たまま答える。フェリシーの顔を見れば、問いの奥にあるものまで見えてしまいそうで、紙の上の細い街道から目を離せない。
「一で足りた日のことは、申し上げません」
そのままお伝えください、と付け足す。声をやわらげたつもりでも、喉の奥には、まだ言い切った言葉の角が残っている。
「でも」
「フェリシー。今日の輪を引いてくださいませ」
声が、思ったより硬く出た。硬く出たことにも、半日ほど遅れて気づくのがわたくしの癖である。相手が目を伏せてからでなければ、自分の言葉がどこへ刺さったのか分からない。
昼。指先から順に、体の芯が自分のところへ戻ってくる。冷えていた血が細い流れになって、指の節まで満ちていくようである。手袋を外すと、掌がぬるい。他人に貸していたものを返してもらったような、へんな軽さがあり、指を曲げるたびに腕のこわばりまでほどけていく。この軽さが来るまで、わたくしはこの国のどこへも行けない。
掌を、机の木目に押しつけてみる。木は木のまま、ひやりと掌を押し返しながら、そこにある。砕けない。砕けないことを確かめる癖も、六年ぶんある。確かめ終えるまで手を離せないことも、もう癖のうちである。
◇
昼過ぎ。街道から早馬が来る。馬のひづめが門の内で止まり、荒い息をする使いが地図の間へ駆け込んでくる。〈灰喰い〉の群れが、荷馬車の列を挟んで動かない、と。
隊商は十一人。半里の輪の内側である。地図の上では爪ほどの道幅なのに、そこへ命を置いた瞬間、輪だけが急に狭くなる。
「二は出せません。人が入っております」
わたくしが言うと、レニエ卿が地図の街道へ指を置く。節の浮いた指先が、紙に引かれた細い線を隠す。その手に迷いはないのに、押さえられた場所だけが問いのように見える。
「では退がらせます。半刻で」
「街道は、そこだけ両側が崖です。退がる道がありません。荷馬車は横へ抜けられません」
早馬の使いが、息を切らしたまま首を振る。肩から落ちる土ぼこりが地図の縁に散り、レニエ卿の指が、地図の上で止まる。道が無いという言葉の重さだけが、部屋の空気を沈めている。
「……では」
「一で参ります。一の届く先は、腕の届くところまでです。前に出るのは、わたくしです」
レニエ卿がわずかに顎を引く。反対の形ではない。わたくしが前に出ることを、止めも励ましもしない。その静けさに、張りつめていた肩がほんの少しゆるむ。
「承知。私が左に付きます」
わたくしは声を張る。顎を上げると、うなじで結んだ髪が背に触れる。風の強い日に、母がそうしていたように。母の声は、いつも風より一枚だけ厚かった。幼い耳に残ったその厚みを、いま自分の喉の奥から探し出す。
「一段」
声が届く必要はない。わたくしが言えばそれでいい。詠むことも、印を結ぶこともない。たったそれだけなのに、言い終えるたび、体のどこかを一枚だけ置き去りにするような寒さが走る。
レニエ卿が剣を抜き、切っ先をこちらへ向ける。窓の光が、刃の上を白く滑る。〈立ち合い〉である。声だけでは、上がったかどうかを外から確かめられない。だから王国は、一を見分けられる者の刃で確かめることにしている。いまその役はレニエ卿である。一を宣言した日だけ、これをやる。二から上は、触れた相手が消えるので、誰にも確かめようがない。確かめてもらえるこの目盛りであることが、今日はなぜか救いに思える。
一合。
打ち合わせた瞬間の音は、鐘に似ている。低いところで一度鳴り、石壁のあいだを渡って、それからゆっくり金色に薄くなっていく。体の奥まで静かになるこの音を聞くために立ち合っているのだと、たぶんこの方も、わたくしも、口には出さない。言葉にすれば、音より先に何かが壊れそうである。
鉄と掌が噛み合い、衝撃が手首から肩まで、まっすぐなしびれになって抜けていく。息が上がり、剣を受けた掌だけが、生き物のように熱い。レニエ卿の切っ先は、いつも髪一筋ぶんだけ遅れて来る。六年、ずっとそうだ。
その髪一筋を、わたくしは一度も口にしたことがない。口にすれば、この方は次から本気で来る。本気で来て、それでも遅れたら、この方はもう、わたくしの前に立てなくなる。黙っている理由を、わたくしはまだ数えていない。数えていないものは、勘定に入れない。
「――結構。宣言どおりだ」
卿が笑う。口元だけではない。この方が本気で笑うのを、わたくしは年に一度か二度しか見ない。笑うと、こめかみの剃り跡が少しだけ動き、いつも固い横顔までふいにやわらぐ。その笑みが、わたくしの力を正しく受け取った印のように見えて、上がった息が少しだけ楽になる。
「あなたの一段は、私の全部と同じ重さだ」
「はい。ですから、二人で参りましょう」
◇
街道へ着くころには、日が傾きかけている。崖にはさまれた細い道へ斜めの光が差し、荷馬車を覆う布と、舞い上がる灰を鈍い色に染めている。
灰喰いは、灰の色をして、灰の匂いがする。背を低くして動くたび、毛の隙間から粉がこぼれ、地面の色と獣の輪郭が混ざり合う。国境の帯の灰を食べて増える獣で、こちらへ下りてくるのは、向こう側で灰が減ったときだけだと言われている。今年は、下りてくるのが早い。その早さが、朝から抱えていた空白へ冷たい形を与える。
群れの中では、灰と獣の匂いが混ざって喉に貼りつく。息を吸うたび、細かい砂が喉の奥へ降り、舌の上までざらつく。獣のうなり声と荷馬車のきしむ音が崖に跳ね返り、どちらが前から来る音かも分からなくなる。
荷馬車の陰で、隊商の子どもが二人、荷布をかぶってうずくまっている。布の端から、泥で汚れた指だけがのぞく。輪の内側の十一人のうちの、二人である。数えたぶんだけ、体が前へ出る。怖いからではない。この小さな背中を数の内側へ残したまま、退くことのほうが怖い。
わたくしは殴る。それだけである。治すことも、防ぐことも、遠くから消すこともできない。腕の長さの範囲に入った者は断末魔の叫びをあげ、消えていく。ただ、近いぶんだけ、相手のダメージが伝わってくる。毛の下の固さも、拳へ返る重みも、ごまかしようがない。近いというのは、砕ける音が空気ではなく体の中で鳴るということで、六年経っても、そこだけは慣れない。慣れないままの自分が残っていることに、ほんの少しだけ、ほっとする。
左から一頭が回り込む。灰を蹴る爪が視界の端で光る。振り向くより先に、鉄の鳴る音がして、それが逸れる。レニエ卿である。左の気配が、はじめから約束どおりそこにある。
「後ろは見なくていい」
「はい」
わたくしは加減をしない。前だけを、力いっぱい殴る。拳に返る痛みも、熱い息も、いまだけは出し過ぎを知らせるものではない。
六年で、こういう半刻は数えるほどしかない。輪も、紐も、頭数もいらない半刻。手が届く先にしか力が届かないというのは、こんなに気楽なことなのかと、殴りながら思う。届くものだけを守ればよく、届かない場所まで傷つける心配がない。その狭さが、いまは空より広い。
誰かが横にいて、その誰かを壊す心配がない。それだけのことが、こんなに息をしやすい。レニエ卿の剣が鳴るたび、振り向かなくても背中の力が抜けていく。
終わってから、わたくしは荷馬車の前へ伸びた柄を自分で引いた。湿った木が掌へ食い込み、泥に沈んだ車輪が重くうなる。車輪が泥から抜けるとき、隊商の女が小さく声を上げる。その驚きに、わたくしは、いまの手が壊すだけでなく引き上げることもできるのだと思い出す。
「お嬢さま、そんなことは」
「現場にいるうちは、これができますので」
車輪の下の泥に、釘が一本落ちている。
「これは……?」
夕日を受けた頭に、見たことのない刻印がある。指で拾い上げると、鉄の冷たさが、まだ一段が残る掌へ、はっきりと伝わる。戦いの熱がそこだけ薄れ、背の内側を細い不安が走る。
「……嬢さま。それ、どこのですか?」
「わかりません。お預かりします」
国境の向こうの字である。そう言えるのに、そう言わない。言葉にすれば、ようやく戻った息の中へ、新しい恐れを落とすことになる。言えば、この人たちは今夜眠れない。眠れない夜を配って歩くのは、わたくしの仕事ではない。けれど、黙って釘を握る掌の冷たさまで消えるわけではなかった。
◇
夕。一段の冷めは半日である。現場を離れた掌はもう世界へ触れられず、わたくしは手袋をして、湯呑みを見ている。器の縁に灯りが細く揺れ、手を伸ばせば届く距離だけが、ひどく遠い。
湯気だけが、顔にあたる。温もりは頬まで来るのに、指先へは届かない。飲みたいときに飲めないのは、思っていたより退屈なことである。けれどその退屈は、欲しいものを欲しいと言わずに済ませてきた時間に、少しだけ似ている。
「湯は、お運びできません。……冷めた粥なら」
「……お願いします」
言ってから、自分で少し驚く。昨日は断った。今日は断らない。たったそれだけで、肩の裏に固く結んでいたものが、音もなくほどけた気がする。
フェリシーが匙で掬って、わたくしの口へ運ぶ。匙の先の粥は冷めているのに、唇へ触れると不思議なほど温かい。運ばれるのは、六年で三度目である。目の置き場が分からず見上げた天井には、梁の節が七つある。こういう晩に覚えてしまったものは、きっと忘れにくい。
「ねぇ、あんた。今日、笑った?」
厨の窓からコランが顔を出す。灰をかぶった赤茶の髪が、夕日で錆びた色になっている。目だけがこちらをまっすぐ見ていて、見られたくないものまで見つけられそうで、わたくしは匙の先へ視線を落とす。
「いいえ」
「ふうん」
湯呑みの中で、湯気の筋がまっすぐ立ち、途中で折れる。折れたところから先は、もう見えない。見えなくても、温かさだけは頬に残っている。
コランは釘を指でつまんで、灯りに透かしている。刻印の溝に光が溜まり、子どもの横顔へ細い影を落とす。この子は、こわいものの前でだけ、指先が器用になる。いつもの軽い声が来るまでのわずかな沈黙に、刻印の形が掌によみがえる。
「ねえ。この字、こっちのじゃないよね?」
「はい。向こうの字です」
「あっちにも、数える人がいるんじゃない?」
「……え?」
わたくしはそんな想像もしてなかった話に、しばし動けなくなった。




