1. 今日は〈二〉で参ります
六の月三日。夜明け前の地図の間には、まだ夜の冷えが沈み、灯り油の匂いが薄くこもっている。
この匂いを、わたくしは六年かいでいる。十二の年の朝、母が使っていた燭台に初めて自分の手で火を入れて以来、毎朝、同じ匂いに包まれながら数を決めてきた。けれど、慣れない。指先は今も、火をともしたばかりのあの日のように、わずかにこわばる。慣れないからこそ、また朝が来たのだと分かる。
わたくしは机いっぱいに広げた地図へ、鉛の錘をひとつ、音を立てないように置く。王都から北へ五里、鴉ノ喉の岩山。ゆうべ、竜が三頭、黒い影を重ねるようにそこへ巣を作った。
錘に麻紐を結び、紙の上へゆっくり輪を描く。半里の輪。〈段〉の二が届く先である。
紐の先が乾いた紙をこする、かすかな音だけが部屋を満たす。この音が続くあいだは、まだ何も決まっていない。誰を残し、何を消すのかも、まだ決まっていない。その短い猶予にだけ、わたくしは肩の力を抜いて、長く息を吸える。
「輪の内側に、羊飼いの小屋が三つ。七人です。道は東へ下る一本きり。もう一本、一里半の輪を引きますと、南の麓の炭焼きが入ります。ロドリグの一家、四人」
フェリシーは、遅れたぶんを声で取り戻そうとするように、息を継がず読み上げる。頭に巻いた三つ編みは、急いで走ってきたせいで片側だけほどけ、栗色の髪が頬に貼りついている。この人は、走ってきた朝ほど早口になる。焦りを隠そうとすると、語尾だけが妙にていねいだ。
「あの方たちは、先の月にお願いして、断られておりますね」
わたくしがそう確かめると、フェリシーは唇をきゅっと結び、手元の紙を繰る。紙のこすれる音が、二度。返事を探すように、短く鳴る。
「……はい。窯の火を落とすと窯が割れて、一年ぶんの炭が消える、と。麓は山陰で、北風の当たらぬところだから、窯には一等よい、とも」
「七人を、半刻で外へ出せますか?」
「出せます。荷は置いていただくことになりますが」
「では、今日は、二までにいたします」
この一言は、この部屋の外へ出さない。上限を先に明かせば、さらに上を求める人が、その上へ届かせるための勘定を始めるからである。そこで数にされるものが、誰かの暮らしだとは考えずに。
わたくしは麻紐をほどき、きっちり巻き取る。指の腹には麻の毛羽が刺さり、細かな痒みが残る。その消えない違和感が、今日という一日のぜんぶを、まだ始まってもいないうちから告げている気がする。六年、毎朝、この痒みから始まっている。数を決めるのは、いつもこの部屋、この匂いの中である。わたくしだけが迷ってよい時間は、紐を巻き終えるまでしかない。
◇
王城の一の間。高い窓から差す朝の光はまだ青く、軍務卿のボーメールは地図には目を落とさず、わたくしをまっすぐ見る。左目の下を走る古い縫い跡が、灯りの揺れるたび、深い溝のように沈む。
この方は、こちらの目を見て話す数少ない人である。宮廷の大半は、わたくしの手のあたりへ視線を置き、そこにいる得体の知れない何かへ話すように言葉を選ぶ。目を見られることに安堵する自分と、見透かされるようで身構える自分が、背筋のあたりで静かにせめぎ合う。
「ヴィオレーヌ・ド・ヴェルニュ。三で行きたまえ。竜は場所につく。場所が残れば、また来る」
「三の届く先は、一里半でございます。麓に、炭焼きの一家が四人。あの方たちは、窯を置いては動きません」
卿の指が、机の同じところを二度、乾いた音で叩く。数を惜しんでいるとき、いつもこうする癖である。その音が鳴るたび、地図の上の命まで硬い駒に変わっていく気がする。
「四人だ。退去させたまえ。半刻で歩ける距離だろう?」
「歩けます。歩きたくないと言っておられます」
「そなたは、それで数を下げるのか?」
「はい。下げます」
儂は反対せぬ、とだけ言い残し、卿は軍服の裾を揺らして背を向ける。この方はいつも、反対しないと言ったあと、次の日にまた同じことを言う。咎めるのではなく、わたくしの答えが揺らいでいないか、古傷を指で押すように確かめる。
広い背中が扉の向こうへ遠ざかるのを見送りながら、わたくしは掌を強く握り、それからゆっくり開く。四人。口にすれば、短い息で消えるほど軽い数だ。軽いから、みんな軽く扱う。けれどその内側には、食卓も、眠る場所も、明日の火もある。わたくしの掌には何も残らないのに、その重さだけが皮膚の下へ沈んでいく。
◇
朝のうちに、わたくしは早馬で〈鴉ノ喉〉へ発つ。城門を抜けるころ、東の空はようやく白み始め、夜露を含んだ風が頬を薄く切る。
やがて風が立ち、広い草原の草がぜんぶ同じ向きに身を伏せる。岩山は遠くからなら、草の海に浮かぶ牛の背に似ている。けれど近づくほど、その姿はほどけていく。目の前にあるのは、空を押し返すような灰色の面がひたすら立ち上がるばかりで、もう何に似ているとも言えない。
わたくしは麓で馬を降り、自分の足で斜面を登る。半里の紐を張り、風に引かれる輪の縁を確かめながら歩いていく。地図の上では三つ目の小屋が線の外に見えていたのに、実際には井戸の分だけ内側へ食い込んでいる。水を汲むために踏み固められた土まで、輪は容赦なくのみ込んでいる。
内。
地図は嘘をつかない。けれど、地図は井戸を書かない。朝ごと水を汲む手も、その水で作る食事も、紙の上には載らない。だから六年、わたくしは自分の足で縁を歩くことにしている。靴の底から、小石の角や土のやわらかさがひとつずつ伝わってきて、その感触が数に人の重さを戻してくれる。
「すみません。半刻だけ、東の道を下りていただけますか? 鍋と、羊だけ連れて」
羊飼いの老人は、わたくしの顔ではなく、はめた手袋へ視線を落とす。指を見る人は、たいてい、噂を知っている人である。恐れと頼みが混じった目は、触れれば傷つくものを見る目に似ている。
「……嬢さまが、あれを、やんなさるので?」
「はい。わたくしが、やります」
「小屋は?」
「小屋は、外へ出せません。輪の外へ出せるのは、人と獣だけでございます」
老人はしばらく黙り、働き続けて節の太くなった指で鍋の取っ手を握り直してから、東の道へ足を向ける。歩き出す直前、一度だけ振り返って小屋の戸口を見る。その目には、置いていく物へ別れを告げるには短すぎる時間がにじんでいる。戸口の敷石は、真ん中がくぼむほど擦り減っていた。何十年ぶんの足がそこを通り、帰ってくるたび、この小屋を家にしてきたのだ。
麓で待っていた騎士団長は何も言わず、老人の荷へ手を伸ばして担ぐ。右のこめかみには、古い剃り跡が白く残っている。この方はいつも役職しか名乗らない。名乗らないまま、六年、わたくしが救えない物の重さまで引き受けるように、黙って荷を担いできた。
昼。雲の切れ間から落ちる光が岩肌を白く照らす。羊が最後の一頭まで東の道を折れ、鈴の音が輪の外へ渡ったのを見届けてから、わたくしは手袋を外す。掌を岩山へ向け、指先の震えを包み隠せないまま開く。
風がむき出しの掌にあたる。冷たさが細い指のあいだを抜けていく。この一瞬だけ、わたくしの手は、何も奪わず、何も壊さない、ただの手である。
二。上には、まだ八つある。八つのことを思えば、指の先から順に熱が引いていく。
「今日は――〈二〉で参ります」
シュオォォォ……。
黄金の光の微粒子が辺りから生まれ、手に集まってくる。やがて手は黄金の輝きに包まれた――――。
まず、音が消える。風も、草のざわめきも、遠ざかる羊の鈴も、耳の奥からすっと奪われる。それから岩山が、上から順に無くなっていく。煙も上がらず、破片も飛ばない。ただ、そこにあったものの形だけが、見えない大きな手で空から静かに抜き取られていく。
半里。輪の縁では、草が焦げもせず、さっきまでと同じ姿で風を待っている。縁の内と外で、世界は少しの乱れもなく二つに切り分けられ、切り口には焦げも裂けも残らない。そのあまりのきれいさが、いつも、いちばん怖い。壊した跡さえ見えないから、わたくしのしたことだけが夢のように浮いてしまう。
岩山のあった場所には、遮るもののない空が口を開け、北風がまっすぐ南へ抜けていく。草はゆっくり身を起こしたかと思うと、今度はさっきとは違う向きへ、見えない掌で撫でられるように寝ていく。
小屋も三つ、岩山といっしょに無くなった。けれど、人は七人とも道の上に立っている。わたくしはその二つを、いつも別々に数える。輪の外へ出せるのは人と獣だけで、家は出せない。家は数える。戸口のくぼみも、炉に残る匂いも、そこで重ねた朝も数える。それでも、数えた家を引くことはできない。
出ると言った七人と、出ないと言った四人。その違いだけが、今日の二と三を分けている。命の重さではなく、歩くと答えたかどうかで決まった境目が、掌の内に細い棘のように残る。
「今の、二でしょ。ほんとは一で足りたのに」
いつのまにか、厨の使いっ走りの小僧、コランが岩の上に腰を下ろしている。裸足のかかとを岩へぶつけ、乾いた音を鳴らしている。前歯の欠けた隙間を風が抜けるたび、笛のような細い音がする。その無邪気な横顔だけが、消えた岩山よりもはっきり目に刺さる。
「おれ、見えるもん。二の色と一の色、ちがうし」
「そうかもね」
「ねえ。なんで一って言わないの?」
一で足りた。そのことは、どなたにも申し上げていない。喉より奥、声にならない場所に、口にすれば何かが崩れると知っている秘密が、冷たい石のように沈んでいる。コランの言葉がそこへ触れ、見えない波紋だけを静かに広げていく。
コランは答えを待たない。問いを投げたことさえ忘れたように、裸足のつま先で宙を蹴っている。待たないので、わたくしも答えない。口にできなかった答えだけが、六年ぶん、胸の内に薄い層を重ねている。いつか息ができなくなるほど積もるのかもしれないと知りながら、それでも今日のわたくしは黙っている。
◇
二を出した日は、まる一日、力が冷めるのを待つ。陽が傾いても夜が来ても、使った力の冷たさが体の内側に残り、掌だけが自分のものではないように重い。
現場を離れてから冷めるまで、わたくしの素手が触れたものは、形を保てず砕ける。だから館へ戻ると〈段の手袋〉をはめ、両手を後ろで組む。掌に鉛の板を縫い込んだ革の手袋は、ひどく厚く、指がほとんど曲がらない。冷めるまで、外すこともできない。無理に指を組めば、指どうしの熱が革ごしにぼんやり戻ってくる。その鈍いぬくもりだけが、今日いちにちに許された、人肌の代わりになる。
「お嬢さま、お食事を……あ、いえ、その」
フェリシーが盆を胸の前に抱えたまま、戸口で足を止める。湯気の向こうで、申し訳なさそうに眉が下がる。匙は持てない。砕けるからではなく、この指ではうまく摘まめないからである。香ばしい匂いだけが、手袋の届かないところからやさしく寄ってくる。
「置いておいてくださいませ。明日の昼にいただきます」
「……はい」
「扉は、肘で開けます」
言ってから、余計なことを言ったと思う。この人はもう知っている。知っているのに毎回言ってしまうのは、わたくしが自分に言い聞かせているからである。まだ自分で扉を開けられる。まだ大丈夫だ、と。言葉にしておかなければ、誰にも触れられない夜の中で、自分の輪郭まで薄れてしまいそうになる。
誰にも触れられないというのは、痛いのではない。ただ、体の表面がどこにも置けず、ずっと余っているように感じる。袖にも、襟にも、椅子の背にも、いつもより厚い隙間があり、その隙間へ自分だけが取り残されている。わたくしは両手をさらに強く組む。組めば、隙間はいくらか埋まる。
夜。廊下の灯りが扉の下から細い帯になって差し込み、その金色が、外に立つ人の形に欠けている。風の音にまじって、革靴が床を踏む気配が止まる。
「ヴェルニュ嬢。明朝の街道の件、書き付けを置いていく」
昼に羊飼いの荷を担いだ声である。レニエ卿は、決して扉を開けない。扉の板一枚の向こうで、気配だけが、しんと薄くなっていく。
「ありがとうございます」
足音が三歩ぶん遠ざかり、そこで急に途切れる。それきり戻らない。戻らないのに、朝まで、扉の下の光の帯は人の形に欠けたままだった。北の窓がかたかたと鳴り、冷えた空気が壁の隙間から忍び込む。今夜は、風の強い晩である。わたくしはその欠けた形を、しばらく見ている。
書き付けは、フェリシーがわたくしの代わりに開き、読み上げる。紙は軍務卿の字で、力を込めた角ばった線が並んでいる。
「明日、街道に別のものが出る。半里の内側に、隊商が十一人いるがね」




