第九話 火の花嫁
二。火の花嫁、しの。
神、荒ぶりて社を焼く。しの、焼け死ぬ。
この年より、花嫁は神に逆らふべからず。
しのは幸せであつた。
*
朝が来て、わたしは自分が眠っていたことに気づいた。
板の間に日が入っていた。戸の隙間からではない。板壁の節穴から、細い光が何本も差し込んでいる。
起き上がって、わたしは奥を見た。
柱があった。
ただの柱だった。
太くて、古くて、乾いている。昨夜あそこに濃い暗がりがあったことが、嘘のようだった。
わたしは近づいて、手を触れた。
温かかった。
いる。
昼は、こういう形をしているのだ。
「おはようございます」
返事はなかった。
わたしは、少し待って、それから戸を開けた。
*
外に出て、わたしは社を一周した。
昨夜は暗くて見えなかったものが、たくさんあった。
まず、地面だ。
社の裏手に回ると、草の中に石が並んでいた。四角い石が、まばらに、けれど規則正しく。
礎石だ。
いまの社の礎石ではない。いまの社より、二回りほど外側にある。
わたしは、そのひとつにしゃがんだ。
石の面が、黒い。
指でこすった。落ちなかった。染みついている。焼けた跡だった。
前の社は、いまの社より大きかったのだ。
わたしは立ち上がって、いまの社を見た。
小さい。屋根が低い。柱の数も少ない。
七十年前に、宮守の家が一軒で建てたものだ。村は一銭も出していない。
出せるだけのものを出して、これだったのだ。
わたしは、社の壁に手を当てた。
板を張り合わせた継ぎ目に、指を入れる。奥のほうに、指の腹が何かに当たった。
引っかいて、爪の先に木の粉がついた。
粉が、黒かった。
わたしは屈んで、床下を覗いた。
暗くて、よく見えない。目を凝らすと、梁が渡っている。
その梁の下側が、炭になっていた。
焼けた木を、使っている。
燃え残った梁を拾って、削って、新しい社の中に組み込んである。
わたしは、しばらくそこにしゃがんでいた。
金がなかったのだろう。一軒で建てるのだ。使えるものは使ったのだろう。
それだけのことかもしれない。
それだけのことかもしれないけれど。
この社は、焼けた社の骨で建っている。
*
昼のあいだ、わたしは村を見下ろして過ごした。
社の前は少し開けていて、そこに立つと七久里が見える。田があって、川があって、家があって、人が動いている。
豆粒のようだった。
あの中に母がいて、父がいて、姉がいる。
昼の山は、静かだった。
鳴らなかった。
わたしは、そのことに気づいて、しばらく考えていた。
山が鳴るのは、いつも夜だ。寝床に入ってから鳴る。村の者はみんなそう言う。
夜にしか鳴らないものが、この世にどれだけあるだろう。
わたしは、村のほうを見た。
昼は、みんな働いている。
夜は、みんな寝ている。
*
日が落ちて、わたしは社に戻った。
柱のあたりの暗さが、濃くなっていた。
わたしは板の間に座って、そちらを向いた。
「昨夜、伺いそびれたことがあります」
返事はなかった。
「火の花嫁のことです」
暗さが、止まった。
昨夜と同じだった。動いていないものが、止まる。
「しのさま、という方です」
長い間があった。
それから、声がした。
「……しのは、七久里の者ではない」
わたしは、息を吸った。
吉造さんと、同じことを言った。
過去帳にも人別にも名がない娘。よそから来た娘。
「どこから来られたんですか」
「知らぬ」
「ご本人は、言われませんでしたか」
「……買われてきた、と」
わたしは、板に置いた手を握った。
「買った」
「そう言った」
声が、少し変わった。
平らな声だったものが、平らでなくなった。
「あれは、そう言った。うちは買われてきた、と」
うち。
わたしは、その一言を聞いた。
この人は、いま、しのさまの言葉づかいで喋った。
七十年、覚えている。
*
わたしは、膝を進めた。
「疫病は、その前の年に止んでいます」
答えはなかった。
「花嫁は、疫病を鎮めるために送るものだと、村では言います。でも、しのさまが上がった年には、もう死人は出ていません」
答えはなかった。
「なぜ、送られたんですか」
長い、長い間があった。
わたしは待った。
この人の間は、迷っている間ではない。探している間だ。しまいこんだものを、暗いところから引き出してくる時間だ。
「……あれは、村が焼いたと言った」
わたしは、動けなくなった。
「村が、何を」
「家を」
声が、また平らになった。
「病んだ者の家を、村が焼いた。中にまだ人がいた。あれはそう言った」
わたしは、口を押さえた。
わからないことが、一度にわかった。
疫病は止んだ。止んだのではない。止めたのだ。
そのやり方を、村は知っている。知っていて、その年から死人が出ていない。
そして次の年に、村は娘を一人買った。
名をつけて、山へ送った。
火の花嫁、と。
わたしは、そこで顔を上げた。
「あなたを、火にしたんですね」
暗さが、動いた。
軋む音がした。
「村は、あなたを火にした。そうすれば、家を焼いたのは村じゃなくなる。山の神さまが荒ぶったことになる」
答えはなかった。
「そのために、よその娘を買ってきて、火の花嫁と呼んだ」
答えはなかった。
わたしは、震える手で袖を握った。
「しのさまは、それをご存じだったんですね」
「……知っていた」
「いつから」
「はじめから」
わたしは、目を閉じた。
買われた娘は、なぜ自分が買われたのかを知っていた。
知っていて、山へ上がって、七日いた。
*
「七日目に」
声がした。
わたしは目を開けた。
「七日目に、火をつけた」
わたしは、そのまま動かなかった。
「誰が」
「しのが」
板の間が、静かだった。
「あれは、社の四隅に油を撒いた。それから、こちらを向いて、言った」
声が、変わった。
平らでも、低くもなかった。
それは、この人の声ではなかった。
この人が、七十年、何万回もくり返してきた、誰かの声だった。
「おまえは、火ではない」
わたしは、息を止めた。
「そう言った。それから、こうも言った」
もう一度、その声になった。
「うちが、火や」
板戸が、風で鳴った。
わたしは、しばらく何も考えられなかった。
やがて、少しずつ、わかってきた。
村は、この人を火にした。名をつけて、火にした。
このままいけば、この人は本当に火になる。荒ぶって、焼く神になる。村がそう呼びつづける限り、そうなっていく。
しのさまは、それを止めた。
火を、使いきった。
自分の手で油を撒いて、自分の手で火をつけて、火という名を、この山から燃やしてなくした。
そして、自分で死んだ。
わたしは、掌で顔を覆った。
「……止められなかった」
声がした。
この人の声だった。
「止めようとしたんですか」
「わからぬ」
わたしは顔を上げた。
「わからぬ、というのは」
「火が、火を止められるか」
わたしは、何も言えなかった。
*
その夜、わたしは眠らなかった。
板の間に座って、暗いところを見ていた。
村は、しのさまを悪しき花嫁だと書いた。神に逆らって焼き殺された女だと書いた。この年から、花嫁は神に逆らってはならないと決めた。
七十年、村の娘はその掟の下で山へ上がってきた。
逆らうな。問うな。留まれ。
その掟のいちばん最初にあるのは、この人を救おうとした娘だ。
村は墓石を建てた。宮守の家が建てたのだと、いまならわかる。そこに名が彫ってあったのだろう。
村は、それを焼いた。
字が溶けるまで焼いて、読めなくした。
名のない娘が、名のない神のところへ来て、名を一つ、焼いて消した。
わたしは、暗いところに向かって言った。
「しのさまは、あなたに、なんと呼びかけていましたか」
長い間があった。
「……おまえ、と」
名を、呼ばなかった。
この人を火と呼ばず、神とも呼ばず、おまえ、とだけ呼んだ。
姉の五文字が、頭の中で光った。
なをよぶな。
山が鳴った。
わたしは、まだ、なにも呼んでいない。




