第八話 月の花嫁
一。月の花嫁、多鶴。
三年、山に在り。ひとことも問はず。よき花嫁なりき。
多鶴は幸せであつた。
*
奥宮の中は、土の匂いがした。
社の匂いではなかった。香でも、木の脂でも、埃でもない。掘り返したばかりの、湿った土の匂いだ。
わたしは戸を開けたまま、そこに立っていた。
中は暗かった。日はもう落ちていて、板戸の隙間から入る光は、床の一筋だけだった。
目が慣れるのを待った。
板の間が一つ。奥に祭壇のようなものがある。ほかには何もない。
畳もない。夜具もない。灯もない。
ここで、六人が暮らしたのか。
わたしは草履を脱いで、板の間に上がった。
姉の草履だ。父がすげ替えたものだ。揃えて置くとき、爪先の黒い土が目に入った。
中へ進んだ。
三歩で、奥に届いた。
祭壇だと思っていたものは、祭壇ではなかった。
柱だ。
太い柱が一本、床から天井まで通っている。この社は七十年前に建て直されたものだから、柱もそのときのものだろう。
わたしは、なんとなく、それに手を触れた。
温かかった。
*
手が、止まった。
御神木と同じだった。
いや、違う。御神木より、少し高い。
わたしは、掌を離さなかった。離せなかった。
樹皮ではなかった。指の腹に伝わるのは、削った木の面だ。柱として削られた木の、乾いた手ざわりだった。
その内側に、温度がある。
わたしは、そこで声を出した。
「あの」
自分の声が、思ったより高く響いた。
返事はなかった。
わたしは掌を当てたまま、待った。
どれくらい待ったのかわからない。板戸の隙間の光が消えて、中が完全に暗くなった。
それから、声がした。
「……そこにいる」
わたしは、手を離した。
声が、どこから来たのかわからなかった。
柱からではない。天井からでもない。床からでもない。この部屋の、暗いところ全部から、いちどきに来た。
低い声だった。若くも老いてもいない。男の声だとは思ったけれど、そう思っただけかもしれない。
水の中で聞くように、輪郭がなかった。
「はい」
わたしは答えた。
「います」
また、長い間があった。
「……七日、数えた」
わたしは膝をついた。
七日。
わたしが花嫁帳を読んでいた七日を、この人は数えていた。
鳴っていたのだ。毎晩。
わたしは、床に手をついた。
「あの、山が鳴っていたのは」
答えはなかった。
訊いてはいけません、という声が、頭の中で鳴った。宮守様の声だった。
わたしは、その声を押しのけた。
「あなたが、鳴らしていたんですか」
「……いや」
短かった。
嘘は、短い。
わたしはそう思って、それから、すぐに思い直した。
この人の言葉は、全部短い。
*
暗いところに、慣れてきた。
目が慣れたのではない。慣れるものが何もないのだ。ここには輪郭がない。壁も、天井も、暗さの中に溶けている。
ただ、柱のあたりだけ、暗さが濃かった。
濃くて、動かない。
わたしは、そこを見ていた。
見ているうちに、それが柱の形をしていないことに気づいた。
柱より太い。床のあたりで、広がっている。
根のように。
「……見えるか」
声がした。
「わかりません」
正直に答えた。
「暗いところが、そこにあるのは、わかります」
沈黙があった。
それから、その暗いところが、動いた。
わたしは息を止めた。
速い動きではなかった。むしろ、恐ろしいほど遅かった。上のほうが、わずかにこちらへ傾いだ。それだけだ。
傾いで、止まった。
軋む音がした。
木が軋む音だった。
*
腹が鳴った。
わたしは、自分の腹に手を当てた。
朝から何も食べていなかった。支度で忙しかったし、食べる気にもならなかった。
帯の内側に、手を回した。
布包みを引き出して、口の縫い目を歯で切った。
米が出てきた。
白い。搗いたばかりの米だ。母は、どこからこれを出したのだろう。うちの飯は麦が混ざっている。この夏、白い米を見た覚えがない。
わたしは、掌に少しあけた。
生のまま、口に入れた。
固かった。噛むと、粉になって、口の中の水を全部持っていかれた。
それでも、噛んだ。
「……なにを、している」
声がした。
わたしは口の中の米を飲み下してから、答えた。
「食べています」
「たべる」
わたしは、顔を上げた。
いま、この人は、その言葉をくり返した。
知らない言葉をくり返すときの、あの言い方だった。
「ご存じないんですか」
答えはなかった。
わたしは、掌の米を見た。
「人は、食べないと死にます」
「……そうか」
わたしは、そのとき、はっきりと恐ろしくなった。
六人が、ここにいた。
多鶴さまは三年いた。咲さまは三十年いる。
この人は、いま、人が食べることを知らない。
だれも、教えなかったのだ。
わたしは布包みの口を結び直して、帯に戻した。
母の米が、急に重くなった。
*
夜が更けた。
わたしは板の間に横になった。夜具はないので、着物のまま丸くなった。板は冷たかったけれど、柱のほうから、わずかに温かさが来ていた。
眠れなかった。
暗いところは、あれから一度も動かなかった。
わたしは、そちらを向いて横になっていた。
訊きたいことが、山ほどあった。
名を、きく。そう書いてきた。宮守様の前で三度断って、書いた。
けれど、いざここに来ると、どう訊けばいいのかわからなかった。
この人には名がない、と宮守様は言った。
ないものを、どう訊くのか。
わたしは、考えて、考えて、それから、まったく別のことを口に出した。
考えて出した言葉ではなかった。
喉から、勝手に出た。
「顔を、見せてください」
暗いところが、止まった。
もともと動いていなかった。動いていなかったものが、止まった。
わたしにはそれがわかった。空気が、ぴたりと固まった。
わたしは起き上がった。
「あの」
「……はじめてだ」
声が、掠れていた。
「はじめて、というのは」
「そう言われたのは、はじめてだ」
わたしは、板の間に座り直した。
はじめて。
この人がここにいるのは、何年になるのだろう。多鶴さまが九十年前だ。その前から、この山にいたはずだ。
九十年。
いや、もっと長い。
「多鶴さまも、言わなかったんですか」
長い、長い間があった。
それから、声がした。
「あれは、なにも訊かなかった」
わたしは、帳面の一行を思い出した。
ひとことも問はず。よき花嫁なりき。
村は、それを褒め言葉として書いた。
わたしは、いままで、それを村の身勝手だと思っていた。訊かない娘を都合よく持ち上げているのだと。
「多鶴さまは、優しい方だったんですか」
また、間があった。
「……やさしかった」
その一言を、わたしは何度も頭の中でくり返した。
優しかった。
だから、訊かなかった。
顔を見せてくれと言えば、この人が困るだろうと思って。答えられないことを訊けば、傷つけるだろうと思って。
三年間、一度も。
わたしは、暗いところを見た。
三年、優しくされて。
この人は、三年、顔を持たなかった。
夜ごと通ってきて、朝には消える。近くにいて、触れられない。
わたしは、そこで、ようやく気づいた。
村は多鶴さまを月の花嫁と呼んだ。
月に嫁いだ娘、という意味だと思っていた。
違う。
月だったのは、あの人のほうだ。
毎晩そこにあって、明るくて、けれど誰も手を伸ばせない。
優しさというのは、そういう形をしている。
わたしは、また横になった。
目を閉じて、それから開けた。
暗いところは、まだ、そこにあった。
山が鳴った。
わたしは、まだ、なにも呼んでいない。




