第七話 日の花嫁
七。日の花嫁、あさ。
わたくしは、なをききます。
*
七日目の朝、わたしは硯を洗った。
六人ぶんを読んだ。今日は、書く番だ。
書く前に、確かめておきたいことがあった。
六人は、七日目に何を書いたのだろう。
わたしは冊子を開いて、それぞれの頁のいちばん上の行を見た。
一。月の花嫁、多鶴。
二。火の花嫁、しの。
三。水の花嫁、芙美。
どれも、村の手で書かれた字だった。固くて、行儀のいい、男の字。
花嫁が自分で書いたはずの一行は、どこにもなかった。
書かせておいて、あとから全部書き直したのだ。名と嫁名だけ残して、あとは村の言葉に入れ替えた。
ただ一つ、芙美さまの頁だけが、本人の字だった。
わたしは、その一行目を読んだ。
わたくしは、およばずながら。
それだけだった。
およばずながら。
自分から、へりくだっている。頁の最初の一行で、自分を小さくしている。
この人は読み書きができて、堰のことに気づいて、それでもまず、およばずながらと書いた。
わたしは冊子を閉じた。
村がこの一行を書き直さなかった理由が、わかった気がした。
直す必要がなかったのだ。
*
わたしは硯に水を入れて、墨を磨った。
磨りながら、考えていた。
何を書けば「よき花嫁」になれるかは、もうわかっている。六日かけて六人ぶんの採点表を読んだのだ。
問わないこと。逆らわないこと。留まること。
それを書けばいい。書けば、村は満足する。母は安心する。宮守様は、たぶん、ほっとする。
そして三年後か三十年後に、誰かがわたしの頁のいちばん下に、幸せであつたと書き足す。
筆を持った。
わたしは、姉の五文字を思い出した。
なをよぶな。
呼ばない。呼ばないけれど。
知らないままでいることと、呼ばないことは、違う。
わたしは、紙に穂先を下ろした。
わたくしは、なをききます。
仮名で書いた。
書いてから、しばらく見ていた。
墨が乾いていくのを、最後まで見ていた。
*
宮守の家に持って行くと、宮守様は仏間で待っていた。
支度の言いつけがあるはずだった。わたしは冊子を差し出した。
宮守様は受け取って、膝の上で開いた。
老いた指が、頁をめくった。
七人目のところで、止まった。
わたしは、その顔を見ていた。
顔から、色が引いた。
八十を越えた人の顔から、それ以上どう色が引くのかと思っていたけれど、引いた。唇のあたりが白くなって、瞼が上がって、はじめてこの人の目をまともに見た。
目が、黒かった。
「書き直しなさい」
声が、掠れていた。
「いやです」
「あさ」
「なぜですか」
宮守様は、冊子を閉じた。閉じて、両手で押さえた。押さえる手が震えていた。
「誰に訊く」
わたしは答えた。
「神さまに」
仏間が、静かになった。
蝉も鳴いていなかった。
宮守様は、そのまま、しばらく動かなかった。
それから、こう言った。
「あれには、名がない」
わたしは膝を進めた。
「なぜ、ないんですか」
答えなかった。
「神さまには、名があるものです。氏神さまにも、道祖神さまにも、名があります。御名山の神さまだけ、なぜないんですか」
答えなかった。
「宮守様。御名山って、御名の山と書きます」
宮守様の肩が、動いた。
「名がないのに、御名山なんですか」
わたしは、そこで初めて、この人が泣くのを見た。
声は出していなかった。ただ、瞼の下から、水が出ていた。拭きもしなかった。
「書き直しなさい」
三度目だった。
わたしは頭を下げた。
「いやです」
わたしは、その日、この人が四度目を言わなかったことを、あとになって何度も思い出すことになる。
*
支度は、驚くほど簡単だった。
白い着物を一枚。帯は白。履物は草履。荷物は持ってはいけない。櫛も鏡も、駄目だという。
母が着せてくれた。
黙って着せた。
着物を広げて、袖を通させて、襟を合わせて。手つきが、ふだんより丁寧だった。
わたしは、袂の中のものを気にしていた。
黄楊の櫛が一つ。歯が三本欠けている。三十年、御神木の根元に埋まっていたものだ。
荷物は持ってはいけない。櫛も鏡も駄目だという。
わたしは、それを持って上がるつもりだった。
足元には、姉の草履がある。父が昨日すげ替えたものだ。底が擦り切れて、爪先に黒い土が染みている。
掟を、もう二つ破っている。
母が、帯を回した。
一度締めて、ほどいた。
もう一度締めて、また、ほどいた。
わたしは、母の手元を見た。
母は、帯の内側の、背中に来るあたりを、指で押さえていた。
押さえて、そこに何かを入れた。
小さな、平たいものだった。布に包んである。母の手で隠れて、わたしからは見えなかった。
母は、それを帯の中に押し込んで、上から三度、手で撫でた。
それから、締めた。
今度は、やり直さなかった。
「かあさん」
母は答えなかった。
帯の結びを直して、両手でわたしの肩を持って、少し離れた。
わたしの顔を、見た。
三年ぶりに見た気がした。
「ようできとる」
それだけ言った。
わたしは、背中の平たいものを感じていた。固くはない。押すと、少し沈む。
訊かなかった。
訊いてはいけないと言われたからではない。
訊いたら、母がそれを取り出してしまう気がしたからだ。
この人が二十年、この村の言うとおりに生きてきて、たった一度だけ背いたものを、わたしの背中から取り上げてしまう気がした。
だから、黙っていた。
母も、黙っていた。
この家で、それがいちばん近い挨拶だった。
姉が、襖のところに立っていた。
わたしは、袂から昨日の紙を出そうとして、やめた。かわりに、こう言った。
「姉さん。わたし、名を、きくって書いた」
姉が、こちらを見た。
わたしは待った。首を振られると思っていた。三度目の、あの振り方が来ると思っていた。
姉は、振らなかった。
立ったまま、わたしの顔を見ていた。長く見ていた。
それから、目を伏せて、部屋へ戻っていった。
止められなかった。
なぜ止めないのか、わたしにはわからなかった。
*
村の外れの鳥居まで、村じゅうが送りに来た。
道の両側に人が並んでいた。井戸端の三人もいた。吉造さんも、常吉さんもいた。みんな、いい顔をしていた。
誰も泣いていなかった。
わたしは白い着物で、その真ん中を歩いた。
途中で、子どもの声が聞こえた。
あめふれ あめふれ
ふみさまが しずむ
道端で、四つか五つの子が二人、手をつないで跳ねながら歌っていた。
母親らしい人が、慌ててその子の口を押さえた。
押さえてから、わたしのほうを見て、笑って、頭を下げた。
わたしも、頭を下げた。
下げながら、思った。
この子は、悪くない。
この子の母も、悪くない。
あの唄をこの子に教えたのは、この子の祖母だ。教えたのは曾祖母だ。誰も自分では作っていない。みんな、受け取って、渡しただけだ。
わたしが山で死んだら、この子は、わたしの唄を歌うのだろう。
あさまが のぼる。
そんな節をつけて。
わたしは前を向いて歩いた。
*
鳥居のところに、宮守様が立っていた。
杖をついて、一人だけ、こちらを向いていた。
わたしは足を止めて、頭を下げた。
「行ってまいります」
「あさ」
わたしは顔を上げた。
宮守様は、村のほうを一度見て、それから、声を落とした。
「わしが、迎えに行く」
わたしは、意味がわからなかった。
「宮守様」
「三年前も、わしが行った。半年たって、下ろした」
背負って下りてきた、と母は言った。あの年で、あの道を。
「その前も、わしが行った。金の花嫁のときも、わしが下ろした」
わたしは、息を吸った。
「では、多鶴様は」
宮守様は、答えなかった。
しのも、芙美も、咲も、この人は迎えに行っていない。行けなかったのだ。生まれる前か、間に合わなかったか。
この人が下ろせたのは、二人だけだ。
六十年の宮守で、二人。
「あさ」
宮守様は、杖の頭を握った。
「訊いてはいけません」
四度目だった。
けれど、今度の言い方は、五日前とは違っていた。
命じているのではなかった。
頼んでいた。
わたしは、頭を下げて、鳥居をくぐった。
*
参道は、来たときより暗かった。
日が傾いていた。花嫁は日の落ちるころに上るのだと言われていた。
石段を上がりきったところで、わたしは足を止めた。
背中の、帯のあたりに、当たるものがある。
歩くたびに、擦れる。
わたしは道の脇に寄って、手を後ろに回した。
帯の内側に指を入れて、それを探った。
布に包んだ、平たいもの。
指で押すと、中で細かいものが動いた。
わたしは、そこでわかった。
米だ。
ひとつかみか、それより少しか。晒に包んで、口を縫って、帯の中に入れてある。
わたしは、道の上で立ち尽くした。
母は、山で花嫁に飯が出るのかどうかを、知らないのだ。
二十年、この村で暮らして、三年前には自分の娘を上げて、それでも知らない。
六人が山で何を食べたのか、村は誰も知らない。誰も訊かなかったからだ。
だから母は、米を入れた。
自分の娘が飢えるかどうかもわからないまま、ひとつかみだけ、掟を破って。
わたしは手を戻して、帯を撫でた。
撫でてから、歩きだした。
泣かなかった。
泣くのは、上がってからにしようと思った。
半町ほどで、御神木の前に出た。
わたしは足を止めて、幹に掌を当てた。
温かかった。
「咲さま」
答えはなかった。
「行ってきます」
風が、枝を鳴らした。
わたしはそれを、返事だと思うことにした。
*
奥宮は、思っていたより小さかった。
山の頂きに、木立をひらいて、そこに建っている。屋根が低い。柱が新しくないのに、どこか歪んでいない。七十年前に、宮守の家が一軒で建てたものだ。
わたしは階の前に立った。
日が、山の向こうに沈むところだった。
振り返ると、七久里が見えた。田があって、川があって、家が点々とあって、煙が三つ四つ上がっていた。
いま、この村には、六人の花嫁の話がある。
月、火、水、木、金、土。
子どもの数え歌のように並べれば、次はわたしだ。
日の花嫁。
六人でひとめぐりして、七人目でひとまわり。
わたしは、この村が七日を数えているのだと、そこで気がついた。
誰が数えているのだろう。
誰が、七日目を待っていたのだろう。
わたしは向き直った。
戸に手をかけた。
中は、暗かった。
山が鳴った。
すぐ足の下だった。
わたしはもう、それを「音」とは呼ばなかった。




