第六話 土の花嫁
六。
(白紙)
*
六人目の頁には、何も書かれていない。
名も、年も、嫁名も、何もない。
わたしは五日かけて、五人ぶんの記録を読んできた。どの頁にも四行か三行の字があって、その下に「幸せであつた」と書き足してあった。
六人目には、それすらない。
まっさらな和紙が一枚、綴じられている。
姉の頁だ。
わたしはそれを、二日前の朝に一度見ている。見て、蓋をして、それきり考えないようにしていた。
考えないようにしていたことを、今日は考えなければならない。
わたしは朝の光の下で、その一枚を、正面から見た。
*
最初に気づいたのは、白さだった。
この頁だけ、紙が白い。
多鶴の頁は黄ばんでいる。しのの頁も、芙美の頁も、年のぶんだけ色が変わっている。ときの頁でさえ、隅がすこし茶色い。
六人目の紙は、白かった。
三年前の紙が白いのは、おかしくはない。三年は短い。
けれど、わたしは指で紙を弾いてみた。
音が、違った。
ほかの頁より、張りがある。新しい紙の音だ。
わたしは冊子を横に倒して、綴じ目を見た。
和紙を重ねて、四つの穴を開けて、そこに糸を通してある。糸は薄茶色に汚れていて、ところどころ毛羽立っていた。
六人目の頁のところだけ、糸が違った。
白い。
その一枚のところだけ、糸が新しくて、結び目が二つある。
わたしは冊子を持ったまま、動けなくなった。
結び直してある。
この頁は、あとから入れ替えられたものだ。
もとの紙は、抜き取られている。
わたしは膝の上に冊子を置いた。手が冷たくなっていた。
七日目に、花嫁は自分の頁のはじめの一行を書く。宮守様はそう言った。
姉も、書いたはずだ。
三年前、いまのわたしと同じように六人ぶんを読んで、七日目に筆を執って、何かを書いた。
その一行を、誰かが抜いた。
*
台所に、母がいた。
わたしは上がり框に座って、しばらく黙っていた。訊き方を考えていた。
考えても、いい訊き方はなかった。
「かあさん。姉さんが帰ってきた日のこと、教えて」
母の手が止まった。
止まって、そのまま動かなかった。
「もう三年だよ」
「うん」
「なんで今さら」
「わたしが行くから」
母は、菜を洗っていた。ざるの中で水が揺れていた。
しばらくして、母は言った。
「宮守様が、背負って下りてきなさった」
わたしは顔を上げた。
「宮守様が」
「あの年で、あの道をね。下の鳥居のところで座り込んでしまわれて、村の男が四人がかりで手を貸したよ」
母の声は、静かだった。
「末は、目を開けとった。歩けたはずだよ。それなのに背負われとった」
「怪我は」
「なかった。医者に診せたけど、どこもなんともないって」
「その日から、喋らなくなったの」
母は、菜を洗いはじめた。
「その日はね、まだ、いくらか」
わたしは息を詰めた。
「いくらか、何」
「口を動かしとった。声は出とらんかったけど」
水の音がした。
「二日か三日、そうしとった。何か言おうとしとるみたいでね。あたしゃ、そのうち戻ると思っとった」
母はそこで、ざるを上げた。
「四日目から、やめた」
わたしは、その言い方を聞いた。
戻らなかった、ではない。
やめた、と、母は言った。
*
「かあさん。姉さんに、訊いた」
母は答えなかった。
「山で何があったのか、訊いた」
答えなかった。
「三年、一度も」
母は、ざるを置いた。
置いて、こちらを見ずに、こう言った。
「訊いてはいけないんだよ」
わたしは、台所の板の間に座ったまま、動けなかった。
訊いてはいけません。
宮守様が、五日のあいだに三度そう言った。
多鶴は、三年山にいて、ひとことも問わなかった。だからよき花嫁だった。この村はそう書いた。
その作法が、うちの台所まで来ている。
母は、娘に、三年、何も訊かなかった。
訊かないことがこの村では正しいのだと、母は本気で信じている。
「かあさん」
「なんだい」
「姉さんは、それで、助かったの」
母の背中が、はじめて震えた。
わたしは、言ってしまってから後悔した。
けれど、取り消さなかった。
*
台所を出て、わたしは裏へ回った。
母の顔を、それ以上見ていられなかった。
納屋の戸が開いていた。
父が、中にいた。
筵の上に胡座をかいて、手元に何か持っている。わたしが戸のところに立っても、顔を上げなかった。この人はいつもそうだ。
草履だった。
鼻緒をすげ替えている。古い緒を抜いて、新しいのを通して、指で締めているところだった。
わたしは、その草履を見た。
女物だ。小さい。
姉の草履だった。
「とうさん」
返事はなかった。
わたしは土間に下りて、そばに座った。
父の脇に、板がある。板の上に、履き潰した草履が並べてあった。
数えた。
六足あった。
どれも女物で、どれも同じ大きさで、どれも鼻緒だけが新しかった。底は擦り切れて、藁が毛羽立って、爪先のあたりが黒く汚れている。
黒い土だ。
村の土は、赤い。
「とうさん。これ、姉さんの」
父の手は止まらなかった。
緒を通して、引いて、また通す。
「三年で、六足ですか」
止まらない。
「姉さん、どこへ行ってるか、知ってるんですか」
父は、そこで一度だけ、手を止めた。
止めて、また動かした。
わたしは、この人が答えないのを知っていた。この人は昔から、家の中でほとんど喋らない。母が喋って、父が黙る。それが七久里の家のかたちだ。
けれど、それとは違う。
この黙り方は、母の黙り方と同じだった。
わたしは、板の上の六足を見ていた。
三年で六足。半年に一足だ。
姉は、毎日のように、あの沼へ通っている。
父は、それを知っている。
知っていて、三年、一度も止めなかった。訊きもしなかった。
ただ、擦り切れた草履を、黙って直し続けている。
わたしは、喉の奥が熱くなるのを堪えた。
この人は、姉に、何も訊けない。
この村では、訊いてはいけないからだ。
だから、履物を直す。
それしか、この人にできることがない。
「とうさん」
わたしは、そこでようやく言った。
「わたし、あさって上がります」
父の手が、止まった。
長く止まった。
それから、脇の板に手を伸ばして、いちばん端の一足を取った。
まだ新しい鼻緒がついている。今日すげ替えたばかりのものだ。
わたしのほうに、押してよこした。
わたしは、それを見た。
姉の草履だ。姉が沼へ通うのに履いている草履だ。
父は、それきり、また手元に戻った。
次の一足を取って、緒を抜きはじめた。
わたしは草履を抱えて、納屋を出た。
出てから、戸の陰で、少しだけ泣いた。
声は出さなかった。
この家では、誰も声を出さない。
*
姉は、奥の部屋にいた。
珍しく何もしていなかった。壁にもたれて、膝を立てて、そこに顎を乗せていた。
わたしは襖を開けて、そこに座った。花嫁帳を抱えていた。
姉が、こちらを見た。
三年で、はじめて、姉のほうから目が合った。
わたしは冊子を畳の上に置いて、六人目の頁を開いた。
白い紙を、姉のほうに向けた。
「姉さん」
姉は、その紙を見た。
長く見ていた。
それから、手を伸ばして、紙の上に指を置いた。
押さえた。
そして、首を横に振った。
ゆっくり、二度。
三年前と同じだ。桐の箱を押さえたときと、同じ振り方だった。
「姉さん。ここ、糸が新しいの」
姉の指が、動かなかった。
「姉さんの書いた一行、誰かが抜いてる」
動かなかった。
「姉さんは、何て書いたの」
姉は、首を振らなかった。
振らずに、目を伏せた。
わたしはそこで、はっきりと知った。
この人は、覚えている。
三年前に自分が何を書いたか、覚えている。覚えていて、言わないことにしている。
*
わたしは、硯と筆を持ってきた。
三日前と同じだ。三日前、姉はこちらを見もしなかった。
紙を一枚、姉の膝の前に置いた。
筆を、姉の手のそばに置いた。
「わたし、あさってには山へ上がるの」
姉の肩が動いた。
「あしたは、自分の頁に一行書く日。書いて、それから上がるの」
わたしは、そこで声が震えた。
「姉さん。わたし、何を書けばいいのかわからない」
部屋の外で、母が何かを落とした音がした。
姉は、筆を見ていた。
長いあいだ見ていた。
それから、手を伸ばした。
筆を取った。
わたしは息を止めた。
姉の手は、震えていなかった。硯に穂先を入れて、墨を含ませて、余分を落とした。慣れた手つきだった。三年やっていない人の手ではなかった。
紙の上に、穂先が下りた。
止まった。
姉は、そこで、しばらく動かなかった。
墨が、一滴だけ落ちた。
それから、書いた。
五文字だった。
なをよぶな
姉は筆を置いた。
置いて、両手を膝に戻して、また壁にもたれた。
わたしは紙を見た。
名を呼ぶな。
読んで、意味がわからなかった。
「姉さん。誰の名前」
姉は答えなかった。
「神さまの名前。それとも」
姉は目を閉じた。
「姉さん」
閉じたままだった。
わたしは紙を持ち上げて、行灯の光にかざした。何度も読んだ。読むたびに、意味が遠くなった。
名を呼ぶな。
呼ぶ名を、わたしはひとつも知らない。
御名山の神には、名がない。誰も知らない。村の誰に訊いても、あれは神さまだ、としか言わない。
知らない名を、どうして呼ぶなというのだろう。
わたしは紙を畳んで、袂に入れた。
姉は、目を閉じたままだった。
けれど、眠ってはいなかった。
わたしにはわかった。この人は、わたしが部屋を出るのを待っている。
わたしは立ち上がって、襖を閉めた。
閉めてから、廊下でしゃがんだ。
中から、音がした。
紙を、こする音だった。
姉が、あの紙を??わたしが持ち出した紙ではなく、硯の下に敷いていた紙を、たしかめている音だと、あとから思った。
筆の跡が、下の紙に写っていないか、確かめている音だ。
三年黙っている人が、たった五文字書くために、そこまでする。
*
その夜も、山は鳴った。
わたしは蚊帳の中で、袂の紙を握っていた。
六人を読んだ。
多鶴は問わなかった。しのは焼かれた。芙美は上がっていない。咲さまは立っている。ときさんは村を出て、憎まれている。
そして姉は、頁を抜かれて、五文字だけ書いた。
六人とも、村の言うことを聞いたかどうかで採点されていた。
あしたは、わたしが書く番だ。
自分の頁の、はじめの一行。
何を書けば、この村はわたしを「よき花嫁」と書くのだろう。
そして、わたしは、それを書きたいのだろうか。
山が鳴った。
わたしはまだ、それを「音」と呼んでいた。




