第五話 金の花嫁
五。金の花嫁、とき。
飢ゑの年、村、神に金を請ふ。神、これに応ず。
とき、三月にして山を下り、村を去る。不貞なり。
ときは幸せであつた。
*
五人目の頁は、ほかの誰の頁とも違っていた。
なにが違うのかは、すぐにわかった。
この頁だけ、悪口が書いてある。
不貞なり。
多鶴には「よき花嫁なりき」と書いてあった。しのは「神に逆らった」と書かれたけれど、それでも、悪しき花嫁とは書いていない。
この人だけだ。この人だけが、村の言葉で、はっきりと責められている。
わたしは指で「不貞」の二文字をなぞった。
字が、深い。
筆が紙に食い込んで、裏まで通っている。ほかの行より墨が濃い。
書いた人は、この二文字を、力を入れて書いた。
わたしは顔を近づけた。
太い筆だ。濃い墨だ。
わたしは、この筆を知っている。
二日前の朝、頁を最後まで繰って、五つの「幸せであつた」を見た。あれと同じ太さ、同じ濃さ、同じはねの癖。
わたしは念のため、四人目の頁を開いて、いちばん下の一行と見比べた。
咲は幸せであつた。
同じ手だった。
わたしは頁を戻して、再びその「不貞なり」の筆跡を見た。
同じ人が、書いている。
五人の花嫁に「幸せであつた」と書いた人が、そのうち一人にだけ「不貞なり」と書いた。
しかも、この二文字だけ、紙の裏まで筆が通っている。
あの人は、五人ぶんの終わりを書きながら、ここでだけ、手に力が入ったのだ。
*
もうひとつ、この頁には妙なことがあった。
神、これに応ず。
わたしは、この一行の前でずいぶん長いこと止まった。
飢饉の年に、村が神に金を請うた。そして神は、それに応じた。
金を出したのだ。
わたしは三日間、三人ぶんの記録を読んできた。多鶴のとき、神は夜に通ってきた。しののとき、神は社を焼いた。芙美のとき、神は雨を降らせた。
どれも、神のすることだ。
金は、神のすることではない。
山に金が湧くわけがない。山の神が財布を持っているはずがない。
なのに帳面には、応じた、と書いてある。
そして、それきりだ。いくら出したとも、どこから来たとも、書いていない。
村が飢饉を凌いだのは事実だ。祖母がまだ生きていたころ、あの年は七久里だけが死人を出さなかったと、そう聞いた覚えがある。隣の村では出たのに、と。
わたしはそれを、水の花嫁の話と同じように、ありがたい話として聞いていた。
いま、読んでいる。
村は、神に、金を、請うた。
請うた側が、それを美談として書いている。
*
ときさんの名を、わたしは前から知っていた。
村の女たちが井戸端で話しているのを、何度も聞いた。
あの女、と、みんなそう言う。
名を言わない。あの女、山から下りた女、村を捨てた女。声を低くして、笑って、それから急に真面目な顔になって、罰当たりだ、と言う。
その日も、聞こえた。
わたしが桶を提げて井戸へ行くと、三人ばかりが話していた。わたしを見て、いったん止んだ。それから、わざとらしく大きな声で、また始まった。
「あさちゃんは偉いねえ。ちゃんとお勤めをしてくれてさ」
「そうさ。どこかの誰かと違ってね」
「三月で下りたんだろ。三月だよ」
「男がいたって話じゃないか。町のほうに」
「そうそう。だから逃げたんだ」
「神さまの嫁だよ。神さまのだよ」
わたしは黙って水を汲んだ。
汲みながら、考えていた。
この人たちは、なぜこんなに怒っているのだろう。
十五年前のことだ。ときさんは村を出て、それきり帰ってこない。誰にも迷惑をかけていない。
なのに、いまだに、この人たちは怒っている。
わたしは桶を提げて立ち上がった。
「ときさんは、飢饉のときの花嫁ですよね」
三人が、こちらを見た。
「それで、村は助かったんですよね」
誰も答えなかった。
「わたしのおばあさまが言っていました。あの年、七久里だけ死人が出なかったって」
一人が、口を開いた。
「あれは、神さまのおかげだよ」
わたしは頭を下げて、その場を離れた。
背中で、また声が始まった。
さっきより低かった。
*
井戸から帰る途中、村の辻に行商が来ていた。
月に二度ばかり来る男で、名を留吉さんという。町から瀬戸物と小間物を担いでくる。母が針を買うので、わたしも顔は知っていた。
わたしは桶を置いて、その荷のそばにしゃがんだ。
「留吉さん」
「おう、あさちゃん」
男は笑った。この村の大人でわたしを見て笑うのは、いまや母と、この人くらいだった。
村の外から来る人は、まだわたしが花嫁になったことを知らない。
「留吉さんは、町のほうから来られるんですよね」
「そうだよ。今朝は暗いうちに出てきた」
「町に、ときさんという人はおられますか」
留吉さんは、瀬戸物を並べる手を止めなかった。
「ときさんかい」
あっさりと言った。
「おられますか」
「おるよ。糸屋の」
わたしは、膝の上で手を握った。
「ご存じなんですか」
「知っとるも何も。おらは、あの人に世話になっとる」
男は湯呑みを一つ、筵の上に置いた。
「元手を貸してもらったのが、もう十年になるかな。おらが天秤棒一本で始めたときに、あの人が金を出してくれた。町の者は誰も貸してくれんかったよ」
わたしは、何も言えなかった。
「利は取るよ。きっちり取る。まけてはくれん」
留吉さんは笑った。
「けど、あの人は、返せんときに怒鳴らんのだ。いつまでに返せるか言え、って、それだけ訊く。言えば、それでいい。あの人は、そういう人だ」
わたしは、さっきの井戸端の声を思い出していた。
あの女。山から下りた女。村を捨てた女。
名を言わない。
ここから半日の町では、この人は名で呼ばれている。糸屋の、ときさん、と。
「留吉さん」
「うん」
「ときさんは、七久里の話をされますか」
留吉さんの手が、そこで止まった。
止まって、わたしの顔を見た。
見て、それから、あ、という顔をした。
この人は、いま気づいたのだ。わたしが誰の妹で、この夏、七久里で何が起きているのかを。
「あさちゃん」
「はい」
「あんた、まさか」
わたしは頭を下げた。
留吉さんは、しばらく何も言わなかった。
それから、荷を担ぎ直す手つきになって、こう言った。
「一度だけ聞いた。酔ったときにな」
声が低くなっていた。
「七久里の話はしないと言っとった。話すと、損をするから、と」
「損」
「そう言ったよ。あの人は、なんでも損得で言う人だから」
留吉さんは、そこで少し黙った。
「けどな。あれは、そういう意味の損じゃなかった気がするんだ」
わたしは顔を上げた。
留吉さんは、村のほうを一度見て、それから山を見た。
「おらは商いの人間だからな。損得の話をする人の顔は、たいてい見ればわかる」
荷を担いだ。
「あのときのあの人の顔は、ありゃあ、勘定の顔じゃなかったよ」
*
午を過ぎて、わたしは宮守の家へ行った。
昨日、参道で会ったときのことを、まだ考えていた。あの人はわたしの手を避けて、それから謝った。
仏間に通されて、わたしは膝を揃えた。
「宮守様。五人目を読みました」
「そうか」
「神さまは、金を出したと書いてあります」
宮守様は経机に向かったまま、動かなかった。
「山に、金はありませんよね」
「あさ」
「あの年、村は誰も死ななかったそうです。米を買ったんですよね。どこかから。買うには金が要ります」
わたしは、そこで一度息を吸った。
「その金は、どこから来たんですか」
長いあいだ、答えがなかった。
蝉が鳴いていた。仏間は暗くて、涼しかった。
それから、宮守様は、こう言った。
「山から」
わたしは顔を上げた。
「では、山の、どこからですか」
宮守様の背中が、動かなくなった。
わたしは待った。
この人はいつも、同じところで「訊いてはいけません」と言う。今日もそう言われるのだと思っていた。
言われなかった。
かわりに、こう聞こえた。
「あさ。おまえは、よう訊く子だな」
褒められているのではなかった。
わたしにはわかった。この人は、いま、疲れている。
「多鶴様は、ひとことも問わなかったそうですね」
「そうだ」
「それが、よい花嫁なんですね」
「……そうだ」
声が、ずいぶん小さかった。
わたしは頭を下げて、仏間を出た。
廊下を歩きながら、思った。
この人は、わたしに嘘をつくとき、いつも短く言う。
山から、と、四文字で言った。
嘘は、短い。
*
その夜、わたしは行灯のそばで、五人目の頁をもう一度開いた。
どうしてもわからないことがあった。
三月で下りた、と書いてある。
多鶴は三年いた。芙美は沈むまでいた。咲さまは三十年いる。姉は半年いた。
三月は、いちばん短い。
いちばん短くて、そして、金は村に入っている。
仕事は済んでいるのだ。
済ませてから下りた人を、村は十五年、女たちの声を低くさせるほど憎んでいる。
わたしは頁を裏返した。
裏から光を当てると、「不貞」の二文字が黒く透けた。
そのとき、行の下のほうに、何かが見えた。
余白だと思っていたところだ。
わたしは行灯を近づけた。
うっすらと、字がある。
ごく細い筆で、小さく、隅に書いてある。墨が薄くて、昼間の光では見えなかった。
わたしは頁を傾けて、目を近づけた。
読めた。
むらのおとこは たかかつたよ
わたしは、しばらく意味がわからなかった。
もう一度読んだ。
村の男は、高かったよ。
わからない。
高い。何が高いのか。誰が高かったのか。
値段の話だ。それはわかる。この書き方は、物の値段を言うときの言い方だ。
けれど、村の男が高いというのは、どういうことだろう。
わたしは指で字をなぞった。
仮名ばかりだ。芙美さまの字とも違う。丸くて、勢いがあって、はねが跳ね上がっている。
女の字だった。
この帳面に、村の誰かが書いたのではない字が、もうひとつあった。
書いたのは、この頁の人だろう。
村を出るときに、自分の頁の隅に、これだけ書いていった。
消し忘れたのだ。
村は「不貞なり」を大きく書いて、この一行に気づかなかった。
わたしは行灯を吹き消して、暗い中で座っていた。
村の男は高かった。
高かったから、どうしたのだろう。
高いものを買ったのは、誰だろう。
*
その夜も、山は鳴った。
わたしは蚊帳の中で、井戸端の声を思い出していた。
神さまのおかげだよ、と、あの人は言った。
言うときに、わたしの顔を見なかった。
村は飢饉を凌いだ。誰も死ななかった。それは本当だ。
そして、その年の花嫁を、十五年憎んでいる。
助けてもらった相手を、こんなに憎めるものだろうか。
わたしは寝返りを打った。
憎むというのは、恨むことだ。恨むというのは、何かをされたということだ。
この村は、ときさんに、何かをされている。
あしたは六人目を読む。土の花嫁、と目次にはあった。
白紙の頁だ。
姉の頁だ。
山が鳴った。
わたしはまだ、それを「音」と呼んでいた。




