第四話 木の花嫁
四。木の花嫁、咲。
山鳴りの年、山へ上がる。
咲は下りず。神木となりて、いまも御名山に在り。
咲は幸せであつた。
*
四人目の頁を開いて、わたしは、はじめて安心した。
情けない話だ。けれど本当だ。
多鶴は墓が消されていた。しのは焼け死んだ。芙美は沼から上がっていない。
三日かけて、わたしは三人ぶんの終わり方を読んだ。あしたも、あさっても、まだ続く。読むたびに、自分がそこへ近づいていく。
だから四人目の頁を開いて、下りず、と書いてあるのを見たとき、わたしはほっとした。
この人は死んでいない。
神木となりて、いまも御名山に在り。
いまも、と書いてある。
わたしはその三文字を、指でなぞった。
御神木のことは、子どものころから知っている。参道の途中に立っている大きな杉で、注連縄が張ってあって、年の暮れにはそれを掛け替える。村の総出でやる。
あれが、人だとは。
知っていた。知ってはいた。木の花嫁が御神木になったのだという話は、七久里の子どもなら誰でも聞かされている。
けれど、それが「幸せに終わった」という話として語られていることに、わたしはこの日はじめて引っかかった。
人が木になるのは、幸せなことだろうか。
わたしはもう一度、四行を読んだ。
そして、読み終えてから、妙なことに気づいた。
この頁だけ、いつのことか書いていない。
しのの頁には、年が書いてあった。芙美の頁にもあった。
咲の頁には、山鳴りの年、としか書いていない。
いつ上がったのか、村は書き残していない。
書けなかったのか。
それとも、まだ終わっていないから、書かなかったのか。
*
参道は、日が高くなってから上った。
鳥居は村の外れにある。そこから先が御名山だ。石段が組んであるのは最初の三十段ほどで、あとは踏み固めた土の道になる。
子どものころは、この鳥居から先へ行くのが怖かった。いまも、すこし怖い。
道は、思ったより手が入っていた。草が刈られ、崩れたところに丸太が渡してある。誰かが直している。
半町ほど上ったところに、それはあった。
御神木。
太さは、大人が三人で手を回してようやく足りるくらいだ。真上を見ると、枝が空を塞いでいて、幹の先が見えない。注連縄は去年掛け替えたものだ。もう色が褪せている。
わたしは、その縄を見上げた。
縄をなうのは、年の暮れの、村の総出の仕事だ。男が藁を打って、女と子どもがそれをなう。庭に筵を敷いて、みんなで並んで、しゃべりながらやる。甘酒が出る。子どもにとっては楽しい日だった。
わたしも、なったことがある。
十のときだ。手が小さくて、うまく撚れなくて、隣の婆さんに笑われた。
きつく、きつく。
そう言われた。ゆるいと解けるからね、きつくなうんだよ、と。
解けたら困るからね。
わたしは、その言葉を、ずっと年越しの縁起の話だと思っていた。
縄が解けるのは縁起が悪い。だからきつく巻く。神さまに失礼だから。そういうことだと思っていた。
いま、見上げている。
人の胴ほどもある太い縄が、幹に三重に巻かれている。
わたしがなった藁も、この中のどこかにある。
十のわたしが、笑いながら、甘酒を飲みながら、きつく、きつく、と言われて撚った藁が。
喉の奥が、急に苦しくなった。
解けたら困る。
誰が困るのだろう。
村じゅうで、藁を打って、なって、掛けて。
三十年、毎年。
子どもにやらせて。
わたしは幹の前に立った。
こんなに近くで見たのは、はじめてだった。
樹皮は縦に深く割れていて、その割れ目に苔が生えている。根元のあたりは瘤になって、ねじれていた。
人が木になる、というのは、こういうことなのか。
わたしは、手を伸ばした。
触れる直前で、一度止めた。
それから、掌をつけた。
温かかった。
わたしは手を離した。
離してから、自分が離したことに気づいた。
もう一度、触れた。
やはり温かい。
夏だ。日が差している。木が温まっていてもおかしくはない。わたしはそう思おうとして、そのために、掌を幹から離して、まわりの木に触れて回った。
三本触った。
どれも冷たかった。
同じ日に、同じ山で、同じ木立の中で、御神木だけが温かい。
わたしは幹の前に戻った。
膝が震えていた。怖いのではなかった。何が怖いのかわからないから、体のほうが先に震えていた。
掌を、また幹に当てた。
温かい。
人の肌ほどではない。もっと低い。ずっと低い。けれど、たしかに、そこにだけ温度がある。
わたしは幹に額をつけた。
樹皮が頬に食い込んで痛かった。
「咲さま」
声に出してみた。
答えるわけがないと思っていた。
答えなかった。
風が枝を鳴らした。ただそれだけだった。
わたしは離れて、袖で顔を拭いた。
顔を拭いてから、わたしは根元にしゃがんだ。
このまま下りる気になれなかった。
根が地面から盛り上がって、瘤になっている。その隙間に落ち葉が溜まっていた。わたしは、なんとなくそれを手でどけた。
指に、固いものが当たった。
石だと思って掘り出した。
石ではなかった。
櫛だった。
黄楊の櫛だ。歯が三本欠けている。土に埋まっていたぶんは黒くなっていて、出ていたぶんは白っぽく灼けていた。
わたしは掌に乗せて、しばらく見ていた。
花嫁は、荷物を持って山へ上がらない。
それは村の掟だ。子どものころから聞かされている。着物一枚と帯だけで上る。櫛も鏡も持たない。
持たないはずのものが、ここにある。
わたしは、櫛の背を指でこすった。
彫りがあった。土を落とすと、細い線が出てきた。花だ。梅か桜か、わからない。持ち主が誰かに彫らせたのか、買ったときからあったのか。
いいものではなかった。安い櫛だ。
安い櫛を、掟を破って、この人は袂に入れてきた。
わたしは、また泣きそうになって、堪えた。
三十年、この木の下にある。
村の男が毎年ここへ来て、縄を掛け替えて、酒を供えて、手を叩いて帰る。誰も落ち葉をどけない。
わたしは櫛を元のところに戻した。
戻してから、少し迷って、また拾った。
袂に入れた。
盗んだのだと思った。
思ったけれど、置いていくほうが、もっと悪い気がした。
*
参道を下りる途中で、宮守様に会った。
驚いた。あの人が家の外にいるのを見たのは、はじめてだった。
杖をついて、道の脇の石に腰かけている。息が上がっていた。八十を越えた人が上るような道ではない。
「宮守様」
「ああ」
わたしを見て、驚かなかった。
「上ったか」
「はい」
「触ったか」
わたしは息を止めた。
訊かれるとは思っていなかった。
「触りました」
「そうか」
それだけだった。
この人は、知っている。
温かいということを、知っている。知っていて、五十年か六十年か、毎年あの木に注連縄を掛けている。
「宮守様。あの木は」
「あさ」
すぐさま遮られた。
「訊いてはいけません」
三日前と同じ言葉だった。
わたしはそこで、いつもなら引き下がっていた。この人はいつも同じところで黙る。訊いても無駄だと、三日で学んでいた。
けれど、この日は違った。
「なぜ、道を直しておられるんですか」
宮守様の顔が、動いた。
草が刈ってある。崩れたところに丸太が渡してある。誰かが手入れをしている。村の者が上る道ではない。花嫁が七日に一度上る道でもない。
この人が、一人で、通っている。
「宮守様は、あの木に、何を」
「あさ」
声が、すこし変わった。
「わしは、掛け替えに行くだけです」
嘘だ、と思った。
思ったけれど、言えなかった。
宮守様は杖をついて立ち上がった。よろけて、わたしが手を出すと、その手を避けた。避けてから、すまん、と言った。
この人が謝るのを、はじめて聞いた。
それから、下りていった。
わたしは道の真ん中に立って、その背中を見ていた。
背中が、小さかった。
*
村へ下りて、わたしは常吉さんの家へ寄った。
咲さまの、甥にあたる人だ。四十すこし。田を三反持っていて、去年、下の子が生まれた。
庭で鍬の柄をすげ替えていた。わたしを見て、笑った。人のいい人だ。子どものころ、柿をもらったことがある。
「常吉さん。咲さまのこと、うかがってもいいですか」
常吉さんの手が、止まらなかった。
止まらないまま、こう言った。
「おらの伯母だな」
「はい」
「どんな人だったか、覚えておられますか」
「覚えとらんよ。おらが生まれる前だ」
鍬の柄を、木槌で叩いている。
「お母さまから、何か」
「聞いとらん」
「一度も」
常吉さんは、そこで手を止めた。
止めて、木槌を置いて、それから、こちらを見ずに言った。
「あさちゃん。あれはもう、木だ」
わたしは黙った。
「木なんだよ。人じゃねえ。人だと思うから、おかしなことになる」
その言い方が、あんまり慣れていた。
考えて言ったのではない。何度も言ってきた言葉だ。たぶん、自分に向かって。
「常吉さん。あの木、温かいです」
常吉さんの肩が、動いた。
わたしは続けた。
「まわりの木は冷たいのに、あの木だけ温かいんです。触りました」
しばらく、何も言わなかった。
蝉が鳴いていた。
それから、常吉さんは木槌を拾った。
「日が当たっとるからだろ」
叩きはじめた。
こん、こん、と、さっきより強く。
「日が当たっとるからだ」
二度言った。
わたしは礼をして、庭を出た。
門のところで振り返ると、常吉さんはまだ叩いていた。柄はもう、とっくに入っていた。
*
家に帰って、わたしは母に訊いた。
「かあさん。咲さまの唄って、ある」
母は洗い物をしていた。
「咲さま」
「木の花嫁の」
母は少し考えて、ないねえ、と言った。
「芙美さまのはあるのに」
「芙美さまは、亡くなったからねえ」
わたしは、そこで手が止まった。
母は何気なく言ったのだ。深い意味はない。
けれど、その一言で、わたしはようやく気づいた。
この村は、死んだ花嫁の唄を作る。
唄になるということは、終わったということだ。終わったから、思い出にできる。可哀想だったと言って、泣かないで、子どもに歌わせられる。
咲さまの唄がないのは。
まだ、終わっていないからだ。
わたしは台所を出て、奥の部屋に座った。
いまも御名山に在り。
いまも、と、この村は書いた。
書いておいて、誰も見に行かない。年に一度、縄だけ掛け替えて、幸せであったことにしている。
三十年。
あの人は、三十年、あそこに立っている。
立って、何をしているのだろう。
何を、見ているのだろう。
*
その夜も、山は鳴った。
わたしは蚊帳の中で、掌を見ていた。暗くて見えなかったけれど、見ていた。
まだ温度が残っている気がした。気のせいだ。半日たっている。
多鶴は消された。しのは焼かれた。芙美は沈められた。
咲さまは、幸せなのだと村は言う。
この村でただ一人、うまくいった花嫁なのだと言う。
うまくいくというのは、木になることなのか。
あしたは五人目を読む。金の花嫁、と目次にはあった。
村を出て、まだ生きている人だ。村の女たちが、その名を出すときだけ、声を低くする人だ。
山が鳴った。
わたしはまだ、それを「音」と呼んでいた。




