第三話 水の花嫁
三。水の花嫁、芙美。
旱の年、村を救はんとて、みづから沈みぬ。
声を惜しまざりき。みづから出づることなし。
芙美は幸せであつた。
*
三人目の頁を開いて、わたしは最初に、字を見た。
中身ではなく、字だ。
多鶴の頁と、しのの頁は、おなじ細い筆で書かれている。固くて、行儀のいい、男の字だ。宮守の家の誰かが書いたのだろうと思っていた。
芙美の頁は、それとまるで違った。
細い。けれど柔らかい。仮名が多くて、漢字が少ない。行の終わりが、いつもすこし右へ流れている。書き慣れた人の字だ。書き慣れているのに、遠慮のある字だ。
女の字だった。
わたしは指を止めた。
多鶴のことも、しののことも、村の誰かが書いた。この人のことだけ、この人が書いている。
五十年前の七久里に、自分で自分の頁を書ける女がいた。
わたしはそれを、しばらく信じられずにいた。
*
書いてあることは、村じゅうが知っている話だった。
五十年前、七久里は旱に見舞われた。田が割れて、井戸が涸れて、沼の水位が下がった。村は水の花嫁を送ることにした。芙美という娘が選ばれて、沼に沈んだ。
雨は降った。
だからこの話は、七久里でいちばん語られる。祭りのときには子どもが唄にして歌う。可哀想な芙美さま、村のために沈んだ芙美さま。母もその唄を知っていた。
村を救はんとて、みづから沈みぬ。
自ら、沈んだ。
声を惜しまざりき。
惜しみなく祈った、ということだろう。最後まで水の底で村のために祈り続けた、と、そう読める。子どもの唄もそう歌っている。
みづから出づることなし。
自ら出ることはなかった。逃げなかった。最後まで留まった。
だから、よい花嫁だった。
わたしは四行を三度読んで、それから顔を上げた。
多鶴は「問わなかった」から、よい花嫁だった。
しのは「逆らった」から、悪い花嫁だった。
芙美は「留まった」から、よい花嫁だった。
三人とも、何をしたかではなく、村の言うことを聞いたかどうかで採点されている。
この帳面は、花嫁の記録ではない。
――村の採点表なのだ。
*
沼へ行こうと思ったのは、午を過ぎてからだった。
村の西の外れから、細い道が一本、山の裾へ入っていく。子どものころ、あの道の先へ行ってはいけないと言われた。理由は聞かなかった。理由を聞かない子どもだけが、この村ではよい子どもと呼ばれた。
道は思ったより歩きやすかった。草が刈られている。
誰かが通っているのだ。
半町ほど行ったところで、水の音がした。
沢だった。細い流れが、右手の斜面から落ちて、道を横切っている。石を伝って渡ろうとして、わたしは足を止めた。
流れが、途中で止まっていた。
斜面の上のほうに、木を組んだものがある。
堰だった。
わたしは道を外れて、斜面を上った。
丸太を三本、横に渡して、そこに板を打ちつけてある。板の隙間は土と枝で塞いであった。せき止められた水が、上の方に溜まって、小さな溜まりを作っている。溜まりからは、別の樋が一本、村のほうへ向かって伸びていた。
わたしはしゃがんで、丸太に手を触れた。
白かった。
切り口が白くて、木肌がまだ湿っている。触ると、指に樹の脂がついた。
去年のものでも、一昨年のものでもない。
この夏だ。
わたしは立ち上がって、樋の向かう先を目で追った。斜面の下、木のあいだから、屋根が見えた。七久里の田が広がっているほうだ。
水は、村へ引かれている。
沼へは、行っていない。
しばらく、そこに立っていた。蝉がうるさかった。
五十年前、村は旱になって、沼が涸れて、娘を沈めた。
旱があったこと自体は、たぶん本当だ。田は割れたのだろうし、井戸も涸れたのだろう。
けれど。
わたしは白い切り口をもう一度見た。
五十年前も、村は同じことをしていたのではないか。
*
沼は、思っていたより小さかった。
道の突き当たりに、いきなり水面がある。木が真上まで枝を伸ばしていて、日が入らない。水は黒くて、底が見えなかった。風がないので、面が動かない。
岸に、平たい石が一つ据えてあった。
供物を置く石だろう。今は何も乗っていない。かわりに、石のまわりに古い花の茎が散らばっていた。誰かが置いて、そのまま朽ちたのだ。
石の面が、乾いていた。
わたしは、そこで妙だと思った。
供物を置く石なら、水のすぐそばに据えるものだ。手を伸ばせば洗える場所に置く。うちの井戸端の石だって、そういう置き方をしてある。
けれど、この石と水面のあいだには、わたしの足で二歩ぶんの土があった。
膝をついて、その土に触れた。
乾いていない。
黒くて、湿っていて、指で押すと沈んだ。爪の先に、細かい砂がついた。
ついこのあいだまで、ここは水の底だった。
わたしは立ち上がって、岸の岩を見た。
線がある。
わたしの掌ほどの高さのところに、横一文字の線が渡っていた。誰かが引いたのではない。長いこと水がそこまであったから、その上と下で岩の色が違うのだ。
線から下は、黒い。
線から上は、白い。
その白いところが、まだ乾ききっていなかった。
最近だ。
この沼は、いま、減っている。
わたしは、来た道のほうを振り返った。
木のあいだの、あの斜面の上に、白い切り口の丸太がある。
沢は、止まっている。
止めた水は、村の田へ行っている。
五十年前、この沼が涸れて、村は娘を沈めた。
そして、いま。
わたしは首の後ろが冷たくなるのを感じた。
この村は、五十年前と同じことをしているのではない。
同じことを、いま、している。
わたしは石の前にしゃがんで、黒い水を見た。
この下に、人がいる。
そう思ったとき、帳面の一行が浮かんだ。
みづから出づることなし。
わたしは息を止めた。
自ら出ることはなかった、と読んでいた。逃げなかった、という意味だと思っていた。
けれど。
水から出ることはなかった、とも読める。
同じ音だ。同じ仮名だ。
この人は、上がっていない。
五十年前に沈められて、そのまま、まだここにいる。
わたしは立ち上がって、後ずさった。足の裏が滑って、片手を地面についた。土が濡れていた。
水の面は、動かなかった。
*
墓地に着いたときには、日が傾いていた。
三番目の台座。苔の下に「水」の字が見えていた石だ。
わたしは持ってきた手拭いで、苔をこすった。爪を立てて剥がした。指の腹が緑になって、爪の間に土が入った。
文字が出てきた。
水の花嫁 芙美
その下に、年が刻んである。
わたしは指でなぞって、読んだ。
旱の年と、合っていた。
合っていて、けれど、わたしは手を止めた。
合っている、ということは。
村は嘘をついていない。旱はあった。芙美は沈んだ。年も合っている。
嘘をついていないのに、話が全部ちがう。
しののときは、年号が合わなかった。数えたら合わなかったから、村が嘘をついているとわかった。
この人のときは、数えても合ってしまう。
嘘がないのだ。書いてあることは、ひとつも間違っていない。
ただ、水を止めたのが誰かということだけが、書いていない。
いちばん上手な嘘は、嘘を言わないことだった。
*
家に帰ると、母が台所にいた。
わたしは上がり框に腰を下ろして、しばらく水を飲んだ。喉が渇いていた。それから、なるべく何でもないふうに訊いた。
「かあさん。芙美さまの唄って、覚えてる」
母の手が止まった。
わたしはてっきり、嫌な顔をされると思っていた。花嫁のことを訊けば、この村の大人はみんな困った顔をする。宮守様も、吉造さんも、そうだった。
母は、笑った。
「よく知ってるねえ」
そして、歌いはじめた。
包丁で葱を刻みながら、菜切り板を打つ音に合わせて、はずむような調子で。
あめふれ あめふれ
ふみさまが しずむ
しずむ しずむ
なないろの そこへ
あめふれ あめふれ
ふみさまは わらってる
わたしは湯呑みを持ったまま、動けなくなった。
とんとん、と葱を刻む音がする。
「もっと先があるの」
「あるよ。三番まであってねえ」
母は、まだ笑っていた。手も止まらない。
あめふれ あめふれ
ふみさまが しずむ
むらのため しずむ
だれも なかない
だれも なかない
ふみさまが わらうから
「かあさん」
「なあに」
「これ、子どもの唄なの」
「そりゃあ、そうさ。あんたも歌ってたよ」
覚えていなかった。
覚えていないのに、節は知っていた。母が歌いはじめた最初の一音で、次に来る音がわかった。この唄は、わたしの中にもう入っている。
だれも なかない。
わたしは湯呑みを置いた。
人が一人、沼に沈められて、それを見送った村が、誰も泣かなかった。それを子どもの唄にして、子どもに歌わせて、五十年、村じゅうで歌い継いでいる。
泣かなかったことを、誇っている。
「かあさん。芙美さまは、笑ってたの」
「唄ではね」
母はそこで、はじめて手を止めた。
止めて、こちらを見ずに、言った。
「そう歌わないと、可哀想だからねえ」
わたしは、その一言を何度も頭の中でひっくり返した。
可哀想だから、笑っていたことにする。
可哀想だと思っているのだ。この人たちは、ちゃんと。
思っていて、それでも唄にする。手を動かしながら歌える程度のものにして、子どもに渡す。そうすれば、来年もまた誰かを沈められる。
可哀想だと思うことと、やめることは、この村では別のことだった。
「かあさん」
「なあに」
「わたしが山へ上がったら、唄、作るの」
母は答えなかった。
葱を刻む音だけが、しばらく続いた。
*
姉は、縁側に座っていた。
珍しかった。姉は日のあるうちは土間にいる。
わたしが上がると、姉は膝の上で手を組んだまま、庭のほうを見ていた。わたしはその横に座った。
台所から、まだ音がしていた。
しばらく黙っていた。
姉の草履が、濡れていた。
わたしはそれを見て、何も言わなかった。訊いても答えないからではない。
どこへ行ってきたのか、わかってしまった気がしたからだ。
姉の草履の縁に、細かい土がついていた。黒い土だった。
村の土は、赤い。
*
その夜も、山は鳴った。
わたしは蚊帳の中で、四行を思い出していた。
声を惜しまざりき。
あれは、祈りのことだろうか。
惜しまなかったというなら、その声は、誰に向かっていたのだろう。
神にか。
村にか。
あしたは四人目を読む。木の花嫁、と目次にはあった。御神木になった人だ。この村でただ一人、幸せに終わったと言われている人だ。
山が鳴った。
わたしはまだ、それを「音」と呼んでいた。




