第二話 火の花嫁
二。火の花嫁、しの。
神、荒ぶりて社を焼く。しの、焼け死ぬ。
この年より、花嫁は神に逆らふべからず。
しのは幸せであつた。
*
朝いちばんに、わたしは掟を破った。
一日に一人ぶん。そう言われていたのに、わたしは花嫁帳の頁を最後まで繰った。中を読んだのではない。それぞれの頁の、いちばん下の一行だけを見た。
多鶴は幸せであつた。
しのは幸せであつた。
芙美は幸せであつた。
咲は幸せであつた。
ときは幸せであつた。
五つ。太い筆。濃い墨。字の傾きも、はねの癖も、全部おなじだった。
九十年のあいだに死んだり山に残ったりした五人の頁の、いちばん下の一行だけが、同じ人の手で、たぶん同じ日に、まとめて書き足されている。
六人目の頁には、その一行がなかった。
姉の頁だ。
名前も、年も、何も書かれていない。まっさらな和紙が一枚、綴じられているだけだった。
わたしは冊子を閉じて、しばらく畳を見ていた。膝が冷たかった。それから箱に戻して、蓋をした。
*
二人目の頁は、多鶴のときより長かった。
といっても四行だ。けれど、その四行には恐ろしいことが書いてある。
しのは山へ上がって、七日で神を怒らせた。神は荒ぶって社を焼いた。しのはその中で焼け死んだ。以来、七久里では花嫁に「決して逆らってはならぬ」と教える。
わたしは何度も読み返した。
読み返して、あることに気がついた。
しのが何を言ったのか、書いていない。
どう逆らったのかも、何を望んだのかも、どんな声の人だったのかも、ひとつも書いていない。書いてあるのは、上がった、怒らせた、焼かれた、死んだ。それだけだった。
多鶴のときは「ひとことも問はず」と書いてあった。少なくとも、言わなかったということが書いてあった。
しのには、言ったとも言わなかったとも書いていない。
この人の言葉は、村にひとつも残っていない。
*
大工の吉造さんの家は、村の下の、川に近いところにある。
代々の大工で、七久里のたいていの家はこの一族が建てている。うちの座敷の欄間も、宮守の家の梁も、この家の誰かが刻んだものだ。
吉造さんは六十を過ぎて、まだ現役だった。指の節が太くて、爪が平たい。
土間は檜の匂いがしていた。削り屑が足首まで積もっていて、踏むと乾いた音を立てる。わたしはその音で自分の来訪を知らせるかたちになった。
吉造さんは鉋をかける手を止めて、わたしの顔をしばらく見た。それから「ああ」と言った。
「日の花嫁さんか」
もう村じゅうが知っているのだと、そのときわかった。
「奥宮のことを、うかがいたいんです」
「奥宮、とな」
「一度焼けて、建て直したと聞きました。建てたのは、こちらの家ですか」
吉造さんは鉋を置いて、手拭いで首を拭いた。
「うちの曾祖父さんの代だな」
「記録は、残っていますか」
残っていた。
奥の間の箪笥から出てきたのは、紐で綴じた分厚い帳面と、板を包んだ油紙だった。板は棟札の写しだという。本物は奥宮の梁に打ちつけてあって、下ろせない。
「普請帳だ。柱の本数から、日雇いの飯の数まで書いてある」
わたしは膝をついて、頁をめくった。
墨が薄い。字が細かい。それでも、いちばん上の年号は読めた。
明治四年。
わたしは棟札の写しを見た。焼けた年が書いてある。
万延元年。
指で数えた。二度数えた。
「吉造さん」
「うん」
「社が焼けてから、建て直すまで、十一年ありますか」
吉造さんは頷いた。
「あるな」
「十一年、誰も建てなかったんですか」
「そう書いてある」
わたしは頁を戻して、はじめの一枚をもう一度見た。
普請帳のいちばん上には、施主の名を書く欄がある。うちが納屋を直したときも、父の名が書いてあった。
そこに、七久里村とは書いていなかった。
宮守の家の名が、一軒だけ書いてあった。
「吉造さん。この普請は、村が出したんじゃないんですか」
「宮守さんとこの持ち出しだな」
「村は、一銭も」
「そう書いてある」
わたしは頁の端に、細い字の書き込みがあるのに気づいた。本文とは別の筆で、余白に小さく走らせてある。
この普請、口外無用と申しつけらる。
「これは」
「曾祖父さんの字だ」
吉造さんは、それきり黙った。
わたしは油紙の上に手を置いたまま、動けなかった。
神が怒って社を焼いて、花嫁が焼け死んだ。それから村は十一年、そこを焼けたままにしておいた。
怖かったのなら、すぐに建て直すはずだ。詫びるはずだ。何かをするはずだ。
十一年というのは、それを一度も思い出さずに済んだ年数だ。
*
「疫病の年のことは、聞いていますか」
わたしが訊くと、吉造さんは天井を見た。
「聞いとる。うちの仏壇に位牌が四つ並んどるからな。曾祖父さんの兄弟だ」
そこで、少し言葉が切れた。
「最後の一つが、安政六年だ」
わたしは棟札の写しに目を戻した。
しのが山へ上がったのも、社が焼けたのも、万延元年だ。
安政六年の次の年が、万延元年だった。
「吉造さん。疫病は、いつ止んだんですか」
「だから安政六年だ。それから死人は出とらん」
わたしは膝の上で拳を握った。
しのは、疫病を鎮めるために山へ送られたと、そう聞かされてきた。村じゅうがそう言う。
けれど疫病は、しのが上がる前の年に、もう止んでいる。
「では、なぜ送ったんですか」
吉造さんは答えなかった。
この村の年寄りは、みんなおなじところで黙る。
わたしはもうひとつ訊いた。
「しのという人は、どんな人だったか、聞いていませんか。どんな声で、どんなふうに笑う人だったとか」
吉造さんは、今度は困った顔をした。困った顔をされたのは初めてだった。
「そういうことはな、あさちゃん。誰も言い残さんのだ」
わたしは油紙を畳んで返した。
「怖ろしいもんの言うことは、覚えとっても、言わんもんだ」
わたしは、そこで引き下がるつもりだった。
けれど、ひとつだけ思いついたことがあった。
「吉造さん。しのさまは、どこの家の娘さんですか」
木槌を持つ手が、止まった。
止まって、それきり動かなかった。
「七久里の家なら、いまも誰かおられますよね。甥御さんとか、姪御さんとか。咲さまには常吉さんがおられます」
吉造さんは、答えなかった。
わたしは待った。
この村の年寄りは、みんなおなじところで黙る。けれど、この黙り方は、さっきまでのと少し違った。
困っているのではない。
言うべきかどうかを、迷っている。
やがて、吉造さんは木槌を置いた。
「あさちゃん」
「はい」
「あの人はな。七久里の者じゃねえ」
わたしは、顔を上げた。
「どこの」
「知らん。曾祖父さんも知らんかった。よそから来た娘だと、それだけだ」
風が、削り屑を少し動かした。
「うちの過去帳にも、村の人別にも、あの人の名はねえよ。おらは若いころ、一度探したことがある。社を建てた家だからな。気になってな」
吉造さんは、そこで乾いた笑い方をした。
「なかった。どこにも」
わたしは、油紙を膝の上に置いたまま、その言葉を頭の中でくり返した。
名が、ない。
村は、しのという人が来たことも、いたことも、どこにも書いていない。
書いてあるのは、帳面の四行だけだ。
神を怒らせ、社を焼かれ、焼け死んだ。
その四行だけが、この人の一生の全部だ。
「では、しのさまは、なぜ花嫁になったんですか」
吉造さんは、また木槌を持った。
「よその娘なら、村は困らんかったんだろ」
こん、と、一度だけ叩いた。
「それだけのことさ」
わたしは、何も言えなかった。
誰も言い残さないのは、怖ろしいからだと、さっきこの人は言った。
そうではない。
覚えている人が、はじめからいなかったのだ。
身内でない娘の言葉を、この村が覚えておく理由は、ひとつもなかった。
*
帰り道、墓地に寄った。
二番目の台座に乗っている石は、黒く焼けている。
昨日は遠目に見ただけだった。近づいてしゃがむと、字はほとんど溶けていた。読めるのは、いちばん下の一画だけだ。何の字だったのかもわからない。
焼けた墓石というものを、わたしはそのとき初めて考えた。
しのが焼け死んだのは山の上だ。奥宮の中だ。
墓は、ここにある。村の東の斜面の、杉の下だ。
山の火が、こんなところまで届くはずがない。
人が焼け死んだのなら、焼けるのは人だ。墓石は焼けない。
この石は、あとから焼かれている。
わたしは立ち上がって、右端の台座を見た。多鶴の分だ。四角い痕があって、その中にだけ苔がない。
こちらは石を持ち去った。
こちらは石を焼いた。
やっていることは、おなじだった。
名前を、読めなくしている。
*
家に帰って、わたしは奥の部屋から硯と筆を持ち出した。
紙も一枚。
土間で豆を選っている姉の前に、それを並べて置いた。
「姉さん」
姉の手が止まった。
「訊きたいことがあるの。声じゃなくていい。書いて」
姉は、筆を見なかった。紙も見なかった。わたしの顔も見なかった。
豆を選る手が、また動きはじめた。
からから、と音がした。
「姉さん。しのって人のこと、何か知ってる」
からから。
「山で、聞かなかった」
からから。
「姉さん、あの帳面の姉さんの頁、白紙だよ。何も書いてない。姉さんだけ」
手が止まった。
止まっただけだった。
わたしは一時間ほどそこに座って、それから硯と筆と紙を下げた。姉は最後まで、そちらを見なかった。
見ないようにしているのだと、わたしにはわかった。
見ないようにするには、そこに何があるか知っていなければならない。
*
その夜も、山は鳴った。
わたしは蚊帳の中で、五つの「幸せであつた」を思い出していた。
あれを書いた人は、五人ぶんをまとめて書いた。ということは、五人目のときが山を下りたあとに書いたということだ。十五年より新しい。
そして姉の頁だけ、書いていない。
書けなかったのか。書かなかったのか。
しのは焼け死んだ。多鶴は墓ごと消された。
あしたは三人目を読む。水の花嫁、と目次にはあった。
山が鳴った。
わたしはまだ、それを「音」と呼んでいた。




