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七曜の花嫁 ~嫁いだ六人は、すべて幸せであつた~  作者: 御子柴 流歌
第一章 記録

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2/14

第二話 火の花嫁



 二。火の花嫁、しの。

 神、荒ぶりて社を焼く。しの、焼け死ぬ。

 この年より、花嫁は神に逆らふべからず。

 しのは幸せであつた。



    *



 朝いちばんに、わたしは掟を破った。


 一日に一人ぶん。そう言われていたのに、わたしは花嫁帳の頁を最後まで繰った。中を読んだのではない。それぞれの頁の、いちばん下の一行だけを見た。


 多鶴は幸せであつた。


 しのは幸せであつた。


 芙美は幸せであつた。


 咲は幸せであつた。


 ときは幸せであつた。


 五つ。太い筆。濃い墨。字の傾きも、はねの癖も、全部おなじだった。


 九十年のあいだに死んだり山に残ったりした五人の頁の、いちばん下の一行だけが、同じ人の手で、たぶん同じ日に、まとめて書き足されている。


 六人目の頁には、その一行がなかった。


 姉の頁だ。


 名前も、年も、何も書かれていない。まっさらな和紙が一枚、綴じられているだけだった。


 わたしは冊子を閉じて、しばらく畳を見ていた。膝が冷たかった。それから箱に戻して、蓋をした。



    *



 二人目の頁は、多鶴のときより長かった。


 といっても四行だ。けれど、その四行には恐ろしいことが書いてある。


 しのは山へ上がって、七日で神を怒らせた。神は荒ぶって社を焼いた。しのはその中で焼け死んだ。以来、七久里では花嫁に「決して逆らってはならぬ」と教える。


 わたしは何度も読み返した。


 読み返して、あることに気がついた。


 しのが何を言ったのか、書いていない。


 どう逆らったのかも、何を望んだのかも、どんな声の人だったのかも、ひとつも書いていない。書いてあるのは、上がった、怒らせた、焼かれた、死んだ。それだけだった。


 多鶴のときは「ひとことも問はず」と書いてあった。少なくとも、言わなかったということが書いてあった。


 しのには、言ったとも言わなかったとも書いていない。


 この人の言葉は、村にひとつも残っていない。



    *



 大工の吉造さんの家は、村の下の、川に近いところにある。


 代々の大工で、七久里のたいていの家はこの一族が建てている。うちの座敷の欄間も、宮守の家の梁も、この家の誰かが刻んだものだ。


 吉造さんは六十を過ぎて、まだ現役だった。指の節が太くて、爪が平たい。


 土間は檜の匂いがしていた。削り屑が足首まで積もっていて、踏むと乾いた音を立てる。わたしはその音で自分の来訪を知らせるかたちになった。


 吉造さんは鉋をかける手を止めて、わたしの顔をしばらく見た。それから「ああ」と言った。


「日の花嫁さんか」


 もう村じゅうが知っているのだと、そのときわかった。


「奥宮のことを、うかがいたいんです」


「奥宮、とな」


「一度焼けて、建て直したと聞きました。建てたのは、こちらの家ですか」


 吉造さんは鉋を置いて、手拭いで首を拭いた。


「うちの曾祖父さんの代だな」

「記録は、残っていますか」


 残っていた。


 奥の間の箪笥から出てきたのは、紐で綴じた分厚い帳面と、板を包んだ油紙だった。板は棟札の写しだという。本物は奥宮の梁に打ちつけてあって、下ろせない。


「普請帳だ。柱の本数から、日雇いの飯の数まで書いてある」


 わたしは膝をついて、頁をめくった。


 墨が薄い。字が細かい。それでも、いちばん上の年号は読めた。


 明治四年。


 わたしは棟札の写しを見た。焼けた年が書いてある。


 万延元年。


 指で数えた。二度数えた。


「吉造さん」


「うん」


「社が焼けてから、建て直すまで、十一年ありますか」


 吉造さんは頷いた。


「あるな」


「十一年、誰も建てなかったんですか」


「そう書いてある」


 わたしは頁を戻して、はじめの一枚をもう一度見た。


 普請帳のいちばん上には、施主の名を書く欄がある。うちが納屋を直したときも、父の名が書いてあった。


 そこに、七久里村とは書いていなかった。


 宮守の家の名が、一軒だけ書いてあった。


「吉造さん。この普請は、村が出したんじゃないんですか」


「宮守さんとこの持ち出しだな」


「村は、一銭も」


「そう書いてある」


 わたしは頁の端に、細い字の書き込みがあるのに気づいた。本文とは別の筆で、余白に小さく走らせてある。


 この普請、口外無用と申しつけらる。


「これは」


「曾祖父さんの字だ」


 吉造さんは、それきり黙った。


 わたしは油紙の上に手を置いたまま、動けなかった。


 神が怒って社を焼いて、花嫁が焼け死んだ。それから村は十一年、そこを焼けたままにしておいた。


 怖かったのなら、すぐに建て直すはずだ。詫びるはずだ。何かをするはずだ。


 十一年というのは、それを一度も思い出さずに済んだ年数だ。



    *



「疫病の年のことは、聞いていますか」


 わたしが訊くと、吉造さんは天井を見た。


「聞いとる。うちの仏壇に位牌が四つ並んどるからな。曾祖父さんの兄弟だ」


 そこで、少し言葉が切れた。


「最後の一つが、安政六年だ」


 わたしは棟札の写しに目を戻した。


 しのが山へ上がったのも、社が焼けたのも、万延元年だ。


 安政六年の次の年が、万延元年だった。


「吉造さん。疫病は、いつ止んだんですか」


「だから安政六年だ。それから死人は出とらん」


 わたしは膝の上で拳を握った。


 しのは、疫病を鎮めるために山へ送られたと、そう聞かされてきた。村じゅうがそう言う。


 けれど疫病は、しのが上がる前の年に、もう止んでいる。


「では、なぜ送ったんですか」


 吉造さんは答えなかった。


 この村の年寄りは、みんなおなじところで黙る。


 わたしはもうひとつ訊いた。


「しのという人は、どんな人だったか、聞いていませんか。どんな声で、どんなふうに笑う人だったとか」


 吉造さんは、今度は困った顔をした。困った顔をされたのは初めてだった。


「そういうことはな、あさちゃん。誰も言い残さんのだ」


 わたしは油紙を畳んで返した。


「怖ろしいもんの言うことは、覚えとっても、言わんもんだ」


 わたしは、そこで引き下がるつもりだった。


 けれど、ひとつだけ思いついたことがあった。


「吉造さん。しのさまは、どこの家の娘さんですか」


 木槌を持つ手が、止まった。


 止まって、それきり動かなかった。


「七久里の家なら、いまも誰かおられますよね。甥御さんとか、姪御さんとか。咲さまには常吉さんがおられます」


 吉造さんは、答えなかった。


 わたしは待った。


 この村の年寄りは、みんなおなじところで黙る。けれど、この黙り方は、さっきまでのと少し違った。


 困っているのではない。


 言うべきかどうかを、迷っている。


 やがて、吉造さんは木槌を置いた。


「あさちゃん」


「はい」


「あの人はな。七久里の者じゃねえ」


 わたしは、顔を上げた。


「どこの」


「知らん。曾祖父さんも知らんかった。よそから来た娘だと、それだけだ」


 風が、削り屑を少し動かした。


「うちの過去帳にも、村の人別にも、あの人の名はねえよ。おらは若いころ、一度探したことがある。社を建てた家だからな。気になってな」


 吉造さんは、そこで乾いた笑い方をした。


「なかった。どこにも」


 わたしは、油紙を膝の上に置いたまま、その言葉を頭の中でくり返した。


 名が、ない。


 村は、しのという人が来たことも、いたことも、どこにも書いていない。


 書いてあるのは、帳面の四行だけだ。


 神を怒らせ、社を焼かれ、焼け死んだ。


 その四行だけが、この人の一生の全部だ。


「では、しのさまは、なぜ花嫁になったんですか」


 吉造さんは、また木槌を持った。


「よその娘なら、村は困らんかったんだろ」


 こん、と、一度だけ叩いた。


「それだけのことさ」


 わたしは、何も言えなかった。


 誰も言い残さないのは、怖ろしいからだと、さっきこの人は言った。


 そうではない。


 覚えている人が、はじめからいなかったのだ。


 身内でない娘の言葉を、この村が覚えておく理由は、ひとつもなかった。



    *



 帰り道、墓地に寄った。


 二番目の台座に乗っている石は、黒く焼けている。


 昨日は遠目に見ただけだった。近づいてしゃがむと、字はほとんど溶けていた。読めるのは、いちばん下の一画だけだ。何の字だったのかもわからない。


 焼けた墓石というものを、わたしはそのとき初めて考えた。


 しのが焼け死んだのは山の上だ。奥宮の中だ。


 墓は、ここにある。村の東の斜面の、杉の下だ。


 山の火が、こんなところまで届くはずがない。


 人が焼け死んだのなら、焼けるのは人だ。墓石は焼けない。


 この石は、あとから焼かれている。


 わたしは立ち上がって、右端の台座を見た。多鶴の分だ。四角い痕があって、その中にだけ苔がない。


 こちらは石を持ち去った。


 こちらは石を焼いた。


 やっていることは、おなじだった。


 名前を、読めなくしている。



    *



 家に帰って、わたしは奥の部屋から硯と筆を持ち出した。


 紙も一枚。


 土間で豆を選っている姉の前に、それを並べて置いた。


「姉さん」


 姉の手が止まった。


「訊きたいことがあるの。声じゃなくていい。書いて」


 姉は、筆を見なかった。紙も見なかった。わたしの顔も見なかった。


 豆を選る手が、また動きはじめた。


 からから、と音がした。


「姉さん。しのって人のこと、何か知ってる」


 からから。


「山で、聞かなかった」


 からから。


「姉さん、あの帳面の姉さんの頁、白紙だよ。何も書いてない。姉さんだけ」


 手が止まった。


 止まっただけだった。


 わたしは一時間ほどそこに座って、それから硯と筆と紙を下げた。姉は最後まで、そちらを見なかった。


 見ないようにしているのだと、わたしにはわかった。


 見ないようにするには、そこに何があるか知っていなければならない。



    *



 その夜も、山は鳴った。


 わたしは蚊帳の中で、五つの「幸せであつた」を思い出していた。


 あれを書いた人は、五人ぶんをまとめて書いた。ということは、五人目のときが山を下りたあとに書いたということだ。十五年より新しい。


 そして姉の頁だけ、書いていない。


 書けなかったのか。書かなかったのか。


 しのは焼け死んだ。多鶴は墓ごと消された。


 あしたは三人目を読む。水の花嫁、と目次にはあった。


 山が鳴った。


 わたしはまだ、それを「音」と呼んでいた。





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