第一話 月の花嫁
一。月の花嫁、多鶴。
三年、山に在り。ひとことも問はず。よき花嫁なりき。
多鶴は幸せであつた。
*
その夏、御名山が鳴っていた。
地鳴りとも雷とも違う不可思議な鳴り方だ。
或る夜半、寝床に入ってしばらくすると、床板の下から遠い咳のような音が伝わってくる。はじめは三日おきだった。
それが五日続き、この半月は毎晩だった。
村の者は誰もがそれを「音」とは呼ばなかった。『鳴っている』とだけ言った。あたかも名をつけると本当になってしまう、とでもいうように。
わたしに花嫁帳が渡されたのは、盆の来る前の、午をすこし過ぎた頃だった。
宮守の家は七久里でいちばん古い。梁が煤で黒くなって、昼でも奥が見えない。通されたのは仏間で、畳が湿っていて、座ると膝のあたりがひやりとした。
宮守様は薄い座布団の上に、背を丸めて座っていた。齢は八十をいくつか越えている。目のふちが赤く、瞼が半分落ちていて、こちらを見ているのかどうかもわたしからはわからない。
「あさ」
「はい」
「今日から七日、これを読みなさい」
膝の前に置かれたのは、桐の箱だった。蓋を上げてみると、そこには和紙を重ねて綴じた冊子が入っている。表に何も書いていない。宮守様が指を伸ばして、それを畳の上に滑らせた。
「それは『七久里花嫁帳』という物」
声が乾いていた。
「六人おられる。一日に一人ぶんだけ読みなさい。六日で六人。七日目に、おまえは自分の頁のはじめの一行を書く。それから山へ上がるのだ」
「一日に一人ぶん、というのは、なぜですか」
宮守様は答えなかった。
わたしはまだ十七の若輩者ではあるが、こういうときに黙っていられる性分でもなかった。さぞかし小生意気な転婆だと思われていることだろう。
姉が件の山から帰ってきたその年に女学校進級を諦めて、それから三年。それ以来わたしは家の中と畑と、姉のそばにしかいなかった。
訊くこと以外に何もできることがなかったのだと、いま思えばそうだ。
「七日目に書く一行は、決まっているのですか」
「決まっておらぬ」
「六人の方は、何と書かれたのですか」
「読めばわかる」
「読んで、もしわからなかったら……」
わたしが皆まで言う前に、瞼の下で目がわずかに動いた。
「あさ。おまえの嫁名を言う」
仏間の空気がすこし変わった。
「『日の花嫁』だ」
わたしは膝の上で手を握った。日、と口の中でくり返してみる。月、火、水、木、金、土、日。子どもの数え歌のように順に並べれば、たしかに次はそこだった。それだけのことだと思おうとした。
「これまでにない名だ。よい名だ」
「なぜそれが、よい名なのですか」
宮守様はやはり答えなかった。ただ、その手が袂を探って、皺の寄った手拭いを出した。額を拭いた。
仏間はひやりとするほど涼しかった。
*
多鶴の頁は、驚くほど薄かった。
冊子の最初にあって、紙は他より黄ばんでいる。墨も薄い。書かれているのは三行だけだった。
一。月の花嫁、多鶴。
三年、山に在り。ひとことも問はず。よき花嫁なりき。
多鶴は幸せであつた。
わたしは三度噛みしめるように読んで、それから頁をめくった。
次には二人目の花嫁の名があった。
慌てて戻した。一日に一人ぶんだと言われていた。これしかないのであれば先へ進んでは行けない。
しかし、これは少し困ってしまう。
なにせ、三行しかないものを、一日かけて読めというのだ。無理難題とは決して言えないが、厳しい時間になることは間違いない。
縁側に出て、膝に置いたまま日が傾くまでその頁を見ていた。
読むほどに、行と行のあいだが広くなっていく気がした。
視線で穴を穿てるのであれば、――もしかするとこの紙の上の文字も、あるいは行間すらも、影も形も無くなっているかもしれない。
しかし、だ。
三年もあの山にいて、それから多鶴はどうなったのか。
それについては、何も書いていない。下りたとも、死んだとも、書いていない。
――ひとことも問はず。
わたしはそこで指を止めた。よき花嫁なりき、と続いている。何も訊かなかったから、よい花嫁だった。そう書いてある。
わたしはさっきから、宮守様に四つ訊いて、四つとも答えてもらえていない。
三行目に気がついたのは、日が山の向こうに落ちてからだった。
筆が違うではないか。
筆跡などではない。この文字を書き記すのに使われた筆自体が違うということだ。
一行目と二行目は細い筆で、字が固い。三行目だけ、筆が太くて、墨が濃い。紙の黄ばみも三行目のあたりだけ薄いように見えた。同じ手が同じ日に書いたものではない。誰かが、あとから書き足している。
多鶴は幸せであつた。
いったい、誰が。
*
家に帰ると、姉が土間で豆を選っていた。
末姉さんは二十で、三年前に山へ上がって、半年で帰された。帰ってきたとき体には傷ひとつなくて、村の女たちはそれを見て安心して、そのあとで気味悪がった。
姉はあの日から、ただのひとことも喋らない。
医者は喉を診て、なんでもないと言った。母は最初のうち泣いて、次に怒って、いまはもう何も言わない。父は姉のいる部屋に入らない。
わたしは箱を上がり框に置いて、下駄を脱いだ。
姉の手が止まった。
豆を選る音が消えたので、わたしは振り返った。姉は箱を見ていた。桐の白い蓋を、瞬きもせずに見ていた。それから膝でにじり寄ってきて、両手をその上に置いた。
押さえた。
「姉さん」
姉は首を横に振った。ゆっくり、二度。目はわたしの顔ではなく、箱を見たままだった。
「読まなくちゃならないの。宮守様が」
首を振る。三度。
「わたし、『日の花嫁』になったんだって」
姉の手に力が入った。指の先が白くなるほど、桐の蓋を押さえていた。それから、ふっと力が抜けた。手をどけて、土間に戻って、豆を選りはじめた。
からから、と音がした。
わたしは箱を持って奥の部屋へ入った。襖を閉めてから、しばらく動けなかった。
三年、この人と暮らしてきて、姉がわたしに触れようとしたのはそれが初めてだったと気づいたからだ。触れられたのは箱だったけれど。
*
翌朝、わたしは墓地へ行った。
二日目の頁を読む前に、どうしても確かめたいことがあった。三行しかない人の、せめて墓だけでも見ておきたかった。多鶴という人が本当にいたのだと、字ではないところで確かめたかった。
七久里の墓地は村の東の斜面にある。
花嫁の墓はいちばん奥、杉が三本かたまって立っているところに並んでいると、幼いころに聞かされていた。だが、大人からの言いつけに相応しい――『行ってはならぬ』と言われていたので、わたしは行ったことはなかった。
もはや子供でもない年齢ではあるが、今こそ、その禁を破る時だった。
朝の草は濡れていて、足首から冷えた。転ばないように慎重に向かっていく。
そして、たしかに杉の下に、石の台座が六つ並んでいた。
右から数えて、三つには石が乗っていた。墓標と思しき部分には読める字と読めない字があった。二番目には黒く焼けた石が乗っていて、字は半分溶けたようになっていた。三番目には苔の下に、水という字だけが見えた。
四つめ、五つめ、六つめ、つまり左寄りの三つの台座には、何も乗っていない。台座だけがある。四つめは咲という人で御神木になったのだと聞いていた。五つめは金の花嫁で、山を下りて村を出て、まだ生きている。六つめは――わたしの姉だ。姉も生きている。だから空いている。それは理屈が通っていた。
わたしは右端に戻った。再度、今度は詳細に検分させていただくことにする。
一番目の台座には、何も乗っていなかった。
しゃがんで、指で撫でた。石の面がざらついていて、真ん中あたりだけ手ざわりが違う。四角く、そこだけつるりとしている。何かが長いあいだ乗っていて、動かされた跡だった。周りには苔があるのに、その四角の中にだけ苔がない。
持ち去られたのだろう。それも、うんと昔ではない。
わたしは草の上に座り込んで、その四角をずっと見ていた。
*
宮守の家に戻ったのは午前のうちだった。
「多鶴様のお墓が、ありません」
仏間の入口に立ったまま言った。宮守様は経机の前にいて、こちらを見なかった。
「台座はあります。石だけがありません。誰かが持って行ったんです。いつですか」
「あさ」
「一番目の花嫁の墓を、なぜ村が持ち去るんですか」
「あさ」
「多鶴様は、どこにおられるんですか」
宮守様の背中が動いた。息を吸う音がして、それから、しばらく何も聞こえなかった。
「訊いてはならぬ」
振り向かなかった。
「多鶴は幸せであった。それだけのこと」
わたしは、あの三行目を思い出した。太い筆。濃い墨。あとから書き足された一行。
いま、同じ声で言われた。
「宮守様」
答えはなかった。
*
その夜も、山は鳴った。
蚊帳の中で仰向けになって、床板の下の咳を聞いていた。隣の部屋で姉が寝返りを打つ音がした。姉も起きているのだろうと思った。
三年間、この音を聞くたびに、姉は何を思っていたのだろう。
わたしは訊けなかった。
訊いても答えは返らないからではない。
姉が答えられないことを、わたしがいちばんよく知っているからだ。
多鶴という人は、三年山にいて、ひとことも問わなかった。
村はそれをよき花嫁と書いた。
そして誰かが、あとから、幸せであったと書き足した。
あしたは二人目を読む。火の花嫁、と目次にはあった。
山が鳴った。
わたしは、それをまだ『音』と呼んでいた。




