第十話 水の花嫁
三。水の花嫁、芙美。
旱の年、村を救はんとて、みづから沈みぬ。
声を惜しまざりき。みづから出づることなし。
芙美は幸せであつた。
*
三日目の朝、わたしは柱に「おはようございます」と言った。
返事はなかった。
二日目の朝も、返事はなかった。
それでも言うことにした。返事のない相手に毎朝挨拶をするのは、この家では慣れている。
わたしは戸を開けて、外の水を汲んだ。社の裏に、細い湧きがある。昨日見つけた。
顔を洗って、口をすすいで、それから帯の米を少しだけ食べた。
残りを数えた。
三日目で、あと五日ぶんくらいだろうか。
わたしは、そのことを考えないようにした。
*
その日、山は静かだった。
わたしは社の前に座って、村を見ていた。
三日目にして、わかったことがある。
この人は、昼はほとんど何もしない。柱の形をして、そこにいる。夜になると濃くなって、話す。
人ではないのだと、わかる。
わかるのだけれど。
わたしは、昨夜のことを思い出していた。しのさまの声で喋ったときのことを。
あれは、人のすることだ。
七十年、誰かの言った二言を、忘れないでいる。
それは、人のすることだと思った。
*
日が落ちて、わたしは中に戻った。
板の間に座って、暗いところに向き合った。
「今日は、水の花嫁のことを伺います」
答えはなかった。
わたしは待った。
昨夜より、間が長かった。
昨夜の間は、探している間だった。今夜の間は、違った。
これは、開けたくないものの前で止まっている間だ。
「芙美さま、という方です」
「……知っている」
「どんな方でしたか」
また、長い間があった。
それから、こう言った。
「あれは、いつも、すまぬと言っていた」
わたしは、顔を上げた。
「すまぬ」
「なにを言うにも、はじめに、すまぬと言った」
わたしは、帳面の一行目を思い出した。
わたくしは、およばずながら。
自分の頁のいちばん最初の一行で、この人は自分を小さくしていた。
その癖を、ここでも使っていたのだ。
*
「芙美さまは、沼に沈められました」
「……そうだ」
「村が、沈めたんですか」
間があった。
「連れて行かれた」
わたしは、板についた手に力を入れた。
「いつですか」
「ここに来て、二月」
「二月」
「日の暮れに、村の者が上がってきた。四人いた。あれを、連れて行った」
声が、平らだった。
平らすぎた。
「あなたは」
わたしは、そこで言葉に詰まった。
「あなたは、止めなかったんですか」
答えはなかった。
わたしは、自分が言ってしまったことに気づいて、口を押さえた。
この人は、名を与えられなければ何もできない。それがどういうことか、わたしはまだよく知らない。けれど、昨夜、火が火を止められるかと言われた。
止められないのだ。
この人は、たぶん、いつも、止められない。
「すみません」
わたしは頭を下げた。
「いまのは、訊いてはいけないことでした」
長い間があった。
「……あれも、そう言った」
わたしは顔を上げた。
「え」
「連れて行かれるときに。すまぬ、と言った」
声が、少し掠れた。
「連れて行かれる者が、こちらに、すまぬと言った」
*
しばらく、どちらも黙っていた。
板戸が鳴った。風が出てきていた。
やがて、暗いところが動いた。
軋む音がして、床のほうへ、何かが下りてきた。
わたしは息を止めた。
板の上を、こちらへ、何かが押し出されてきた。
暗くて見えなかった。わたしは手を伸ばして、触れた。
紙だった。
油紙で包んである。指で探ると、中に薄いものが何枚か入っていた。
「これは」
「あれが、置いていった」
わたしは、包みを膝に乗せた。
「読んでもいいんですか」
「わからぬ」
声が、はじめて、ためらった。
「読めぬ」
わたしは、そこで息を吸った。
「五十年、持っておられたんですか」
「持っていろと言われた」
わたしは、油紙を開いた。
節穴から入る月の光では、足りなかった。わたしは戸を開けて、外の光の下に紙を出した。
月が、出ていた。
三日月だった。
*
字は、あの字だった。
細くて、柔らかくて、行の終わりが右へ流れる字。
わたしくしのやうな者が申しあげることではございませぬが、と、それは始まっていた。
*
わたくしのやうな者が申しあげることではございませぬが、上の沢に、堰がございます。
村の衆が、去年の秋に、お作りになりました。丸太を三本渡して、板を打ちつけて、隙間を土で塞いだものでございます。わたくしは、茸を採りにまゐりましたときに、それを見てをります。見てをりますゆゑ、申しあげずにゐられませぬ。どうか、お許しくださいまし。
沼が涸れましたのは、旱のせゐではございませぬ。
いえ、旱もございました。旱はたしかにございました。田は割れましたし、井戸も細うなりました。ですから、村の衆が水を引かうとなさいましたことも、わたくしは、責めることができませぬ。誰も、悪気があつたわけではございませぬ。
ただ、沼へまゐる水を止めましたのは、村でございます。
このことを、庄屋様に申しあげました。三度、申しあげました。
三度目に、水の花嫁の話が出ました。
わたくしは、それでも、申しあげるのをやめられませぬでした。やめられませぬのは、わたくしの至らぬところでございます。黙つてをればよいものを、と、母も申します。母の申しますことは、いつも正しうございます。
けれど、堰は、いまも、そこにございます。
わたくしがどうなりましても、堰は、そこにございます。
だから、申しあげます。
もし、わたくしが沼に沈みますことがございましたら、それは、みづからにはあらず、と、どうか、書きのこしてくださいまし。
わたくしは、およばずながら、そのことだけを、お願ひ申しあげます。
*
わたしは、紙を持ったまま、月の下に座り込んだ。
三度、申しあげました。
三度目に、水の花嫁の話が出た。
わたしは、帳面の一行を思い出した。
声を惜しまざりき。
村は、それを褒め言葉として書いた。惜しみなく祈った、と読めるように書いた。子どもの唄でもそう歌う。
違う。
この人は、喋るのをやめなかったのだ。
三度言って、四度言おうとして、それで沈められた。
惜しまなかった声は、祈りではない。
告発だ。
そして村は、それを、そのまま帳面に書いた。
嘘は書かなかった。
書いておいて、意味だけをひっくり返した。
*
わたしは、最後の一行をもう一度読んだ。
みづからにはあらず。
帳面には、こう書いてある。
村を救はんとて、みづから沈みぬ。
わたしは、指で空に字を書いた。
みづからにはあらず。
みづから、で切って、そのあとを消して、下に別の言葉を足せば。
みづから沈みぬ。
できる。
できてしまう。
わたしは、膝の上で紙を握りしめた。
村は、この人の遺言を読んだのだ。読んで、その通りに書いた。書いてから、四文字だけ塗り潰した。
この人は、書き残してくれと頼んだ。
村は、書き残した。
わたしは、月を見上げた。
声が、出なかった。
*
中に戻って、わたしは板の間に座った。
紙は、袂に入れた。
「あの」
「……なんだ」
「芙美さまの、お体は」
間があった。
「上がっていない」
わたしは、目を閉じた。
みづから出づることなし。
水から、出ることはなかった。
あの人は、いまも沼にいる。
五十年、あの黒い水の底に。
わたしは、そこで、急に息が詰まった。
昨日ではない。三日前だ。三日前に、わたしは沼へ行った。
供物の石が、水から二歩離れていた。
岩の水位線の上が、まだ乾ききっていなかった。
沼は、減っている。
いま、この夏、減っている。
新しい堰があるからだ。
村は、五十年前とまったく同じことをしている。
同じことをしていて、そして??
わたしは、立ち上がった。
沼が涸れたら。
あの人が、出てくる。
五十年、上がらなかった人が、村の田のために引かれた水の分だけ、出てくる。
わたしは、板の間に立ったまま、震えていた。
姉の草履を思い出した。
六足。三年で六足。底が擦り切れて、爪先に黒い土が染みついた草履。
毎日のように、沼へ通っている。
姉は。
姉は、水を見に行っているのだ。
三年、毎日、水がどこまで減ったかを、見に行っている。
わたしは、その場に座り込んだ。
姉は、知っている。
知っていて、喋れない。
いや、違う。
喋らないと決めている人が、三年、毎日あの道を歩いている。
あれは、見張りだ。
山が鳴った。
わたしは、まだ、なにも呼んでいない。




